ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

建長寺探訪記(その1)

2007-05-14 13:24:59 | 能楽

来月 ぬえは鎌倉・建長寺で行われる巨福能にて『隅田川』を勤めさせて頂く事になりましたが、このたび建長寺さんへ会場の下見をかねて参拝に訪れました。

じつは ぬえは。。鎌倉というところは行ったことがないのです。。これほど日本文化を熱く語るのに、鎌倉はぜんぜん知らないという大馬鹿者でして。不思議だなあ、これまで縁がなかったのか。京都や奈良にはしょっちゅう行っているのに。。そこでこの機会に建長寺さんに参拝してご本尊にご挨拶申し上げ、また催しの成功を祈念してご祈祷を受ける事にして、さらに鎌倉に一泊してひと通り見て回ることにしました。



JRの湘南新宿ラインを利用してわずか1時間半で到着した鎌倉は、天気にも恵まれて、とっても楽しい旅になりました。早朝に家を出たせいか心配していた湘南新宿ラインは混雑もなく、まだ朝早い時間に北鎌倉駅に着きました。まず駅のすぐ目の前にある鎌倉五山第二位の円覚寺から参拝しましたが、いや本当に風情のあるお寺です。新緑は目にまぶしくて、境内にはリスも遊び、国宝の梵鐘のある鐘楼からははるかに富士山まで見はるかし。北条時宗の廟所にも参拝することができました。そしてこんなものまでも発見。



国宝のところてん。。 (;^_^A

ついで訪れた明月院は『鉢木』のワキ、最明寺入道こと北条時頼がその最明寺を構えた地で、こちらには時頼の廟所も残っています(そのすぐ背後が住宅で、少々気の毒にも思いますが。。)。こぢんまりとした白砂の枯山水や、紫陽花の頃には参道を紫の花が埋め尽くす美しい山門、丸窓から庭を眺める粋な造作の方丈。小川にかかるアスレチック風(?)の橋もあったりして、清楚ながら遊び心もあるお寺でした。



さて明月院で過ごしているうちにご祈祷を受ける時刻が近づいてきたので、いよいよ建長寺に向かいました。北鎌倉駅から直行すれば10分で到着する建長寺は、まさに堂々たる大伽藍で圧倒されます。道路に面した大きな門をくぐり、総門という「巨福山」の額を掲げた門を入ると、向こう側に大きな門がさらに一つあり、これが建長寺のシンボル的な三門。これまた大きな「建長興国禅寺」の額を掲げています。面白いのはその右側にある鐘楼で、名鐘として名高く、狂言『鐘の音』でも鎌倉で一番の鐘と評された国宝のこの鐘を納める鐘楼は、なんと藁葺きの質素なものでした。





さらに進むと建長寺のご本尊の地蔵菩薩像が鎮座する仏殿へと至ります。お地蔵さまがご本尊というのは珍しい。なんだか柔和なお顔の親しみやすい仏さまで、どことなく中国風の香りのする荘厳と不思議な調和をもっています。そして仏殿から左に回り込むと、正面に今回の「巨福能」の会場となる方丈(「龍王殿」)が見えてきます。う~む、こんなに立派なお寺だったのか。。俄然緊張する ぬえでした。。

『隅田川』について(その7)

2007-05-11 01:03:46 | 能楽
能の中で笠が使われる理由は、それぞれにあるのでしょう。『葛城』や『鉢木』では大雪の中を歩むための実用的な意味でしょうし、単に旅の装備として笠は多用されてはいますが、『放下僧』や『望月』のワキはやましい過去を持っていて、顔を隠しながらの旅、という二重の意味に笠は使われています。変わったところでは『鳥追舟』の後シテでは、水田で鳥を追う農作業の服装として笠が使われています。

これらと比べて『隅田川』での笠の使われ方はちょっと特殊なように思えます。前述しました通り、この曲のシテは笠をかぶって登場する事で観客に不安感を与えるように、作者によって仕掛けが施されているのだと思います。考えてみれば、狂女物のシテで笠をかぶって登場するのは『富士太鼓』と『隅田川』のただ二曲だけ。そして笠をかぶって登場する能の役は、ふつうは目的地に到着するか、またはある事件が起こる現場に到着したところで笠を脱ぎ、顔を見せるのが原則で、『隅田川』では「もとよりも」で始まる地謡の上歌のトメ「隅田川にも着きにけり」がその部分に当たるのですが、シテはそこでは笠を脱がないばかりか、能の半ばまでずっと笠をかぶったままなのです。

