先月、北アルプスの剣岳でインスタに写真をアップした後、滑落死した登山者がいたが、今度はユーチューブに動画をアップしている最中に富士山で滑落死した登山者が現れたらしい。
暑かった夏を終えて、秋が駆け足で列島を駆け抜ける日本列島なのだが、富士山は既に冬である。冬の富士山は、登山のベテランのみが許される極限の山である。滑落死したユーチューバーがどの程度の力量の登山者なのかは知らない。
知らないけど、冬の富士山の怖さを知らないド素人だと判じても、そう外れていないと思う。死者に鞭を撃つのは褒められた事ではないのは承知している。しかし、先月の剣山同様に、今回の遭難にも私は怒りを禁じえない。
国内の山の中でも、冬の富士山はもっとも恐ろしい山の一つだと思っているからだ。なぜか、この事はあまり一般的ではないようだ。
その理由の一つは、夏の(ここ、重要!)富士登山が以前からのブームであることだ。地元(静岡、山梨)にとっては貴重な観光資源であり、山岳関係者は眉を顰めながらも、素人登山者の富士山登山を黙認していた。
しかし、認められるのはあくまで夏の時期だけである。それ以外のシーズンは、富士観光道路を閉鎖し、山小屋も閉店して、素人の侵入を防いできた。
なぜか?
夏の時期以外の富士山は、日本で最も危ない山の一つであるからだ。まず富士山は独立峰である。独立峰は風の影響を受けやすく、簡単に気候が変わる。ほんの一時間あれば、晴天から荒天に変わるのが、独立峰の特徴だ。
しかも富士山は標高日本一である。標高の高さ=気温の低さである。山で浮「のは風である。だいたい風速1メートルにつき、体感温度は一度変わると云われている。麓で気温20度だとしても、風速20メートルならば体感する温度は0度である。これに標高の高さによる気温低下が加わるのだ。
人間は恒温動物である。体温を一定以上保っていないと、その生命活動は維持できない。体温が30度を下回れば、夏であっても凍死する。正確に云えば、疲労凍死である。
人間、体力が疲弊してくると体温を維持するのが難しくなる。特に風と雨で表面体温を下げられると、奪われる体熱>体内で発生させる体熱の常態に陥り、その結果として生体活動が低下して、疲労凍死に至る。
山において、風と雨により体温を奪われることは死に直結する危険性がある。死に至らなくても、寒さが体力を奪い、思考力さえ衰える。
さらに富士山では、氷結した地面が恐ろしい。まだ10月だが、富士山ならば標高2800メートル以上ならば、既に地表は凍り付いている箇所があるはずだ。特に雨が降った後だと、氷結し、冷たい風に表面が磨かれた恐ろしい地表となる。私はここ以上のアイスバーンを知らない。
10月は知らないが、12月に富士山で開催された登山者講習会に参加した時は、12本歯のアイゼンが食い込まないことに驚いた。堅く凍り付いた登山道が容易に登れなかった。ピッケルを叩き込んで、表面を割ってそこにアイゼンを食い込ませて登ったこともある。
その時の経験からして、厳冬期(1月、2月)の富士山は絶対に御免こうむると胸に堅く誓ったものだ。更に付け加えるならば、富士山に吹き付ける冬の強風は、小さな小石を弾丸のように弾き飛ばす。親指ほどの大きさの小石でも、人を殺傷するほどの威力である。ヘルメットは絶対に必要な山である。
今回遭難死したユーチューバーが、何を目的に登ったのか知らないし、どの程度の技量の登山者なのかも知らない。知らないけれど、動画を撮影中の事故だと報じられている。
山、舐め過ぎである。
富士山は優美な山容を誇るが、登るにはあまりに過酷な山であることも知っておいて欲しいと思います。
地政学とは、地理的な環境が国家に与える政治的(主に国際政治)、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などで国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的として発達した。(wikiより引用)
戦前の日本はともかく、戦後は禁止されたとしか言いようがないのが地政学である。最近は知らないが、私が十代の頃は亜細亜大学くらいしか、講座がなかった。大学教育に於いて無視されたのは、やはり戦争につながる学問であるからであろう。
実際問題、アメリカはこの地政学を強く信奉しており、その国防戦略は今も地政学的見地から構成されている。軍事に密接に関連した学問であるが故に、日本ではタブー視されているが、私は大学、とりわけ国立大学では必修とするべきだと思っている。
