来年4月に迫った消費税の増税。
だが、安倍首相は見直しの可能性を匂わせるし、自民党幹部からも見直しを求める発言が相次ぐ。はたして現行の5%から8%への増税は実行されるのか。
だが、おそらく8%の増税はスケジュール通り実施される可能性が高い。なにしろ消費税の増税は手間がかかる。レジスターから販売管理ソフト、はたまた電卓に至るまで様々な機械、システム、ソフトなどの変更が必要とされる。
だいてい、最低でも一年半の移行準備期間が必要なのが大型間接税である消費税の増税なのだ。そう簡単にスケジュール変更は出来ないし、国税庁からも変更を予定しているかのような指示はない。
新聞等の報道によれば、消費税の見直しは景気の動向次第だという。何を基準に景気の動向を測るのか知らないが、おそらくは日銀の公表する経済統計数値を基にしたものだと思われる。
そうなると、間違いなく景気行動は前向きの数値をだしてくるだろう。この手の数字の細工は官僚たちの得意分野である。新聞もTVもこの大本営ご発表の数字を丸投げして報じるに決まっている。
日頃、反安倍、反自民報道に躍起のマスコミ様だが、何故だが知れぬがこの手の大本営発表の数字は疑うことなく素直に報道している。実に不愉快である。
一応言っておくと私は消費税増税に賛成だ。自分の稼ぎではなく、親などの支援による消費が大きく増えた今日の日本では、直接税である法人税、所得税では捕捉しきれない不労所得が増えている。また法人税には抜け道が多く、所得税には申告漏れが少なくない。
だからこそ流通、小売り段階での課税が可能な大型間接税が、所得の捕捉に有効なのだ。課税回避技術(節税でもあり、脱税の可能性もある)が発達した欧米において、消費税のような間接税が主流となっているのも当然なのだ。
ただ、いい加減マスコミは大本営発表の数字をバカみたいに丸投げした報道を止めたほうがいい。日本の財政赤字が1000兆円を超えたと先日報じているが、その危機感を真面目に報道するなら、負債の反対科目である資産の内容に触れなきゃおかしいだろう。
負債だけ一方的に報じて、財政危機を煽るような間抜けな報道はいい加減にしてほしい。資産評価は時価評価の問題でもあり、記者クラブで配布さえる資料の丸投げに甘えているマスコミ様には荷が重いのかもしれないが、だったら専門家に尋ねて裏をとれ。
ただし、政府の委員会とか審議委員とかに席を置く御用学者ではなく、霞が関が嫌がり、TVや新聞では取り上げられない民間の研究者にこそ訊かねば意味がない。取材されても、TVや新聞が大きく取り上げないと嘆く研究者は少なくないぞ。よっぽど記者クラブの情報統制が厳しいらしい。
財政赤字は嘘ではないが、ストックとしての赤字と、フローとしての赤字は別物。本当の問題はフローとしての赤字で、これを財務省は嫌がる。ここ十数年の国家歳出をみると、支出の4割近くが国債の償還及び利払いに使われている。
つまり正味、財務省が仕切れる予算は6割に満たない。だからこそ、財務省はやたらと財政赤字を口にして増税を唱える。そして記者クラブに席を置く忠実なマスコミどもを使って宣伝に努める。
私は増税を否定はしないが、他にすることもあると思う。赤字を解消するには、まず言い出したトップが自ら率先して範を示すべきだ。それなのに、自らの特権は温存したままでの増税と赤字解消は、あまりに説得力がないと思う。
まず、国会議員の数を減らせ。立法府が自ら範を示さねば行政(官僚たち)が従う訳がない。そこを追及できないマスコミは、御用マスコミの名を冠せられても仕方ないと思いますね。
前回取り上げた漫画「浮浪雲」の週刊少年ジャンプ版ではないかと思っていたのが表題の漫画だ。
実はジャンル分けが難しい漫画でもある。基本、ストーリーのあるギャグ漫画だと思うのだが、時折シリアスな展開もみせるし、お涙頂戴ものの人情噺もある。もちろんギャグ漫画としてのツボも外さない器用貧乏な漫画でもある。