ずっと顔を見せないシテ。悲劇的なこの曲の結末の伏線、とまでは言えなくても、それを予感させる不吉なイメージはシテの姿の中に感じることはできるでしょう。笠を脱がない、というあまりに変則的な『隅田川』の演出は、やはり計算されたもの、と考えるのが自然でしょう。

さてシテの登場の「一声」は「狂女越」がよく似合います。シテの狂女はここで一人で登場するのですが、ワキツレの言葉にある通り、実際には彼女は、狂うのを面白がって囃し立てる多くの旅人たちに囲まれて登場するのです。にぎやかな一団の登場には「狂女越」のあの急迫感はまことに似つかわしい。ところが、このシテが登場して最初に謡う文句「げにや人の親の心は闇にあらねども。。」の謡い方は非常にやかましく言われるところで、ぬえも書生時代に『隅田川』の謡を習ったときは、師匠に厳しく直されました。「華やかさ」が基本の狂女物のシテとは違う謡い方、というかニュアンスのようなものを捉えるのに苦労した記憶があります。

悲劇の能のシテの登場。。そりゃ華やかとは言えないでしょうけれども、謡が沈んでしまっても、これまたいけないのです。有名な話ですが、ある『隅田川』の終演後に楽屋に帰ってきた囃子方が苦々しそうにこう言ったとか。「今日のシテはダメだ。あいつは出た時から子どもが死んだ事がわかっていやがる」。。難しい謡だと思います。

笹を右肩に担げて幕を出たシテは一之松で正面に向き、「げにや人の親の。。」と謡い出します。このところは「謡いカケ」と言い、囃子のトメの手を聞いてから謡い出すのではなく、囃子方が「一声」を打っている間に突然シテが謡い出し、それを聞いて大小鼓がトメの手の「コイ合」を打ちます。やはり急迫した登場を表す演出で、狂女物はほとんどこの「謡いカケ」で謡い出す事になっています。「道行き人に言傳て」と謡いながら右へウケ、「行方を何と」と正面に向き直り、「尋ぬらん」と二足ツメます。ここで大小鼓のコイ合を聞き、ついで「聞くや如何に」と左に向きながら肩から笹を下ろして持ち、そのまま舞台に正面向きに入り「うはの空なる風だにも」の文句いっぱいに常座に止まり、地謡「松に音する習ひあり」と拍子を二つ踏み、正面に出て右にノリながらまた拍子、それより常座に下がって止まり、「翔」(カケリ)となります。

「翔」は緩急の激しい囃子に乗って舞う短い舞。舞と言っても舞踏ではなく、むしろ興奮した精神状態を表す所作で、狂女物のほとんどすべてと修羅能のシテが舞います。シテはまず角に出て正面に直し、左に廻って脇座のそばで大小前に向き、ここで囃子が速めてシテは大小前に行き、狂女物の場合は脇正の方へ斜に向いて大小鼓に合わせて拍子を踏み、笹を前へ下ろしながら正先まで出て再び拍子。笹を右肩に担げて角に行き、常座へ向いたところで再び囃子が速め、シテは常座へ行き小廻りして正面へヒラキ「真葛が原の露の世に」と拍子を踏んで正へ出てまた拍子。正面へ直して心持ちし、地謡「身を怨みてや明け暮れん」と左に向いて常座へ戻り、正面へ向いてヒラキをして、これより「サシ」になります。

『隅田川』について(その6)

2007-05-10 00:55:36 | 能楽
橋掛りに登場したシテは中年の女性の役で、面は「深井」、無紅鬘帯、摺箔、無紅縫箔、水衣という地味な装束です。手には笹(「狂い笹」とも呼ばれる狂女の象徴)を持ち、頭には前述のように笠をかぶっています。

この能のシテが中年の女性の役であるのは、失踪した我が子を探し求めるという同じ趣向の一連の能、『桜川』や『柏崎』『三井寺』『百万』などと共通する設定です。このような能の子方は小学生の低学年~中学年頃までが舞台上の効果もあがるのですが、そうなると、何となく母親ももっと若いはずなのではないかなあ、と思わないでもありませんが、やはり子を失った苦しみとか、深い内省を表現するのに「深井」の面は絶大な力を持っています。良い「深井」の面が持つ何ともいえない複雑で繊細な表情は、「若女」などの若い面では到底出せない深みがありますね。