地政学の学問的な価値はともかく、現実の政治に反映している以上、無視するのはおかしい。日本がアメリカの軍事的従属下にある以上、アメリカの国防哲学とも云える地政学を学ばないのはおかしいと思う。
地政学にはいくつかの諸派があるが、一つの概念として大陸国家と海洋国家という分類を挙げている。ドイツやフランス、ロシアなどが前者の代表ならば、後者はイギリスとアメリカであろう。日本も海洋国家に分類されている。
イギリスや日本は列島国家であるので当然だが、半島国家であるイタリヤやスペイン、ポルトガル、デンマーク、スウェーデンなども海洋国家である。
ところで、私が不思議に思っているのが朝鮮半島の国家である。この半島にある以上、海洋国家だと分類したいが、実際には大陸国家としての性格が強かった。新羅、李氏朝鮮、そして現在の大韓民国も北朝鮮も大陸国家である。
地政学的見地からすると、本来的には海洋国家の資質は十分である。しかしながら、古代の一時期を除いて、ほぼ大陸国家だと断じて間違いない。
その例外と云える時期が、1世紀から6世紀である。元々朝鮮半島は複雑な海岸線を持ち、小さな島が点在する。このような地形は、必然的に海上交通が発達する。事実、三韓といわれた馬韓、辰韓、弁韓などの古代国家があったとされる5世紀までならば、日本やシナとの海上での交流があったとされる。
しかし、新羅が百済、高句麗を制して以降、海洋での活動は激減し、ほぼ大陸国家としての政権(高麗、李氏朝鮮)が続くことになる。私はこれが不思議でならなかった。
元々の疑問は、壬申の乱以前、古代の日本は朝鮮半島に何度も武力干渉を繰り返している。その理由がよく分からなかった。そこで幾つか仮説を立ててみた。
日本に米作を持ち込んだのは誰か。従来はシナ東北部から朝鮮半島を経由して米作は持ち込まれたとする説が強かった。しかし、遺伝子工学の発達により、これは否定されている。
現在分かっているのは、シナ南部での水稲の遺伝子が、日本及び済州島、朝鮮半島南部の水稲の起源であることだ。そこで一つの仮説を考えた。シナ南部およびインドシナ半島に今も暮らしている少数民族である「苗族」が海流に乗って日本及び朝鮮にたどり着いた。つまり、日本と朝鮮半島南部には、祖先を同じくする苗族の人脈があったと考えてみた。
そう考えると、なぜに古代の大和朝廷が朝鮮半島に干渉する理由になりそうだと思ったからだ。しかし、最近はこの考えに否定的である。もし苗族だとしたのならば、シナ南部とも交渉を持とうとするはずだからだ。しかし、その形跡はない。
むしろ、古代において米作の技術を持ちながら、何らかの理由でシナから逃げ出した少数民族と考えたほうが合理的だと思う。その一方で、それと相前後して、シナの山東半島界隈から、日本列島及び済州島、朝鮮半島南部に移ってきた民族がいたことを仮定してみた。
この少数民族は、日本、朝鮮半島、山東半島を船で行き来していた可能性が高い。後の朝鮮国家とは異なり、この古代の三韓と言われた国家は、海洋国家としての性格を有していたと推測される。後述するが、その可能性を示す遺跡や装飾品などが発見されているからだ。
だが、苗族同様、この少数民族も消え去ってしまった。いや、吸収されてしまったと思われる。水稲の育成技術や、高度な技術などを持ってはいたが、日本でも朝鮮でも異民族として征服されてしまったと思われる。
特に朝鮮半島では、三韓と言われた国々に吸収され、やがて新羅に征服されて、完全に朝鮮民族との同化を強要された可能性が高い。私がそう思うのは、朝鮮半島の南部に対する差別意識が今も残っているからだ。
太平洋戦争の敗戦後、半島出身者たちは一度帰国している。しかし、真っ先に日本に戻ってきたのが南部の出身者、とりわけ済州島の出身者であった。半島での差別意識の強さを厭い、日本に舞い戻ったとされている。
何故に朝鮮では、南部(全羅南道とか光州とか)出身者は差別されるのか。やはり、かつては異民族であったからではないかと思う。いくら朝鮮語を話し、朝鮮の風習に染まったとしても、元は違っていたとの意識は残り、それが差別につながったのだと推測できるからだ。
かつては海洋航海の技術を持っていたが、大陸国家としての性格が強い新羅や高句麗、高麗、李氏朝鮮は沿岸警備以外の船舶の活用をしなくなってしまったと思われる。それゆえに、朝鮮半島の国家は海洋国家とはならずに、大陸国家としての性格が強いのだと思える。
このような見地から、海洋国家としての性格を持つアメリカ、日本とはそりが合わないのも当然ではないかと思う。一般教養レベルでも良いから、大学、とりわけ国立大学では、地政学を再び講座に復活するべきだと思いますよ。
