ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その16)

2013-04-16 02:39:16 | 能楽


杖をつきながら登場した後シテは橋掛リ一之松で正ヘ向いて謡い出します。

後シテ「三瀬川沈み果てにしうたかたの。哀れはかなき身の行くへかな。
シテ「標梅花の光を並べては。娑婆の春をあらはし(と左トリ舞台へ入り)。
地謡「跡のしるべの燈火は(と幕の方を見る)。
シテ「真如の秋の。月を見する(と正ヘ杖をつき直す)。
シテ「さりながらわれは邪婬の業深き。思ひの煙の立居だに。安からざりし報ひの罪の。乱るゝ心のいとせめて。獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。打てや打てやと。報ひの砧。怨めしかりける(とワキヘ向きツメ)。因果の妄執(と正ヘ向きシオリ)。
地謡「因果の妄執の思ひの涙。砧にかゝれば(と正ヘ出)。涙はかへつて。火焔となつて(と手を下ろし正を見)。胸の煙の焔にむせべば(と下がり胸杖し面伏せ)。叫べど声が出でばこそ(と面を上げ)。砧も音なく(と聞き)。松風も聞えず(と橋掛リの松を見)。呵責の声のみ(正ヘ出杖を捨て)。恐ろしや(下がり下居ながら両手上げ耳をふさぎ)。

「三瀬川」は「三途の川」の意味、「標梅」は墓のしるしとしての梅、「跡のしるべの燈火」は弔いの燈火です。楽しかった春。。これは夫との蜜月時代でしょうね。そうして弔いの燈火(と秋の名月)は極楽に導く仏の教えを表しています。すなわち現世での楽しみと、死後の覚性とはともに身近にそのよすががあった事を意味しています。難しい言い回しですが、ぬえは「花の光を並べ」という表現にただならぬ作者の詩心を感じますね~。

「さりながら」と言うように、シテの妻はこれらの美しい思い出に幸福を感じることもなく、善き教えに気づくこともなく、夫に執心を持ち、恨んだ罪により地獄に墜ち、地獄の獄卒である阿防(あぼう=牛の頭を持った鬼)や羅刹(らせつ=食人鬼)により鞭打たれながら永久に砧を擣つ罰を与えられているのでした。

彼女が因果の報いなのだと悔やんでも、その涙は砧にかかると たちまち火焔となって燃え上がってその煙に咽び、悲鳴をあげようにも声も出ない有様。自分が打っている砧も音を出さず、夫のもとへ吹き送っておくれと頼んだ松風の音も聞こえない。ただ聞こえるのは阿防・羅刹が彼女を責めさいなむ声だけだ、と言うのです。う~ん、このへんはまさに能が大成した中世の時代の空気をよく伝えますね。『餓鬼草紙』『玉造小町子壮衰書』…末法の世の中に生きた人々の恐れがありありと見えてくるようです。太鼓が入る演出の場合(ぬえの師家では常にそうですが)では、ここまで太鼓が打たれますが、この重厚な文章には、まさに太鼓の重い音がふさわしいと思います。

地謡「羊の歩み隙の駒(と据え拍子)。羊の歩み隙の駒。移りゆくなる六つの道(と角へ行き正へ直し)。因果の小車の火宅の門を出でざれば(と左へ廻り)。廻り廻れども(中にてさらに左へ小さく廻り)。生死の海は離るまじや(と正ヘサシ込ヒラキ)あぢきなの憂き世や(と右へはずし打ち合わせ)。

「羊の歩み」は屠所へ引かれてゆく羊で、刻々と迫り来る死の喩え、「隙の駒」は狭い隙間を一瞬に駆け通る馬で、人生の短さを表します。ここでは「遅かれ早かれ」という程度の意味で「六つの道」すなわち天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という、程度の差こそあれ輪廻の輪から解き放たれない煩悩の世界を行ったり来たりしているだけだという意味。これら輪廻によって生まれ変わる行き先が違うのはその時々の生での行動の因果が反映されるからで、くるくると小さな車が忙しなく廻るように狭い煩悩の世界の中での生まれ変わりの連続にしか過ぎない、という意。「火宅」は文字通り火事によって燃えさかる家で、煩悩から解き放たれない凡夫は、このままでは自分が焼け死んでしまう(地獄や輪廻から永久に脱することが出来ない)ことにさえ気づかず、何度も生死を繰り返しても、流転生死の苦しみ(深い海に喩えられています)からは逃れられない、ということです。