「こち亀」ほどマニアックではないが、他の漫画のパロディもあるし、とにかく飽きさせない内容が長期連載の秘訣であったのだろう。ただし、十数年に及ぶジャンプの長期連載漫画でありながら、絶大な人気を誇っているわけでもない。でも、ジャンプに連載がないと寂しく感じる漫画であるのも確かだ。
主人公の銀さんこと坂田銀時は、侍が侍でいられなくなった時代に侍の魂を持ち続けている男との設定であり、その毅然たる姿勢は「浮浪雲」の主人公に通じるところがある。しかし、ジャンプの読者は少年たちだ。
社会主義への情熱を断たれたおじさんたちが「浮浪雲」を支持するのとは事情が違い過ぎる。なにゆえ「銀魂」が、これほど長い間人気を保ち続けてきたのか、私には分かりかねた。
最近になって知ったのだが、どうも「銀魂」は主人公よりも、サブキャラに人気があること、またネタが豊富な故に様々な嗜好の持ち主を惹きつける魅力があることが分かった。とりわけ真撰組(誤字ではありません)の土方や沖田への女性人気は凄いらしい。
あくまで一般論だが、長期間にわたり人気が続く漫画は、主人公の魅力だけではダメで、サブキャラクターにも主人公に引けを取らぬ魅力が必要とされている。実はこの漫画、サブキャラの数が多い。しかも多彩であり、桂のようなシリアス・キャラからエリザベスのような不思議キャラまで覚えきれぬほどの多くのサブキャラが登場する。
いってみれば、幕の内弁当であり、和洋折衷のバイキング料理のようなものなのだろう。この多彩さこそが、嗜好の多様化した現代にあって多くのファンを掴むに至った理由なのかもしれない。
ちなみにヒロインは神楽という一見元気なチャイナ風少女だが、実は地球人ではなく銀河屈指の戦闘民族の大食い暴力娘。ヴィジュアル的には十分可愛いと思うが、一部のファンからはゲロインと呼ばれているらしい。なんでもジャンプ漫画のヒロイン史上、最も沢山ゲロを吐いているからだそうだ。それを聞いた時はあたしゃ、思わず吹き出したぞ。
くだらなと思わないでもないが、ついつい読んでしまう。まったく一筋縄ではいかない漫画だと思いますね。
あまりに気怠すぎて読む気にならなかった。
ジョージ秋山といえば「銭ゲバ」「アシュラ」「デロリーマン」と子供たちの心を深くえぐるような漫画を描いてきたことで知られていた。そのエグイ内容は、あたかも血に塗られた鈍刃のような恐ろしさを伴っていた。よくぞ少年誌に連載されていたと、今さらながら呆れてしまう。
しかし、人気を博した表題の漫画は、あのジョージ秋山が描いたとは思えないほど長閑な作風であった。はっきり言えば、裏切られたかのような読後感であった。だから私はよほど暇でない限り、読むことはなかった。
ところが不思議なことにこの漫画、中高年に当時大人気であった。あの頃、なんであんなつまらない漫画が人気なのか、さっぱり分からなかった。だが、自分が中高年になってみて気が付いた。
癒しが欲しかったんだと。
70年安保闘争は失敗し、学園紛争は尻切れトンボに終わり、社会党が政権をとることも絶望的となったあの時代。若き青春の血のたぎりを、デモと論争に投じながら、遂に実らず、夢は頓挫したあの時代。
ロングヘアーの髪をばっさり切って、就職活動に勤しみ、かつて蔑んだ体制側に安住する平凡な社会人である自分を自覚した時、何事にも達観しつつ、自分を失わない主人公に、ある種の理想を感じたのではないか。
決め台詞「おねえちゃん、あきちと遊ばない」と軽薄に振る舞う一方、居合抜きの達人でありながら決して荒ぶることをせず、飄々と激動の時代を流れるように生きている主人公の姿に、青春の挫折を癒せずにいた大人たちは憧れを抱いたのではないか。