戦後の大韓民国の大統領のなかで、最も日韓の相互理解に貢献したのは、現大統領だと思う。
なんといっても、その頑なで愚かな姿勢は、話し合い至上主義者の日本人が唖然とするほど。これが韓国人の本性かと、認識を改めた方は少なくないと思います。
韓国人といっても戦前の日本で教育を受けた方や、アメリカに留学していた経験のある方も多い。彼らは比較的まともであることは認めても良い。ただし、歴史というかコリアとしての矜持に関わってくると、すぐにおかしくなる。
改めて書いておきますが、朝鮮半島の人々には根強い優越意識があります。もともとはシナの儒教に由来する中華思想がその本体です。しかし、本家のシナが異民族に制圧(モンゴルや清)にされると、真の中華はコリアであると信じ込んだ。
これは認めなくてはいけませんが、シナの中華文明の模倣者として、コリアは極めて優秀な人たちです。本家よりも自分たちコリアのほうが中華文明の継承者として相応しいと思いあがったのも、決して故なきことではないと思うのです。
一方、コリアが蛮族と見下げた日本は、シナの模倣者としては失格でしょう。なにせ、自分たちに合ったものしか模倣しなかった。儒教は学んでも、一番大事な礼記は学ばない。後宮はつくっても纏足はやらないし、科挙も導入しなかった。
シナを中心に評価するならば、日本は間違いなく落ちこぼれでした。だから、コリアはずっと日本をバカにしていた。
ところが、日本は考えて導入するもの、しないものを決めていた。古代の日本人は、もしかしたら今よりも優秀であったかもしれません。なかでも最大のヒットは、儒教を教養に留め、決して宗教としては受け入れなかったことでしょう。だから礼記は敢えて無視した。
春秋戦国期の思想家である孔子は、平和な世の中を求め、その理想を太古の周王朝に定めた。周に倣えとの思想が根幹にあるのが儒教です。平和を求めるあまりに、変化を厭い、停滞のなかに平和を見出したのが孔子でした。
その思想を普及する手段が科挙でしたから、真剣に科挙のために勉学に励んだコリアの支配層(両班)は、変化を厭い、停滞した社会に安住する政治を積み重ねた。
海外の知識を学ぶことに熱心であった日本は、シナだけでなく、西欧からも学び、西欧以外では最も早く近代化を成し遂げた。コリアが日本の後塵を拝するのは必然の結果です。
しかし、コリアの人々は日本が先に進んでいることを認められなかった。だが、嫌でも現実は日本の方が先進国であり、国力も遥かに上であり、かつ世界での認知度も上である。
それが許せないが故に、日本を貶めてコリアの優位性を確かなものにしたい。それを世界に認めさせたい。
結論は決まっている。コリアの方が日本よりも格上である。日本は、そして世界もこの真理を認めろ!
コリアが求める話し合いとは、この真理を相手に飲ませることである。話し合いではなく、押し付けである。この事を最も強引に、かつ傲慢に推し進めているのが、南コリアの現大統領である。
日本人が考えている「話し合い」と、コリアの人たちが言う「話し合い」は全く別のものである。それゆえに、彼らとの話し合いは無駄である。
まぁ、ほっておいてもいずれ自滅すると思います。早ければ12月、来年には自壊するのではないかと予想していますよ。まぁ現政権が続くほうが、日本人のコリアに対する認識を改めることにつながるので、それはそれで好ましいのですけどね。
古代の日本、とりわけ6世紀ごろの日本の歴史ほど厄介なものはない。
日本書記という資料があるのだが、これが危うい。作成を命じたのは兄(天智天皇)の子を殺して天皇の座に就いた天武(大海人皇子)である。そして、実際に書いたのは、藤原家500年(!)の繁栄の元を築いたあの藤原不比等である。
日本書記の内容に、当時の権力者たちの作為がない訳がない。その作為をないものと見做しているのが、従来の日本の歴史教科書である。いや、基本的にそれしかあり得ないのは分かる。
子供の教育に使う教科書ならば致し方ない。だが、少なくても大学などの高等教育の場では、日本書記=絶対という視点はオカシイ。そのオカシイことを平然と見過ごしてきたのが日本である。
さすがに明治時代から、大学教授などの専門家筋ではいろいろと議論がされてきたのは事実だ。しかし、それが一般化したのは、やはり戦後のことである。それは今も現在進行形である。
私も素人の歴史好きの一人として、自分なりに勉強してみて、自分の考えを持ちたいと思っている。もっとも今も勉強中の身である。読むべき本も非常に多く、正直閉口している。
