ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

落ち葉の怖さ

2024-11-27 12:59:26 | 旅行

秋の名物である紅葉は美しいと思う。

山に分け入り、見事に紅葉した森の中を歩くのは楽しい。紅葉や楢、楓の葉が降り積もった山道を、枯葉を踏み散らかしながら歩くのも悪くない。

だけど、雨上がりの紅葉の降り積もった山道は歩きたくない。何故かというと滑るからだ。登りはなんとかなるが、下りがヤバい。正直、危険を感じるほどだ。

あれは高校2年の冬だった。神奈川県側の表丹沢を登り、日ごろ滅多に行くことのない裏丹沢へ下った時のことだ。丹沢は広葉樹林が多いせいか、落葉樹も多く紅葉の時節は実に見事な色彩で楽しませてくれる。

しかし、数日前に振った雨が災いした。登山者の多い表丹沢と異なり、裏丹沢は人が少ない。11月も終わりの頃には落葉が降り積もり登山道は埋もれてしまう。おまけに一見乾いた枯葉が積もっているだけだが、下の層の落ち葉が湿っているため滑る、滑る。

先頭を歩いていた私は気が付いたら滑走するが如く緩斜面を滑り落ちてしまった。最初は驚いただけだが、すぐに危険なことに気が付いた。枯葉の下にはけっこう岩があり、身体がバウンドするので衝撃が痛いほどだ。とっさに手を伸ばして灌木を掴んでみたが、勢いが強くて灌木を引き抜いてしまった。

既に20メートル以上滑っている。命の危険を感じ、覚悟を決めて灌木を竿のように使って大木に向かい、ぶつかる様に仕向けた。両足をクッションにして衝撃を緩和したが、それでも体が宙に浮くほどであった。実際に宙に浮いたようで、落下した衝撃と痛みで呻いていると、上の方から「大丈夫かぁ~」とパーティのメンバーの声が聞こえた。

とりあえず返答したが、実際は苦痛に耐えて固まっていた。同時に生き延びたなとの安堵感に包まれた。まさか標高1千メートル以下の低山で、これほどまでに危険な目に遭うとは思わなかった。慢心といえば慢心だが、改めて山の怖さを我が身に叩き込まれた。

慎重に降りてきたメンバーと合流し、支えられながら立つと、どうやら骨折等はないようだ。ただ衝撃で全身が痛いというか痺れた感覚が辛かった。ザックの荷物を他のメンバーに分けて持ってもらい、ほぼ空身で下山した。

なにせ裏丹沢の下山口のバスは本数が少ない。最終便を逃すと面倒なことになる。金なし貧乏高校生にはタクシーは高すぎる。それが分かっていたので、急ぎつつも慎重に下った。精神的にこれほど疲労した下山は初めてだった。

下山口の道志の村は当時既にかなりの過疎が進んでいたが、丹沢と道志山塊に挟まれた静かな人里だった。夕暮れ時の紅葉が美しかったことは覚えているが、私は精神的なショックからか、すぐに寝てしまった。起きたらJRの無人駅だった。

ネットでニュースをみていたら、最近は低山登山がブームだとか。断言しますけど、低山だから安心って訳では決してありませんよ。やはり自然は侮れないです。

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カタパルトの有無の違い

2024-08-26 09:06:46 | 旅行

果たして日本は空母を保有すべきなのか。

マスコミも含めて勘違いしている人が多いが、2024年現在日本は空母を持っていない。改装された加賀と出雲は、短距離離発着が可能なF35Bの搭載を前提とした軽空母である。如何に排水量が大きかろうが、決して空母ではない。なぜならカタパルトという航空機の強制発射装置を持たないからだ。

このカタパルトがないと、ミサイルや爆弾を搭載した戦闘機を離陸させることは出来ない。F35Bは垂直の離発着が可能な戦闘機だが、爆弾等を搭載しては垂直発進が出来ない。なぜなら燃料を多大に消費するからだ。だから軽空母はスキージャンプ型式での発艦方式を使う。もっとも日本の加賀も出雲もスキージャンプ方式ではなく、斜め上に発艦させるが、これはF35Bが短距離発着が可能な機体であるからだ。

ちなみにアメリカの空母は空母搭載用としてF35C戦闘機を使っており、やはりカタパルトで飛ばして運用している。着陸は従来通りワイヤーに引っ掛けての短距離着艦である。この方式は半世紀変わりはない。

