光が描けなかった。
絵を描くのが好きな子供であった私が、自分の才能に限界を感じたのは10代初めであった。小学生の頃は、区から賞をもらって展覧会に展示されたこともあった。
でも、私はそのことを誇りに思うよりも、恥ずかしいとの気持ちのほうが強かった。自分が描きたいと思っているイメージと、実際に描いた絵とのギャップに悩んでいたからだ。
あくまで子供のレベルでの話だが、私は光の変化を絵に表したいと願っていた。しかし、その技法を知らなかった。あくまで学校の美術の授業で教わるレベルであり、本格的に絵を学んだことはない。
しかも、私は授業をまともに聞いていない注意力散漫な子供であったから、美術の時間も一人で勝手に悪戯描きをノートに描く事に夢中であった。だから、絵を描く技法自体、まるで知らなかった。
ただ、母は私たち兄妹を美術館や博物館に連れて行ってくれたので、幼い理解ながらも高いレベルの絵を鑑賞する機会だけはあった。あの頃、私が憧れたのが、水草が咲き乱れる池を描いた絵であった。
どこで観たのかは覚えていない。ただ、その絵からは光が揺らぐのが感じ取れたことだけは覚えている。こんな絵が描きたかった。でも、描き方を知らなかった。
描きたいものが描けないジレンマに悩み、いつしか私は絵を描くのをさぼるようになった。読書に夢中になっていたせいでもあるが、幼い頃は白紙のノートに、やたらめったら絵を描いていたのに、中学生の頃には描かなくなっていた。
描き続けなければ、なおの事下手になる。自分の絵がますます下手になることを一人勝手に恥じていたので、高校生の頃には素描でさえまともに描けていなかった。
再び絵を描きたいと思ったのは、大学4年の頃だ。ワンゲルの部活が引退となり登山ものんびりしたもになってから、ようやく山のスケッチを描きたいと思えるようになった。
社会人になったら、夏と秋はフリークライミング、冬から春は低山ハイクでのんびり山のスケッチ画を描こうと考えていた。まさか難病で山に登れなくなるとは予想だにしなかった。家と病院を往復するだけの毎日は、私を飽きさせ、再び絵を描くことも考えた。
しかし、長く苦しい闘病生活は私の心までも病み衰えさせてしまい、絵を描けば暗い怨念が湧き出てきそうになり、怖くなって描く事を止めてしまった。
それでも不思議なことに絵を観ることだけは、密かに続けていた。入院中に外出許可を貰ってまでして観に行ったのは「ターナー展」だし、病状が安定して税理士試験に挑んでいる最中も、空いた時間に上野の美術館を散策していた。
そこで、ようやく気が付いた。私がこんな絵を描きたいと考えた契機となったのは、モネの睡蓮の絵であったことに。思えば、私がターナーに惹かれたのも、彼が美しい光を描写する絵を描く人であったからだ。
久しぶりに観たモネの絵からは、静かな池に咲く睡蓮の花の上に降り注ぐ日差しが、柔らかに描かれていた。そう、こんな絵が描きたかったのだ。
あれから20年以上が経ったが、未だ私は絵筆をとることはない。仕事が忙しいとか、読みたい本があるとか言い訳は沢山あるが、なにより絵筆を手に取って描きたいとの思いが募らないことが最大の原因だ。
それでも絵を観ることは好きだ。年末のターナー展は都合が付かずに行けなかったが、モネ展はなんとか観に行けた。静かで、柔らかで、穏やかな風景は何時みてもいいものだ。
日々の私の心とは裏腹であるがゆえに、私はモネの絵が好きなのだろうと思うな。
先日のことだが、船井総研の創設者である船井幸雄氏の訃報が伝えられていた。
守秘義務が絡むことなので書けなかったが、私は昨年には危ないらしいとの噂を聞いていた。だから訃報に驚くことはなかったが、改めて考えさせられる人物である。
私は普通の税理士であり、コンサルタントを名乗ったことはないが、仕事のうちにコンサルタント的な部分があることは自覚している。だからこそ、国産のコンサルタントの草分け的存在でもある船井氏には興味を持っていた。
コンサル業界というのは、大半が外資、特にアメリカ系のコンサル会社が主流を占めるのだが、船井総研は純国産のコンサル会社として初の上場を果たした大物である。
その仕事は恐ろしく間口が広く、駅前の食堂のレイアウトからメニュー作り、パチンコ屋の新装開店のャXターと、小さなお店から大規模店舗に至るまで広範囲に及ぶ。ある意味、極めて日本的なコンサル業務を行ってきた会社が船井総研であり、極めて興味深い仕事ぶりであった。
ただ、関西はいざ知らず関東では税理士業界とはあまり友好的な関係にはなかった。詳細は省かせてもらうが、法律で認められた独占業務である税理士業務に強引に入り込んできた経緯があるため、私の周囲では評判はあまり芳しくない。