もっとも、良い「若女」が持つ清潔感のある悲しみ(←変な言葉だ。。)とか、また場面により見せる色気は、これまた「深井」がかなうところではなく、こういうそれぞれの良い表情を見るとき、能が本当に細やかに女性を観察していると思います。男性の役の面にはここまで複雑なものはなかなか無いのです。面に限った話ではなく、ぬえは能には女性に対する「愛」が溢れているなあ、とずっと思ってきました。なんせ「三くだり半」で男性側から簡単に女性を離縁できた時代に、能は演者も男性なら曲を書いたのも男性。面を打ったのも男性なら、なんと観客もほぼ男性ばかり、という環境で600年を過ごしてきたのです。それなのにこれほど女性を描く能が多く、そしてまたその描き方がこれほど深いなんて。(この話は長くなるので詳細はまた次の機会に)

狂女物のシテが持つ笹の意味は、みなさん頭を悩ませるところでしょう。ぬえはこの笹は神楽にそのルーツを考えています。じつは現代でも神楽では笹は鈴や鉾、剣、榊などとともに持ち物として多用されていますし、殊に九州に多く残る「岩戸神楽」にそれは顕著に現れています。このルーツが『古事記』の天照大神の岩戸隠れのお話で、この時に天細女命が天香具山の葛を襷や髪飾りにし、同じく香具山の笹を手にして岩戸の前で舞を舞った、とされているので、おそらく能の「狂い笹」の原型はここにあるとみて間違いないでしょう。能では「狂う」という事と「神懸かる」という事はかなり深く重なっていて、これはたとえば『巻絹』で「十寸髪」の面を掛け、その詞章にも「不思議や祝詞の巫女物狂」「声のうちより狂い覚めて」とあったり、『歌占』に見える「この一曲を狂言すれば神気が添うて現なくなり候へども」という詞章からも、「狂気」の裏側にはどこかしら神の姿がイメージされていたのだと思います。もっとも『隅田川』のシテの狂女は、ワキをはじめ、舞台に登場しない「見物人」たちによって蔑まれています。神への畏怖というものはここには全く現れておらず、これはほかの狂女能でも同じ事が言えます。ルーツは神楽にありながら、能の「狂い笹」は「神懸かり」的な狂気とは おのずから一線が画されていて、これについてはまだ ぬえもいろいろと考えているところです。これまた今後の課題に。。

そして「笠」。『隅田川』のシテを特徴づける小道具です。もとより笠は男女を問わず長い旅の必需品なのですが、じつは我が子や恋人、夫を尋ねて長い旅をする狂女物の能の中で、シテが笠をかぶって登場するのは『隅田川』と『富士太鼓』ぐらいのものなのです。逆に旅の途中の人物、という設定が多いワキでは笠をかぶる頻度も高くはなりますが、それでも笠をかぶらない旅僧の役の方が圧倒的に多くて、旅をしている役だから笠をかぶる、と決められているわけでもなさそうです。反対に『鉄輪』の前シテは都から貴船神社に丑の刻詣に行く時にさえ笠をかぶっていますし、『鸚鵡小町』『卒都婆小町』『松虫』はそれよりももっと近所への外出であるようなのに笠をかぶっています。

『隅田川』について(その5)

2007-05-07 16:28:05 | 能楽
地謡が地取を謡っている間にワキツレは正面に向き、笠をかぶっている場合はここでいったん笠を脱ぎます。ただ前述のように笠をかぶるのはワキツレが掛素袍・白大口の装束を着ている場合だけで、現在はワキツレは素袍上下を着ているので笠はかぶっておらず、従ってここでは正面を向くだけです。

正面に向かって名宣リをしたワキツレは(笠を持っていれば再び笠をかぶって)「道行」を謡い、その終わりで斜めに数歩出、また立ち戻って旅をしたことを表す定型の型をします(今回の建長寺での催しではおの「道行」は省略の予定)。ワキのお流儀によりワキツレは「都人」であったり「東国の人」であったりしますが、いずれの場合も都から東国に下る旅で、同じく都から我が子を求めて東国に下るシテとは、ある時から行き会っている事になります。