自分が中高年になってみて、初めてこの漫画が当時の大人たちに人気であった原因に気が付いた。もっとも私自身は、この年になっても特段この漫画に魅力を感じることはないが、1970年代から長期連載が続いていることには敬意を表さざるを得ない。
若い頃は、この漫画に苛立ちさえ感じたが、今は落ち着いて読めたことを思うと私も大人になったもんだと思う。あんまり嬉しくもないのですがね。
明るい日の光の下で、幸せになれよ。
少し苛立ちながらも、十代の頃の私はそう毒づいていた。別に夜の稼業を蔑んでいたわけではなく、堂々と太陽の下で暮らすありがたみと幸せを大切だと考えていたからだ。
十代半ばの頃、一時ではあったが私は五木寛之にはまっていた。学校の図書室にある作品は、半年足らずの間に全て読み漁った。これだけ熱中したのは、ドン・ペンドルドン以来であり、文字通り夢中であったと思う。
その情熱が途絶え、いつのまにやら反感が噴出するようになったのが何時なのか、私自身はっきりとは覚えていない。だが、そのきっかけの一つが藤圭子に対する五木寛之の傾倒ぶりにあったことは確かだ。
タイトルの歌が大ヒットをかましたのは1970年であり、私が五木の小説に熱中していたのは70年代後半なのだから時期的には大きくずれる。もちろん、この歌は私も知っている歌ではあったが、私にとっては過去の歌に過ぎなかった。
もちろん名曲だと思ってはいたが、過剰な思い入れがないだけに、エッセイなどで五木が「素晴らしい怨歌だ」とやたらと持ち上げていることに違和感を感じた程度であった。この小さな違和感が次第に大きく育っていったのは、学生運動家たちへの失望が大きな要因であることは間違いない。
子供だった私の目に虹色の未来を投げかけた社会主義運動への失望が、五木寛之への失望と大きく連動しているのは確かだ。ただ、それとは別にこの藤圭子の大ヒットソングに対する過剰な思い込みが、私に理想と現実との乖離を気付かせる入口となっていた。
私自身は、酒を飲みだす高校生の頃までスナックや居酒屋とは無縁であったが、地元の銭湯やゲームセンターなどで夜の飲食店で働く人たちと顔見知りになっており、しかも夜遊びの好きな子供であったので、ホステスさんたちとも無縁ではなかった。
また社会主義運動家の青年たちは、不思議なほどホステスさんたちと連れ合うことが多く、彼らのアパートに出入りしていた私は自然とその生活ぶりを散見するようになっていた。
もちろん通りすがりの子供目線であり、大人の事情など分かりはしなかった。それでも私には幸せになれるカップルと、そうでないカップルがあることは分かった。いかに夜の仕事をしていようと、昼間明るい太陽の下でも楽しげな笑顔を交わせるカップルは、後々までも幸せでいられたように思えた。
反面、そうでないカップルには、どこか暗い翳を感じることがあり、その幸せは長続きしないように思えたのだ。もちろん、これは子供の偏見であることは分かっている。私は夜に映える白くて艶めかしい女性の肌の魅力を否定する気はないが、好きなのは太陽の下で適度に日焼けして、汗が輝くような肌に女性の色気を感じる性分であったことも偏見の一因ではある。
また昼間にする化粧と、夜にする化粧の違いを、なんとはなしに感じていたことも大きかった。だからこそ、藤圭子の歌ったこの曲にある種の反感さえ感じていたのだと思う。
今でもいい歌だと思っているし、名曲だと認めてもいる。でも、その歌詞の内容に対しては、やはり虚心ではいられない。夜に働く人は沢山いるし、そのなかで仕事に幸福を感じ、十分満足している人も少なくない。
でも私は知っている。いつかは夜の商売から足を洗い、明るい陽の下で幸せをつかみたいと願っている人が少なくないことを。夜に花を開かせるのもいいけど、花は太陽の下で開いてこそ輝くと思う。