その一方で、私は幾人かの経営者から船井氏のコンサルの成果を誇らしげに語られた経験があるので、その実力は認めざるを得ないとも思っていた。実際、船井氏の熱烈なファンはけっこう多い。
ところが、船井氏を嫌う経営者も少なくなく、その悪口も聞いていたので評価の難しい人物だと思っていた。私自身は直に船井氏の会ったこともなく、講演等で話を聞いたこともない。ただ、著作は何冊か読んでいた。
白状すると、その著作に対する評価はあまり高くはない。以前このブログでも取り上げた「100匹目の猿」もそうだが、なんとなく口先の上手い人との印象が拭えない。船井総研のコンサルの成果をいくつか見てきて、その成果を賛美する経営者を知るだけに、著作の軽さが気になっていた。
何時頃からなのかは知らないが、オカルトとまでは云わないが、スピリチュアルというか精神世界への傾倒が目立ってきて、その主張を胡散臭く感じてしまうのだ。
誤解を招くと困るので、予め書いておくと、私は「失敗には原因があり、成功には運がある」と思っている。運というと、あまりに曖昧であり、論理的でも科学的でもない。
しかし、経験的に成功者には運があったと思わざるを得ないことが少なくない。運、あるいは精神的な支柱、もしくは宗教的なものは、意外なほど経営者に重視されることが多い。
実際、社内に神棚を設けたり、願掛けのダルマを置いたりしている事業者は多いはずだ。また祖先等への礼拝、参内、墓参りなどを欠かさない経営者も多い。私の経験的にも、そのような神事、祭事を大切にする経営者には優れた人が多い。
例えばある仕事の契約内容や、その契約に至る前後の経緯などを記した書面を見たいと頼むと、すぐに出してくれるような会社には神棚などが置いてあることが多い。契約書などの事務文書の保管、整理がしっかりしている会社は、先に挙げた礼拝、墓参りなどをしっかりとやっているところが多いと私は感じている。
思うに経営というものは孤独なものだ。いかに論理的にしっかりと構成された計画でも、売れるかどうかは市場次第。その決断は経営者一人の胸の内次第である。この孤独さを支えるものとして、神事や祭事に重きが置かれるのだろうと考えている。
これは経営に限ったことではなく、政治家や芸能人などにも数多く見られる。守秘義務があるので具体的な名称は出せないが、世間的に名の通った立派な企業には、占い師や名刹の住職などがアドバイザーとして活用されていることは決して珍しいことではない。
その意味で船井氏がスピリチュアルなど霊的なコンサルティングを志向するようになったのも、私からするとそう不思議ではない。
ただ、晩年の著作は少し行き過ぎかと思うこともある。でも、それを支持する読者が少なくなかったのも事実であり、私も否定する気はない。もっとも私自身は、そのような霊的な助言とかコンサルには興味はない。
実は晩年の船井氏の仕事というか、講演などを間接的にだが知る立場にあった。白状すると、あれあれ・・・と思ってしまったのは、あまりに精神世界への傾倒が激しかったからだ。もはや経営コンサルとは言えないのではないかと感じていた。
その仕事が病床から発せられたものであることも知っていたので、無理もないかもしれないと思っていた。詳しくは聞かなかったが、治療が難しい疾患であるらしかった。なれば精神世界への傾倒ぶりも分からなくもない。
私自身、経験があることだが、病床で治るかどうか分からない状態になると、どうしても精神的のものへの依存が増えてくる。それを非難するほど私も分からず屋ではないつもりだが、それでも批判的になるのは避けられない。だから晩年の船井氏に対しては、どうしても好意的な評価とはならない。
でも駅前の小さな食堂で、その店の机の配置や椅子のデザインにまで細やかな指示を出し、店主と一緒にメニューの考案にまで心血を注いだ、若かりし頃の船井氏の業績には、素直に評価したいとも思っている。
まったく評価の難しい人物だと思いますね。
なぜに労働組合を責めないのか。
昨年以来、JR北海道に対する非難が絶えない。結果責任を負うのは、最終的には経営者である以上、政府から厳しい指弾をされるのは致し方ない。実際、組織ぐるみで不正を行い、やるべきことをしてこなかった責任があるのは間違いない。
しかし、いくらJR北海道の経営者を厳しく責め立てても、同じ過ちを繰り返す可能性は高い。
もともと、この問題が生じたのは、経営者と現場との間の意思疎通が上手くいってないからだ。その原因は国鉄分割、民営化にまで溯る。当時の国鉄を壟断し、腐敗させていたのは利権絡みの政治家(政治屋だな)や地方の土建業者だけではない。