隅田川の川岸に到着したワキツレはワキの姿を認めて声を掛け、乗船を頼みます。ワキはそれを承諾しますが、ワキツレの後から喧噪が聞こえてくるのを訝かしんでその理由を尋ね、都から下る女物狂いの存在を知ります。喧噪はその有様を面白がった旅人たちがはやし立てているのです。ワキはこの人たちの到着を待ち、それから船を出すことにして、ワキツレは脇座に、ワキは地謡前に着座します。

ここで再び笛の鋭い「ヒシギ」が吹かれて、大小鼓により「一声(いっせい)」という登場音楽が奏されます。いよいよシテの登場となるわけです。この「一声」は大小鼓による登場音楽として広く用いられるもので、殊に前シテの登場には頻繁に用いられます。音楽的な構造としては大きく三段に分かれ、最初に演奏されるのは「掛かり」と呼ばれるプロローグのような演奏で、ここではまだ役者は登場せず、もっぱら登場する役のイメージを舞台上に表すような演奏で、大小鼓によるノリのある演奏に、拍子に合わせずに吹く笛のアシライが彩りを添えます。

「掛かり」が終わると、次に「越之段」と呼ばれる、大小鼓が複雑な手を打つ部分になります。「一声」はいろいろな役の登場に多用されるため、とくにその位(演奏のスピード)については囃子方はかなり注意を払って演奏され、シットリと閑かに演奏する場合や急迫した緊張感を出す場合など、打ち方によってじつに様々な印象に聞こえるものなのですが、内容としてはどの曲でもすべて同じ手組が打たれています。ところがこの「越之段」だけはいくつかの種類があって、能の曲により、どの「越シ」を打つのかが定められています。ちなみにどの「越シ」の手を打つ場合でも、お笛だけは「越シ」の間は何も吹きません。

さてこの、「越シ」、『隅田川』にはもっとも正式な「本越シ」を打つことになっているのですが、これとは別に狂女物の曲には「狂女越」という特殊な「越シ」も用意されています。「狂女越」は狂女の熱狂を表すような派手な手組で、これを打つ場合には「一声」の冒頭の「打出」にも小鼓が替エの派手な手組を打つようです。もっとも「狂女越」はその「越シ」全体があくまで「替エ」で、曲や催しが重大である場合など、またシテの好みにより「頼ミ」によって打たれるものです。ぬえは『隅田川』の初演の時にはお囃子方に頼んで、この「狂女越」を打って頂きました。今回も建長寺という由緒ある場所での演能ですので、「狂女越」が打たれるのにふさわしいと思うのですが。。師匠のお許しやお囃子方すべての承諾を得られればお願いしてみたいと思っています。

「越シ」の手が打ち終わると、「二段目」の段になり、ここでいよいよシテは幕を揚げて橋掛りに登場します。

『隅田川』について(その4)

2007-05-05 23:55:40 | 能楽
ワキツレは舞台常座に立って斜め後ろ、鏡板の方へ向いて「末も東の旅衣」と謡い出します。「次第」の囃子で登場した人物が一人の場合、シテ・ツレ・ワキ・ワキツレの役柄の別なく必ずこのように鏡板の方へ向かって謡い出すのですが、これはなぜでしょうね~。「鏡板に描かれた影向の松に向かって謡うのだ」とか、古来いろいろな解釈が試みられてきましたが、鏡板を拝して謡うならばこの型が「次第」に限られるのは説明がつかないし、ぬえは、単純に多種ある登場の囃子の中で「次第」で「一人で登場した役」が謡う、という限定条件をつけて演出の多様性を狙った、というのが実情ではないかと考えますけれども。。それでも“後ろを向いて謡う”というのは演出としてはかなり不利なはずだから、わざわざその方式を採ったのには何らかの意味はあるのかも知れません。これはまだ結論が出ていない能の“ナゾ”の一つですね。

ワキツレが「次第」を謡い終わると、すぐさま地謡が拍子に合わせず低い調子で、いま謡われた文句を復唱します。これを「地取(じとり)」と言います。「次第」で謡われる楽形は「七・五、七・五、七・五」の三句で、最初の二句は同じ文句の繰り返し、というのが原則です。地謡はこのうち初めの繰り返しを謡わずに、二句だけを謡い、また役がツヨ吟なら地取もツヨ吟、と吟を合わせて謡います。