本格的に空母を運用するには、戦闘機以外に早期警戒管制機が必要になる。これは空母からレーダーを発射してしまうと、空母自体の位置を割り出されてしまう。それを避けるため早期警戒管制機を飛ばして、空母から離れた位置からレーダーを使い敵機及び敵施設を探索する。

アメリカが世界最強の軍事国家として君臨できたのも、この海上のどこにいるのか分からない空母から戦闘機を出撃させることが出来たからだ。カタパルトを装備していない軽空母では、重い武器を搭載した攻撃機を発着できない。もちろん重く大きい早期警戒管制機もカタパルトなしでは出撃できない。

つまり現状、日本は空母を持たない。あくまで軽空母による哨戒活動及び敵戦力牽制手段としての戦力しか持てていない。例によって軍事音痴の日本のマスコミ様は、このあたりの区別がなく、ただ徒に空母だ、空母だと騒ぐだけである。

率直に言って私は日本の国防に本格的な空母は不要だと思っている。空母を建造するくらいならば、太平洋上にある島嶼に空港を複数建築して、平常時は民間あるいは救急用として活用し、比較的短距離離発着が可能な戦闘機(F16やF2)を非常時に配置すれば十分だと考えている。

だが、今回の軽空母建築は、ほぼ間違いなくアメリカの意向に沿うものだ。シナを戦略上の敵と見定めたアメリカが、偵察哨戒任務に日本を活用させるつもりなのだと思う。なによりもF35はネットワーク機能を持ち、日本のF35が入手したデータは、容易にアメリカ軍のネットワークにつながると思う。このあたり非公開情報なので確信はないが、ほぼ確定だと考えています。

いずれにせよ原子力空母を持たない日本には、大型の空母は不適切だ。アメリカ以外の世界の海軍が運用に失敗した蒸気型カタパルトは日本ならば製造できるはず。しかし蒸気式カタパルトは大出力のエンジンを必要とする。ガスタービンエンジンでは効率が悪いし、ディーゼルエンジンでも厳しい。ちなみに日本のイージス艦などは、ガスタービンとディーゼルエンジンの両方を備えたハイブリッドタイプなのだが、蒸気式カタパルトには足りないと思う。

では電気を使う電磁式カタパルトはどうかというと、実は未だ開発途上である。世界初の電磁カタパルトを装備した空母は、アメリカのジェラルドフォードなのだが、未だ完全に運用が出来ていない。軍事上の機密情報なので不確かではあるが、陸上での実験で上手くいっても潮風に吹かれる海上では電磁カタパルトが上手く機能できていないと聞いている。

ところで電磁カタパルトとは、要はリニアモーターカーと同じ原理でもある。既に陸上でリニアモーターカーを実際に運用している共産シナは、電磁カタパルトを三番手の空母・福建に搭載している。ちなみにディーゼルエンジンを4基搭載している。そして、やはり電磁カタパルトを上手く運用できずに苦労している。

アメリカとシナ、どちらが早く実用化に至るのかは不確定だが、莫大な開発コストがかかっているのは確かでしょう。先行するアメリカと言いたいところですが、次の米大統領の可能性が高いトランプは、金を食い過ぎだと次々とハイテク兵器の開発を中断させた実績がある。

繰り返しますがカタパルトを装備していない空母は張子の虎であり、重い武器を搭載できずに戦闘機を飛ばすことしか出来ない。しかし、案外とシナが上手くやる可能性も否定できないのが怖いところ。

更に怖いのは、日本がアメリカが断念したレールガン(電磁式艦載砲)の開発に成功しているらいいこと。原理は電磁式カタパルトと大差ないので、技術供用を言われそうで怖い。それも有償ではなく無償だろう。けっこう厚かましいのがアメリカなので、よほど上手に交渉しないとやられちまう可能性がある。

平和、平和と叫ぶのは自由ですけど、現実の日本はアメリカの補助戦力として利用されがちの現実を直視して欲しいですね。

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タヌキの祠 (再掲載)

2023-10-13 13:21:58 | 旅行

下記記事は、10年近く前に拙ブログに投稿したものです。先日の投稿で「お狸様」って何かと問い合わせがあったので再掲しました。

 

深夜の国道を歩きながら、こんなはずじゃなかったとぼやいていた。

ほんの一時間前には、スケベな妄想に浮かれ、期待で胸がはずんでいた。暖かな布団と、艶かしい夜を過ごせるとニヤついていたのだ。

まだ春というには肌寒い四国の中央部を、ブラブラと歩き巡っていた大学3年の時のことだ。例によって宿には泊まらず、野宿で済ませていたが、その分食事には金をかけていた。

