国家予算の三分の一を投じて作られた水路が日本にある。
私は日ごろ役人主導の政治に対して批判的だ。でも全てを否定している訳ではない。そんな一例が上記の地下水路の建設だ。
このことを知ったのは、YouTubuの「ゆっくり土建図鑑」という番組でだ。東北の米どころである庄内地方は、奥羽山脈に降り積もった雪が解けて猪苗代湖に流れ込み、その水が庄名平野に流れて豊かな田圃を作り出す。
しかし、時として猪苗代湖の融水はあふれ出て、庄内平野に水害をもたらしていた。だから江戸時代から奥羽山脈を貫く水路で太平洋側の乾いた平野部を潤すことが考えられていた。しかし当時の技術では、それだけの水路を作り出すことが出来なかった。
そして明治天皇の東北巡幸に合わせて大久保利通が実際に現在の福島県郡山を視察し、かねてからの夢であった猪苗代湖の融水を安積平野へ流す大事業が決定された。富国強兵を目指した明治政府にとって食料増産は必須の目的であったし、西南戦争後の失業した侍たちに農地干拓という仕事を与えて国内の安定を図ることも重要であった。
あの当時、世界最先端の土木技術をもっていたオランダから技術者を招聘しただけでなく、石積工事に長けた大分の職人たちを動員しての一大事業であった。驚くべくはその予算規模で、なんと明治政府の一年分の予算の実に三分の一を投じるといった破格の扱いであった。
冷徹な政治家として知られる大久保がここまで情熱を抱えて挑んだことに私は驚かざるを得なかった。なんといってもここは会津であり、明治維新軍と旧幕府軍との苛烈な戦場の地であり、会津の人たちの明治政府に対する痛烈な恨みが渦巻く地である。
当時の明治政府は、欧米各国から狙われているといった危機意識があり、だからこそ恩讐を超えて国内を落ち着かせる必然性を痛感していたのだと思う。会津の人たちの明治政府あるいは薩長に対する恨みは、これで消えた訳ではない。
しかし、日清、日露戦争、シナ事変を通じて会津の日本帝国陸軍大隊は屈強な部隊として知られる。国家予算の三分の一を投じて大事業は、単なる食料増産、無職の士族対策としてでなく、会津志士の復活という難事業をも果たして賢明な政策であったのだろう。
今のお勉強エリート様たちの政府に同様な事業が出来るかな?
ちなみに該当動画を見つけられなかったので、参考までに私が特に影響を受けた番組が以下のものです。