ところが、これにもいろいろと約束事や例外があるのです。

まずワキ方が次第を謡う場合、お流儀によって文句が微妙に異なります。その際は地謡は、当然の事ですが、実際にいま舞台で謡われた文句で地取を謡います。地謡は通常自分の、つまりシテ方の謡本で「次第」の文句を覚えてきていますので、実演の際にはあらかじめ楽屋でおワキに文句の異同を聞いておかねばなりません。実際には、どのお流儀だとどのように文句が変わるかは、もうすでに地謡のデータベースに載っていて、異同がある場合は小さな字でそれぞれの謡本に書き入れてあったりしますけれども。

それでも まれには地謡の誰も文句の異同を知らず、しかも楽屋の中でおワキ方に問い合わせもせずに舞台に出てしまった、という事もないわけではありませんで。。(^◇^;) その時はおワキなりワキツレが舞台で謡い出したその文句を聞いて地謡一同ビックリ。冷や汗タラ~リという事になってしまいます。もちろん地取を謡わないワケにはいきませんから、みんな必死になってその場で謡われる文句を暗記して、法則に則って瞬間的に地取に翻訳して謡うわけです。「末も東の~」(スエモアズマノ。それから!?)「旅衣」(タビゴロモか。スエモアズマノタビゴロモ。と。)「末も東の旅衣」(次は?次は?)「日も遙々の心かな」(ヒモハルバルノココロカナ。ヒモハルバルノ。。七文字だな。ココロカナ。。五文字!例外か!よしわかった。あれ?初句は何て謡ったっけ。。(>_<)

ときおり「次第」の初句と繰り返しの二句目の文句が微妙に異なる場合があります。『清経』などはその例で、初句は「八重の汐路の浦の波」なのに、二句目は「八重の汐路の浦波」。「の」の一字が二句目にはないのです。この場合は地取は二句目の方の文句で謡います。

それから、先ほど役が謡った吟に合わせて地取を謡う、と言いましたが、『葵上』などの場合はシテは「次第」を初めはヨワ吟で謡い出すのに、二句目の途中からツヨ吟に吟が変わります。この時には地取は最初に謡い出された吟、つまり『葵上』の場合はヨワ吟で謡うのです。

さらに、最後の三句目が重要で、この文句が定型をはずれた「八・五」調である場合があるのです。その場合、地取は初句と三句目を休みナシに連続して謡うことになっています。

例)三句目が定型通り「七・五」であれば地取は
末も東の旅衣――。 日も遙々の心かーーなーー。
  三句目が定型とは違う「八・五」であれば、
東遊びの駿河舞この時や初めなるらーーんーー。

前述の『清経』は初句と二句目の文句に異同があり、さらに三句目は定型をはずれた「八・四」と、二重に例外があるという珍しい能です。

さらにさらに。最後の三句目の文句は「七・五」が定型、と書きましたが、実際には「七・四」である事の方が多いと思います。そして、ぬえの師家では最後の句が「五」であるか「四」であるか、によって、これまた地取の謡い方を変えていました。

いわく「四」であれば「一字落チ」で謡い、その前の字を引く、というやり方で、これは上記に書いた通りです。「この時や初めなるらーー(引く)んーー(一字落チに謡う)」

ところがこれが「五」であった場合は「二字落チ」に謡って、その直前の引キはナシになります。このやり方では『隅田川』のワキツレの「次第」につける地取は上記の「日も遙々の心かーー(引く)なーー(一字落チ)」ではなく、「日も遙々の心かーーーー(ここで二字落チ)なーー(トメなので多少引く)」となるのです。

この「二字落チ」の謡い方は、ぬえが聞いたところでは、かつてはこれが本来のやり方で、どのお家でもこの謡い方だったそうです。ところが段々と変化してきて、「一字落チ」に統一されてしまい、ぬえの師家だけがずっとこの謡い方を残していたのだそうです。だからかつては地謡が他家の能楽師との混成部隊になると、地取が合わないのです。で、研能会の同門の誰かが「うちではトメが五文字の場合は二字落チになりまして。。」と説明するのです。他門の方はたいがい驚かれます。「えっ、そうなの!?」

ところが、ところが。この謡い方が本来であったとしても、他家との交流がある度に謡い方が合わずに調整するのはやはり不都合で、ぬえの師家でもある時に決断をされました。忘れもしない二十一世紀になった2001年の正月二日、謡初めのときに師家から門下に通達があり、今後は「二字落チ」を廃止して他家と同様に「一字落チ」に統一する、と定められました。ちょっとした事だけれど、歴史が変わる瞬間を見届けた、と、なんだか ぬえには感慨がありました。