なによりも、左派的政治活動に熱中し、本来の仕事をないがしろにし、鉄道ストを頻発させていた国鉄の労働組合こそ、国鉄腐敗の一方の主役である。勤務時間中の組合活動(これは違法だ)のみならず、常習的な遅刻や就業時間中の入浴あげくに飲食まで既得権としてふりかざした。
だからこそ、いささか強引に過ぎた国鉄の分割民営化は国民から支持された。当時、社会党や民社党、共産党などが必死で国鉄民営化を阻止しようと騒いでいたが、その直後の国政選挙で歴史的大敗をしたのは、国民が国鉄をどうみていたかの何よりの証拠であった。
そして、大赤字のJR北海道に再雇用されなかった旧・国鉄職員の恨みを受けて、再雇用されてJR北海道にもぐり込んだ労働組合員たちが経営者や幹部たちと、現場の職員たちとの間に立ち塞がった。
この実質的な妨害行為の一つに、JR北海道の経営者と現場との距離を空けてしまうことであった。つまり現場の声は経営者に届かないし、経営者の指示は現場には届かない。これでは事故が起こるのは必然である。
たいへん厭らしいことに、この労働組合員たちの妨害行為は言質を残さず、責任者の所在をあいまいにする形で行われている。明白な違反行為はなく、誰が妨害しているのかさえ分からないよう巧妙に行われてきた。
現場が指示どおりに動かない現実に諦めた幹部たちが、本社の指示を改竄し、指示を守ったがごとく偽装したのは間違いを嫌がる官僚的指向の顕われに過ぎない。民営化しても、長年の減点評価に馴らされた役人気質は民営化出来なかったのだろう。
だから今回、処罰が下されたのは必然であり、当然でもある。でも、裏の主犯たる労働組合を野放しにする以上、これからもJR北海道での事故はなくならないはず。
それは現場を取材しているTVや新聞の記者たちは知っているはずだ。それなのに、何故労働組合批判をしない。おかしいぞ、マスコミは。
仕事が落ち着いたら、北海道には観光に行きたいと思っていますが、正直今のJRには乗りたくないですね。
いっそう、御破算にしてやり直したほうが良かったのではないかと思うことがある。
なにがって、銀行である。住専を筆頭に多額の不良債権を抱えた銀行は、もはや単独では生き残れなかった。だが、日本の金融システムを維持することを最優先した大蔵省(当時)は、なるだけ隠密に、可能な限り国民には知らせないかたちで、銀行の再生に乗り出した。
今さら詳細は語るまい。10年前に株価が100円を割り込んでいた銀行が、2014年1月現在で200円台にまで回復している以上、大蔵省がとった方針は間違っていたとは言えまい。
しかし、私としては正しかったとは言いづらい。日本最大のメガバンクの株価が200円台なんだから、笑ってしまう。なんなんだよ、この銀行は。
さて、振り返ってみるとバブル崩壊以後の、いわゆる失われた10年は平成大不況とでもいうべきデフレ不況であり、企業は売上を伸ばせず、個人は収入を増やせない重苦しい歳月であった。
それは日本が初めて経験する、金はあっても欲しいものがない、金もないが稼ぐ機会もないという停滞した十年でもあった。一言で云えば、大幅な需要不足に悩んだ10年でもある。
この不況は意図されたものでもある。財政赤字に悩む大蔵省が企画し、小泉構造改革の名の下で実施された大幅な財政支出の削減こそが、その本体である。
私はその方向性は間違っているとは思わない。でも、間違っていたのは、その実施方法であった。本来、このような財政改革は、まず実施者自らが率先してやってみてこそ説得力を持つ。
しかし、財務省に名を変えたエリートたちは自らの特権は死守し、法案を通した国会議員たちは自らの利権は手放さなかった。バブル経済の崩壊の象徴たる不良債権を生み出した銀行は、合併の名の下に大規模な統合を余儀なくされたが、責任者たちは処分されることなく役員の座にしがみ付いた。
その癖、構造改革の旗印を掲げて断行されたリストラは、弱いものから切り捨てられた。それを弱肉強食の名の下に正当化するならば、不良債権を生み出した経営者たちこそ、まず第一にリストラの対象となるべきだ。
そうならなかったのは、霞が関のエリートや、永田町の先生方が自分たちを構造改革の対象から外し、ぬくぬくと居座ったからだ。それを見ていた銀行の経営者たちが、自らをリストラの対象から外し、責任を弱い立場の者に押し付けたのも必然だと云える。
大蔵省が意図したとおり、日本の金融システムは破綻することなく生き延びた。破たんによる大混乱を回避できたのは確かなのだから、本来正しかったと評するべきかもしれない。
しかし、私はとてもじゃないが、正しかったとは言えない。何故なら本来、リストラされるべき無能な経営者たちが温存された結果、改革は迷走し、図体がデカイだけのボンクラ銀行が育ってしまったからだ。