歌手である藤圭子の歌うこの歌は、多くの人の心を揺さぶった。それは確かだと思う。でも、藤圭子自身は昼間に花を咲かせることが出来たのだろうか。つい先ほど、ネット上に彼女の死亡の報道がなされた。
どうも飛び降り自殺であるらしい。夢を夜に咲かしちゃいけないよ、明るい太陽の下で咲かせなくては。私の偏見だとは思いますがね。
今さらだが、年をとったものだと嘆いている。
この夏の暑さは昨年以上で、熱波という言葉が相応しい猛烈な夏だ。学生の頃なら、いくら暑くても夏休みというバカンスが、たっぷりとあったので悩むことはなかった。むしろ、どう暑さを楽しむかを悩んでいた。
しかし、社会人はそうはいかない。私に限って云えば、8月の休みは土日と水曜日だけで、後はまったくの休みなしである。もっともスタッフには一週間の夏休みを認めている。
なんで水曜日だけ休むのかといえば、実は8月はあまり仕事がなく、週五日フルに働くと暇が出来てしまうからだ。故・佐藤先生は、8月の暇な日は半日で事務所を閉めて済ませていたが、私はあのダレた雰囲気が嫌いで、むしろ仕事にメリハリを持って欲しくて敢えて8月限定で水曜日を休みにしている。
いくら仕事が少ないといっても、さすがに週五日勤務から四日になると厳しい。でも、スタッフたちは出勤時間を自主的に早くしたりして、上手に仕事を遣り繰りしているようだ。このほうが仕事に緊張感があるので、当面はこの体制でいこうと思う。ただ9月にツケが回るので、ちょっときつくなるのが難点。まァ、スタッフが喜んでいるので、当面はこのままでいくつもりだ。
それにしても、今年の夏の暑さの中、仕事に出るのはいささか憂鬱だ。家を出て外を歩き出した途端に、あの熱波と称すべき暑い太陽の日差しに襲撃されるのである。これはキツイぞ。
気が付くと、外歩きの時は無意識に日陰を探しながら歩いている自分に気が付いた。ちょっとショックだった。
若い頃は陽に焼けるのが好きで、むしろ好んで日差しの真ん中を歩いていたはずだ。それなのに、暑いのを厭うて日陰を探しながら歩いているだなんて、驚きを通り越して呆れてしまった。いや、むしろ自己嫌悪に罹られた。
この愚痴を友人に話したら、いや俺もだと同意された。やっぱり、みんなこの暑さは疲れたオジサンたちには辛いらしい。なんだ、みんな同じじゃんと妙に安心したが、同意したのは同い年の奴らだけ。後輩からは、「ボク、若いっすから気にしないです」とあっさり返された。
ふん、おめえだって数年後にはそうなるんだよ。そう毒づいたが、ちょっと悔しい。たしかに40代までは頭上に輝く太陽を避ける気持ちなんて、ほとんどなかった。
それを厭うようになったのは、最近のことで汗をかくから嫌、暑いから嫌、疲れるから嫌という情けない理由であるのは自覚している。なんか情けないぞ。。
もっとも最近読んだ雑誌の記事では、空調の効いた涼しいオフィスに長くいると汗をかく機能が低下して、結果として体臭がきつくなることがあるらしい。たしかに汗には、体臭の素となる老廃物を体外に排出する機能がある。なまじ涼しい部屋で長く過ごすと、その老廃物が排出されず体表に残り、強烈な体臭となって臭いらしい。
毎日、汗を大量に流す私には関係ない話だが、そういえば某役所に行った際、対応に出た役人さん、えらく臭かった。あれだけ空調が良く効いたオフィスにいれば、たしかに汗はかかないだろう。おまけにその役所、駅から離れているので車での出勤が普通みたいだし。そりゃ、汗はかかずに済むだろう。
夏に暑いのは、むしろ当然のこと。汗をかくのは仕方ないが、加齢臭だって無視できないお年頃なのも事実。臭いと云われないようにしたいものだ。お洒落音痴で、香水嫌いの私だけど、他人の悪臭も大嫌い。自分が嫌いなことを他人に押し付けるのも嫌だ。
そうなると、私も汗臭さを減らすための対策、たとえば香水とかも少し考えたほうがいいかなァ?