GWにやっている事

2007-05-04 23:11:08 | 能楽
GWはさすがにヒマです。。みなさんがお出かけているこの時期は催しはしにくく、舞台はあまり多くはありません。

でも、こういう時期だからこそ時間を掛けてやりたい事もできる、って事もありますね。ぬえは例年この時期に、夏から秋頃の自分の舞台に使う小道具を自作したりしています。稽古も少しずつ進んできて、いよいよ本格的に催しに向けて邁進する時期に差しかかりました。

いま、ぬえは6月の建長寺の巨福能で上演する『隅田川』の作物を作ったり、夏に伊豆の国市で催される「狩野川薪能」で上演する『一角仙人』で使う剣を作ったりしています。『隅田川』の塚の作物は、ずっと以前、ぬえが『隅田川』を初演した時に作りました。竹屋さんで長~い竹を買ってきて、それを寸法に合わせて割って。カンナで薄く削って、ガスレンジで炙って曲げて、こうして塚の柱の部分を作り上げます。この時は「台輪」と呼ばれる基礎部分の枠は、竹ではなくて組み立て家具の部材の鉄パイプを組み合わせて、携帯に便利な組み立て式に作りました。今回の巨福能でもこれを使おうと思ったのですが、丈を少し大きくする必要があって、それならば、と以前に作った柱を伸縮自在に調整できるように改造しました。もうじき完成するのですが、まあまあ思い通りに出来上がる見込みです。

『一角仙人』ではシテは龍神とともに剣を持って戦うので、気をつけていてもどうしても剣は傷んでしまいます。師家の剣を拝借してキズをつけるのもどうかと思うので、この際思い切って自作することにしました。剣の刃の部分はカンナと彫刻刀を駆使して、それでも比較的容易に作り上げることができたのですが、問題は柄と鞘で、ことに刃に合わせてガタつきのない鞘を作るのは難しい。日本刀の製作にも鞘を作るのは専門の「鞘師」という職人がいて、刀の個性に合わせて鞘を作るのです。能楽師、とくにシテ方は型や謡といった舞台上で演じる実技のほかに、装束の着付けや作物の組み立てなどいろいろな仕事が多くて、自然に器用にはなっていくのですが、小道具の自作となると ちょっと話が別。ましてこの鞘のように、舞台上の小道具だからあまり精巧さは追求しなくても良いとしても、本来専門の職人が作るような物を素人の能楽師が作るのですから四苦八苦は仕方がない。。鞘は完成するかどうか微妙ですが、そうなったらシテが使う剣だけは師家から拝借するよりないでしょう。

一方 龍神役は最初から剣を抜き身で持ったまま登場するので、こちらの剣には鞘は不要なのです。あとは柄を作れば良い。ところが剣というものは刀や太刀と違って日本にはあまり作例がなく、参考となるような拵の画像もなかなか見つけられません。自分でデザインしながら作らなければならず、これまた苦労しております。まあ、デザインも大体固まったので、いよいよこれを彫り上げるという段階までようやく進んできました。

今回、剣の材料をいろいろと試してみましたが、刃も柄も、やはり檜で作るのが最も細工がしやすいようです。檜というのは木目が素直で、どの角度で彫り進めてもちゃんと彫刻刀を受け入れてくれる。面が檜で作られている理由も、今更ながら納得しました。これから柄を彫り上げて、金箔を張って、柄の手に握る部分に金襴などのきれを張り、刃には銀箔を張って、その銀が錆びないように薄くクリアラッカーを塗る。さらに柄にも刃にも少し彩色を施す。。と、こりゃ夏までに本当に仕上がるんかしら。

ところで、やはり器用な方というのはおられるもので、ぬえの場合はこういう細工で分からない事があると、いつも他門の会の某先輩にいつも泣きついて教えて頂きます。この方は本当に器用、というか、要するに物を作り上げるのがお好きなんですね。この方が所属する会でも、作物を新しく作ったり、またその修理をする場合には門下が集合して みんなで作業をするのですが、この方はいつも真っ先に駆けつけて楽しそうに作業をされておられるんだそうですし、また氏は小道具の塗装に凝ったあげく、漆を乾燥させるための「室」(むろ)まで自宅に設えてしまいました。ぬえはこの方から小道具製作の技をずいぶん教えて頂いて とっても感謝していて、「心の師匠」とお呼びしております(笑)。で、この方もときおり楽屋でバッタリ出会うと、ぬえに向かって「よお。最近何か作ってる?」と聞いてこられますね。わはは。。