その夜も町外れの国道沿いの居酒屋で、遅めの夕食を豪勢に食べていた。私の食べっぷりの良さを盛んに感心していた給仕の女性が、いろいろと話しかけてきた。

既に客は私一人だし、厨房の奥の店主は片付けを始めていた。給仕の女性に勧められた地元の酒を飲み交わしながら、この後うちで飲まないと誘われた。年は30?いや40代かもしれないが、妙に色っぽい女性だった。旦那は今夜は帰ってこないはずだからとの言葉が、私を舞い上がらせた。

店を出て信楽焼きのタヌキの像の前で少し待ってから、彼女の車で家にむかったまでは良かった。ところが家の前にはトラックがあり、女性の顔色が変わり、ちょっと様子をみてくると言い残して車外に出た。

気になって車の窓から覗いていると、なにやら怒鳴り声がする。こりゃ、ヤバイと思い、車を出て来た道を歩いて戻ることにした。十分ほど車で走ったから、徒歩なら一時間程度で街まで戻れると踏んだ。

そんな訳で、灯りの乏しい深夜の国道を、とぼとぼと歩いていた。その気になれば、エアマットを膨らませて寝袋に潜り込めばいいので気楽なものだ。ただ、曇りがちの空が気になる。野宿であっても、やはり屋根は欲しい。

嫌な予感は当たるもので、小雨が降ってきた。まだ街は遠い。折りたたみの傘を広げて歩くものの、街の明かりはいっこうに近づかない。車で10分だと思っていたが、どうやら酔っていた私の勘違いらしい。

そんな時だった。私の目の前を小さな陰が横切った。その陰は街路灯の下で立ち止まった。なんとタヌキであった。

本来警戒心の強いタヌキがなぜ、車道に出てきたのか分らないが、そのタヌキは私の前10メートルほどを歩き続けた。そして、なぜか私を振り返って見やるのだ。

深夜の山のなかだし、多少酔っていた私は、タヌキにバカされているのかと憤慨したが、正直言うと少し嬉しかった。なんとなく運に見放されて、寂しい気持ちだったので、タヌキの存在が気持ちを癒してくれたからだ。

既に時計の針は0時をまわっており、私も眠気に襲われだした頃だ。急に立ち止まったタヌキが、再び私を振り返ったのち、急に山側に入り込んだ。

その場所に追いつき、横を見ると踏み固められた小道があった。不思議に思い、その小道に分け入ると、その先に祠があった。ありがたいことに屋根があり、私が潜り込める程度のスペースもあった。

全身を伸ばすほどの広さはなかったが、それでも雨に濡れずに一夜を過ごすことは出来そうだ。で、ふと気付くと、タヌキの姿はどこにもない。礼ぐらい言っておくべきだったと思うが、睡魔には勝てずそのまま寝込む。

翌朝、日の明るくなったことに気付き、寝袋を出て祠の外に出てビックリ。昨夜夕食を食べた居酒屋の裏手だった。寝袋を片して、駅へ向かうため国道を下り、居酒屋の前に出ると店主に出くわした。

「あんた、大丈夫だったのかい」と尋ねられたので、事情を聞くと昨夜遅く給仕の女性の旦那が怒鳴り込んできて、私を探していたらしい。怒鳴り込んだ時刻は深夜零時過ぎだというから、丁度私が祠に潜り込んでいた頃だ。

どうやらタヌキに助けられたらしい。その話しを店主にすると、嬉しそうに「そうかぁ、まだ居たのか」と信楽焼きのタヌキ像をなでながら肯いている。緑豊かなこのあたりでも、タヌキはそうそう見かけるわけでもないらしい。「学生さん、はやく電車に乗って行っちまいな」と言われたので、早々に立ち去ることにした。

なにもしてないのに恨まれても困る。こんな時は逃げるに限る。唯一、タヌキにお礼が出来なかったことだけが残念だ。
私は駅に着くと、すぐに電車に飛び乗り、金比羅様に向かった次第。お賽銭に色をつけたのは、恩返しのつもりだ。

あれから20年あまり。街で蕎麦屋の軒先に信楽焼きのタヌキを見ると思い出す。以来、困った時の神頼みの際は、「神様、仏様、おタヌキ様」と唱えることにしている。おタヌキ様様である。