だから、少し視点を変えてみようと思っている。表題の書も、そのために読んでみた。
ただ、このタイトルはいただけない。聖徳太子に関する著述は最後の方だけである。知名度のある聖徳太子をタイトルにもってきたのは、編集者の入れ知恵なのかもしれない。
元々著者は生粋の学者であるせいか、読み物としてはあまり面白みに欠けるので、余計な入れ知恵をしたのだろうと思う。たしかに面白い読み物ではないと思う。しかし、そこは専門の学者だけに、興味ある視点からの記述は面白かった。
私もこの本を読むまで、軽く忘れていたのだが、日本が大陸から輸入したのは仏教や儒教だけではない。道教、いわゆる神仙思想も輸入している。この観点からの装飾品の由来を考察している点などは、けっこう参考になった。
この本が刊行された契機は、あの藤の木古墳である。そこから発見された装飾品の模様から、朝鮮半島と山東半島のつながりを導き出した視点は、さすがだと思う。やはり専門家の見方は一味も二味も違う。
だから聖徳太子を持ち出すのは余計だと思う。まぁ一般受けするのは、聖徳太子だと分るけど、この場合むしろ内容を薄めてしまう。そこが残念な一冊でした。
トラ、トラ、トラ。(我、奇襲に成功せり)
これは、日本帝国海軍がハワイを攻撃した際の成功を伝える暗号である。ハワイはオアフ島の真珠湾内に停泊中のアメリカ海軍戦艦4隻を沈没させ、17隻を大破させた。対アメリカ戦争の初戦としては大成功であるとされている。
本当か?
私はむしろ失敗だったと思っている。少し細かく言えば、戦術的には成功、戦略的には失敗、そして政略的には大失敗だと判じている。
まず戦術的には、航空機による戦艦攻撃の最初の成功例である。これは戦術史上に残る成功だと言ってよい。肝は航空機からの魚雷攻撃(雷撃)である。水深の浅い真珠湾は、本来、航空機からの雷撃は不可能とされていた。
しかし、日本帝国海軍は新型の魚雷を作って、浅い深度で攻撃できる方法を編み出した。命中率の低い投下爆弾とは異なり、魚雷は命中率が高い。ただ、雷撃に使用する航空機には細心の操縦が求められる。レーダー測定器もない時代であり、パイロットの勘で、超低空飛行により目標を定めての魚雷投下は、技術的にかなり高度なもので、そのための訓練を鹿児島湾で繰り返した成果でもある。
ただ、この攻撃の最大の失敗は、一番潰したかった航空母艦が不在であったことだ。これは偶然なのだが、アメリカ太平洋艦隊に所属する空母3隻は、その日は他の海域に赴いており、この三隻を沈められなかったことが、後のミッドウェイ海戦での敗戦に直結する。
更に付け加えるなら、アメリカの主力艦船である戦艦を大破させたことで、日本軍司令本部はアメリカの戦意を挫くと予想していた。しかし、ワシントンの日本の外交官が、寝坊して宣戦布告が遅れたことで、卑怯な不意打ちだとアメリカが宣伝したことで、アメリカ市民は激高した。志願兵が続々と軍に集結して、その前日までアメリカに蔓延していた厭戦気分を吹き飛ばしてしまった。
これが日本軍による真珠湾攻撃の結果である。これを成功だと記載している歴史教科書が、戦後一貫して学校で使われているのだから呆れてものが言えない。
たしかに戦闘としての面を見るならば成功である。しかし、戦争全体を俯瞰して考察するのならば、真珠湾攻撃は失敗であったと評価するべきだ。それなのに、戦闘面(戦術)だけで成功だと教えるのは、歴史教育としても好ましくない。
本当に平和の大切さを教えるのならば、戦闘ではなく戦争を教えなくてはいけない。大局的な視点で、全体を考察してこそ戦争は、その是非を正しく考えることが出来る。
現在、安倍首相の目指している憲法改正は、自衛隊の合法化と自衛権の公認を目指していると思う。それは必要なことだと思うが、真珠湾攻撃を成功だと学校で教えているような間抜けな教育をされている日本人に、本当に戦争を手段として平和を守ることが出来るのか、私は大いに疑問です。
余談ですが、寝坊して宣戦布告を真珠湾攻撃後にアメリカに伝えた日本の外交官様は、戦後どういう訳だが日米平和に貢献したと叙勲されています。このあたり、もう一度歴史を見直して欲しいものです。ちなみに、遅刻したのは前夜に転勤する同僚外交官の送別パーティで飲み過ぎたからです。ついでだから書き添えると、この不祥事を外務省は長く隠蔽しており、発覚したのはアメリカ側の歴史研究者の発表があったからです。
私には戦後の日本人が本当に戦争を反省しているとは思えないのですけどね。