今年の「狩野川薪能」では ぬえの「心の師匠」もお手伝いに参加してくださいます。その申合の時にでも、剣をお見せして出来映えを評価して頂くのが 今から楽しみだったりしています。

『隅田川』について(その3)

2007-05-02 02:02:24 | 能楽
作物が大小前に据えられると、ワキが幕を上げて登場し、笛が「名宣笛」を吹いてその登場の情趣を高めます。

ワキは東国の一介の船頭さんで、装束も素袍上下という、能では位の低い役の装束を着ています(素袍の長い裾を引きずりながら、どうやって船を漕ぐんだ? という突っ込みはナシでお願いします。シテも足袋で長旅をしているんですから。。)。しかし舞台常座での名宣リは かなりシッカリ謡います。習物の曲でも軽い位のおワキの場合は、登場からそれほど重くは謡わない曲も数多くあるのですが、『隅田川』は おワキの役が船頭さんであっても重く謡われますね。曲の位への敬意というよりは、むしろこの曲の暗く重いテーマの伏線なのでしょう。前述したお客さまの不安感をかき立てる、という「仕掛け」が、流儀を越えて通底している証左なのだと思います。

名宣リでは、福王流のおワキでは「またこの在所にさる子細あって、大念仏を申す事の候」と「大念仏」がある事を言いますが、宝生流の場合はそれに触れません。その代わりに福王流にはない「この間の雨に水気に見えて候」という文句があって、川が増水している事を述べます。続く「大事の渡りにて候ほどに、旅人の一人二人にては渡し申すまじく候」と呼応して、やはりこれもお客さんに不安感を与える要因の一つになっているでしょう。曲に重要な「大念仏」を冒頭に説明する福王流と、あえてそれには触れずに、川が増水している、と短く説明するだけで、遠回しに不吉な印象を舞台に充満させる宝生流と。行き方の違いがとても面白いですね。この曲は、「不安」という軸線をずっと保ちながら、その理由がずっと解らないままに進行していって、ワキの船中の語リで突然のカタストロフを迎え、そしてそれがさらに意外な展開に発展していく、多重的な「仕掛け」があるから、ぬえは どちらかといえば宝生流のおワキのやり方の方が好きです。

名宣リを謡い終えたおワキは地謡の前に着座し、笛が鋭く「ヒシギ」を吹いて「次第」の囃子が打たれます。第二の登場人物「旅人」の登場です。

ワキツレの旅人は、これまたちょっとした問題を持つ役です。福王流ではこの役を「都人」としていて、東国にいる知人を訪ねて下向している途中、一方宝生流ではこの役は「東国の人」で、こちらは福王流とは逆に都での商用を終えて東国に帰ってきた人なのです。この役柄の違いは、着ている装束に端的に反映されています。いわく、「都人」の福王流では白大口に掛素袍、笠をかぶるという仰々しい姿なのに対して、「東国の人」。。つまり当時としては田舎の者である宝生流では素袍上下で、笠もかぶっていません。

ところが、現在では実際の舞台では上記とはちょっと違う演じ方がされています。すなわち、ワキツレが福王流の場合でもこの役は宝生流と同じく素袍上下の姿で登場するのです。なぜそうなるのか。一番大きな理由は、「都人」だというだけで立派な装束を着てしまうと、おワキとのバランスが取れない、という事でしょう。また素袍であれば頭には何もかぶらないのですが、掛素袍・大口の姿の旅人となると、これは笠をかぶるのが原則。そうなってしまうと、後にシテが船に乗ったときに、そのすぐ後ろに寄り添うように乗船するワキツレと、笠が重なってしまうのです。そんな様々な理由から、現在では「都人」であっても福王流のワキツレは素袍上下の姿で登場します。

もっとも素袍上下を着てしまうと、今度はワキと同装になってしまうのです。もちろんワキツレはワキよりも少し格を落とした装束を着るのですが、それにしてもまったく同じ姿になってしまう。シテの姿と「付く」か、ワキと同じ装束で「付く」か。先人は悩んだことでしょう。そして、最後にはシテに譲ってワキとワキツレは同装、ただし格に差をつける、という演出に落ち着いたのでしょう。かつて福王流のおワキを座付きとした観世流の謡本では、今でも大口姿のワキツレの姿を挿絵に見ることが出来ます。