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世界一危険な山

2021-02-19 12:48:00 | 旅行

二十歳の頃、私は登山に夢中だった。

生涯かける価値のある趣味だと思っていた。まさか数年後にその夢を奪われるだなんて考えてもいなかった。難病がこれほど恨めしいものだと知りもしなかった。

白状すると、衰弱して長く病に伏せていても、再び山に登り出すことを諦めるのは難しかった。完全に断念したのは、社会復帰を果たしてからだ。当時は絶対に弱音を吐いてたまるかと依怙地になっていた。

でも苦しかった。歩く速度が明らかに遅い。走るなんて以ての外であり、ふらつく身体を必死の思いで支えていた。走るのが嫌いだった私は、走ることに恋い焦がれるなんて思いもしなかった。

諦めざるを得なかった。私の身体の衰弱は、日常生活を普通に送ることさえ困難なものである現実が、私の心を打ちのめした。それでも、まだ自分に出来ることはある。せっかく苦労して身に付けた資格を活かして生きていくことに集中するしかなかった。

だから、自分の部屋の本棚を埋め尽くしていた本を、皆段ボールに詰めて押し入れの奥に仕舞い込んだ。年末に大掃除をした時、その段ボールを見つけた。もう、いらないものばかりなので、捨てる積りだが、古本屋に売れるものもあるので、時間をかけて選別している。

その中に大学ノートがあった。なにかと思い、開いてみると自宅での病気療養中に図書館で調べて、身体が元気になったら登りたい山のリストアップと下準備が記載されていた。

オレ、こんな事していたのかといささか呆れた。同時によく忘れたものだと自分の能天気さに感心した。当時はインターネットなんざないので、調べものがあれば図書館に行くか、神田の古本屋の店主たちに訊ねるかしていた。

そのなかに、世界一危険な山と私が書き込んだページがあった。読みながら、我ながら良く調べたものだと感心した。多分、毎日寝てばかりの鬱屈した気持ちを晴らすためにやっていたのだと思う。

エベレストより難しいと言われるアンナプルナ山とか、非情の山K2、ネパールの恐怖ジャヌーなんかを調べている。はて?寒いのが嫌いで、冬山登山を嫌がる私がなんで、これらの高所登山の難関ばかり調べていたのだろうか。当時の自分の心境が分からない。

ページをめくっていくうちに目についたのがレーニア山。これは覚えている。セント・ヘレナ山に連なるカスケード山脈の最高峰4392メートルの成層火山である。

アメリカは西海岸ワシントン州にある山だ。全米屈指の難峰として知られている。メモ書きに死者800人超とある。そうそう、この山は遭難者が多いのでも有名だったはず。たしか当時、谷川岳よりも死者数が多いと知って驚いた記憶がある。

もう30年近く前のことだから確認しようと思ってネットであれこれ検索したら驚いた。レーニア山に対する否定的な情報がほとんどない。はて?30年前に調べたあの数百人の遭難者は、いったい何だったのだ?

推測だけどけっこう観光を売りにしているので、遭難死者数などの否定的なデーターは隠しているのだろうか。でもアメリカはそのような情報操作はしないと思う。多分、30年前の私の調べがおかしいのだと思う。

ただ、このレーニア山が難易度の高い山であるのは確かだ。なんといっても体力が必要な山で、私が調べたところ体力が充実している時にこそ登るべき山だと書かれていた。特にリバティリッジと呼ばれる山稜は、氷結と強風で遭難が多発するのは確かなようだ。特に大雪が降った時は、進も退くも困難となる難易度の高い山として警告されている。

私のノートには、航空料金やら登山ガイドやらの料金を書いたりしてある。当時の私はけっこう真剣にこの山を登ることを検討していたらしい。そこまで執着しているとは思わなかった。あの頃の私は、こんなことを調べることで、病苦から逃れようとしていたのだと推測できる。

ちなみに2020年現在、世界で最も遭難死者数の多い山は、日本の谷川岳である。

ただ、この情報は補足が必要だ。谷川岳は夏の時期に稜線を登るだけならばハイキングコースである。ただし、日本海から太平洋側に風が通り抜けるルートにあたるため強風には覚悟が必要だ。

また世界屈指の豪雪地帯であり、谷川岳周辺では積雪5メートル以上は珍しくない。冬山登山の対象としては、体力面も含めてかなり難易度が高いのは確かだ。あの細い稜線上で、吹雪によるホワイトアウトなんぞに遭遇したら恐怖で動けなくなること請け合いである。