世界屈指の巨大銀行でありながら、みずほ銀行(現、みづほホールディングス)はまるで世界に通用しない駄目銀行のままである。公的資金と云う名の税金を投入して不良最近を処理したはずなのに、今の株価200円台とは、いったいどういうことなのだ。
なぜに、この巨大銀行が駄目なのかは表題の本に詳しいので、読んでもらうのが一番だ。派閥村の泳ぎ方だけに長けた駄目頭取の迷走に代表される、みずほ銀行の醜態が、これでもかというぐらいに書かれている。
時々TVにも登場する須田氏は金融ジャーナリストとして著名だが、率直に言って左翼的マスコミ人であり、大企業に対して批判的な立場をとりがちなことが多い。その点を差し引いても、この巨大銀行の醜態はあまりにヒドイ。
金融システムを一時的に止めても、このような駄目銀行は市場から退場してもらい、新たに健全な銀行の登場を待つ方が良かったのではないか。私にはそう思えてならないのです。
昨年、心筋梗塞で緊急入院してから、ほぼ一年となる。
実を言えば、私が死ぬ時は心臓疾患だろうと前々から思っていた。これは幼少時に心雑音と診断されてからずっと思っていたことで、その意味で驚きはない。
ただ、いささか早過ぎた。私は勝手に60台後半で心臓マヒで突発的に死ぬものだと思っていたが、まさか50代初めで心臓にガタがくるとは思ってもいなかった。
手術後、医者からのカンファレンスでいろいろと説明を受けたのだが、心臓から出ている3本の太い動脈のうち、今回詰まってしまった一本以外の他の血管は綺麗なものだった。
詰まってしまったのは、その一本の一部に瘤があり、その瘤で血液が滞留してしまい血栓化したことが心筋梗塞になったのだと説明を受けた。医師チームでは、当初この瘤自体を外科的に取り除くことも検討したそうだ。
しかし、この血管は心臓の裏から出ているため、除去のためには開胸手術をして心臓を採り出し、その上で瘤の除去をする必要があるので、そこまでやる必要はないと判断したと聞かされた。
だから現在も、この血管上の瘤はそのままだ。詰まらないように血液をサラサラにする薬を飲んで、血栓が出来るのを防いでいる。おそらく一生涯飲むことになるだろう。でも、今までも降圧剤を飲んでいたので、それに加わるだけ。どうせ薬漬けの人生だと覚悟しているから、たいして気にはしていない。
もっとも、血がサラサラであり過ぎるので、失血すると止まりにくくて困っている。鼻血が出れば完全に止まるまで30分ちかくかかるし、髭剃り負けの失血ともなると、半日は絆創膏を貼ってないとならない。日常的には、これが一番困る。
とはいえ、この程度の困惑で済むなら、それで十分幸せだとも思っている。このまま健やかに老年を迎え、徐々に弱りつつも、静かに仕事が出来て、余暇に読書を楽しめ、時たま気の置けない仲間と楽しい時間を過ごせれば良いなと、実に楽観的に考えている。
このいささか楽観的に過ぎる人生終盤の予定を全うするためには、今のままではいけないことも自覚している。そのために、まず食生活の改善から始めることにした。
まず、肉を減らし、魚を増やし、今まで以上に野菜を増やす。幸いなことに、近年なぜか脂身の多い肉を美味しいと思えなくなってきている。焼肉屋にいってもカルビよりもロースを好み、更に今まであまり食べなかったホルモンなどを食べるようになっている。
一つの部位に拘るよりも、いろんな肉を食べる方が身体にはイイらしいので、悪くない傾向だと思っている。
また年初に書いたように、今年は野菜料理も増やすようにしている。まだあまりレパートリーは増えてないが、とりあえず野菜の蒸し料理が献立に並ぶことが増えた。簡単だし、手軽なので重宝している。
それと意識してキノコ類も数多く摂るようにしている。今年は野菜が高めなので、キノコでかさ上げしている面もあるが、この菌繊維の塊は身体にもイイらしい。
でもね、あまり身体に良い事ばかりしていると、私のなかのヤンチャな部分が反抗期になるので、時折身体に良くないと分かっていても甘いものを食べることもしている。好きなものを無理に止めるのは、精神面で良くないと思う。
ただし、甘いものを夜遅くに食べるのは止めている。夕食の直後など、時間を決めて食べる方が糖質の害は少ないようなのだ。
今のところ、この程度の食生活改善なのだが、多分続ければいい事あるはず。ストレスになるような無理なことはせず、あくまで美味しい食事が一番とのコンセプトの下での改善である。
まだ目に見える効果は出てないが、無理してないので妙なストレスもない。怠け者の私の場合、この程度でいいのだと思う。