でも谷川岳を世界一の遭難死者数で有名にしたのは、普通の登山者ではない。谷川岳南面の一ノ倉沢を中心にした岩稜地帯に挑むクライマーたちが、遭難者の大半を占める。

この一ノ倉は、登りがいのある岩壁である。多分、日本国内では最大の岩壁だと思う。もちろん穂高周辺や、剣岳周辺の岩場も大きいが、一ノ倉ほど危険ではない。

私も森政弘氏の登攀教室に参加して何度か登っているが、あの迫力には身震いする。一ノ倉が人気の理由の一つは、アプローチが容易だからだ。岩壁下部まで車で行ける。駐車場で車を降りて、見上げた一ノ倉の岩壁の凄味は、観た人にしか伝わらない思う。下部まではスニーカーでも行けるので、観光がてらに観に来ると良い。首が痛くなるほど、見上げてしまう迫力は国内屈指の眺望だと思う。

もっともそれは夏のシーズンだけ。豪雪地帯で強風が吹き荒れる冬の一ノ倉は、死の関門でもある。太陽の輝きを受けて白く輝く一ノ倉岩壁は神々しいほどに美しい。でも、その美しさは死の恐浮ワとっている。

この岩壁に挑み、命を散らしたクライマーは現時点で800人を超える。文字通り死の岩壁である。登攀をやらない人からすると、なぜにそんな愚かしいことをするのかと思う。

でもあの恐ろしい岩壁に挑み、乗り越える悦楽はこの世のいかなる娯楽をも超越した至福の心境をもたらす。死を身近なものに感じるとき、人は生きていることを実感する。死があるからこそ、生きる喜びが貴重なものに思える。

ただ幸か不幸か、かつては真冬でも登山者があふれるほど活況を呈した一ノ倉岩壁も、今ではかなり人が減っている。また技術というか登攀用具の進歩も著しく、以前よりは安全に登れるようになったとも聞いている。

それでも、あの豪雪と強風の恐怖が減った訳ではない。標高2千メートルに満たない谷川岳ではあるが、危険性は今でも世界トップクラスの岩壁を擁する。まだまだ当分は世界一の危険な山との看板は下ろせないと思います。

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キャンプ

2020-11-24 11:49:00 | 旅行

キャンプが好きかと問われると返答に窮する。

学生の頃、特に大学の時はキャンプが当たり前であった。なにせ一年のうち2か月あまりは山暮らしであり、当然にテント暮らしである。山小屋に泊まることは稀であった。

なぜなら、あまりお金がないので、山小屋の宿泊費を払うよりも、幕営料を払ったほうが長く山に登れるからだ。私にとってキャンプとは登山のための手段であり、目的ではなかった。

だから昨今のキャンプ・ブームにはいささか閉口する。私が毎日の習慣である本屋巡りをしていると、大型書店ならば必ずキャンプ関連の書籍を置いてあるコーナーがある。

さらっと立ち読みしてみたが、正直言えば私はキャンプするためにキャンプをやる気は起きなかった。もっと言うと、キャンプを美化しすぎにさえ感じた。

さりとてキャンプを馬鹿にしている訳ではない。あのテントの薄い布一枚で得られる安心感は痛いほどによく分かっている。実際、数多くの山を登ってきた私だが、テントなしのビバーク(緊急露営)は可能な限り避けてきた。

だって怖いもの。野外での暗闇の怖さ、吹き付ける風に奪われる体温、寒くて関節が震えすぎて痛くなる辛さ。ビバークは心も体力も削られる。だから日帰り予定のハイキングでも、ザックの底にビバーク用にツェルトと呼ばれる簡易テントを忍ばせておいた。

テント無しで野外で一晩を過ごすのは苦行に近い。朝、起きれば夜露でビッショリで、この不快さは布で拭いた程度では直らない。また、岩の上で眠る寝苦しさも嫌だった。背中の筋肉がひきつるほどにダメージが残る。

実際、大型のテントに泊まっても、ある程度の寝苦しさは避けられない。数百を超える私のキャンプ経験のなかで、一番快適だったのは、対馬の海岸でキャンプした時だ。

下地が砂なので、おそろしく寝心地が良い。また煩いのではと危惧した波の音が、実は子守唄のように快適だと知ったのもこの時だ。もっとも津波や高潮がきたらお終いである。

やっぱりお家で、本の山に囲まれて過ごす寝床が一番である。私はやはり基本ナマケグマなのである。

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