明治維新の本質は内乱による権力交代である。
どの時代、どの国にあっても内乱は悲惨で苛烈なのが通例だ。同じ国の仲間同士の争いであるが故に、むしろ憎悪と恨みが絡み合い、庶民も巻き添えにした壮絶な殺し合いが内乱では普通に見られる。
明治維新においては、徳川家が幕府を置いた江戸こそがその内乱の最大の戦地となるはずであった。しかし、幕臣の勝海舟と維新側の西郷隆盛との話し合いにより江戸城の無血開城がなされたことにより悲惨な内戦は最小限に留められた。
本来ならば江戸に攻め込む情念に燃える維新側にとって最も盛り上がる場面になるはずであった。連戦連敗の幕府側はただただ維新軍に蹂躙されるだけのはず。話し合いなんて必要ないと思っていたはずだ。
しかし山岡鉄舟が駿府に駐屯中の維新軍に乗り込み、会談の設定を取り付けた。これは幕府側に切り札があったからだ。勝海舟が事前にあれこれと対策を練った成果でもある。その対策の一つに江戸の街の焦土作戦がある。
勝は江戸の街の火消したちを集めて、もし維新側が攻めてきたら火をつけて江戸の街を燃やし尽くせと命じた。火消しの大親分である新門辰五郎は仰天したが、それでも小吉の旦那の息子さんの顔を潰すわけにはいけねえと請け負った。
火消しだけでなく、博徒やごろつきまで含めて江戸の暴れん坊たちから慕われたのが勝小吉である。いや、小吉自身が暴れん坊の代表格であった。とにかく子供の頃から喧嘩好きで、勉学は好まず、武芸もやらず。ただし喧嘩だけは江戸一と云われ、武芸者では剣聖とまで言われた男谷精一郎でさえも軽くあしらったという。江戸の三大道場に喧嘩を売りに行くのが大好きだが、酒や賭博はやらず専ら喧嘩と吉原遊びに傾倒した。
だから親が望んだ幕府への士官は叶わず、その代わり江戸一の暴れん坊として名を上げた。ちなみに息子である勝海舟(麟太郎)は、小吉が二度目の家出をした罰として、実家の座敷牢に3年間蟄居させられた時に産まれている。座敷牢って何なんだ?
こんな破天荒な親父を反面教師として育った息子は、徳川幕府を潰しても日本を守りたいと考えるトンデモナイ幕臣であった。しかし、その思いは敵である西郷にも熱く伝わり、無血開城という結果に結びついた。
それにしても海舟の実父がここまで無茶苦茶な人物だとは知らなかった。無職の浪人だとは知っていましたが、表題の書を読むと浪人というよりも不良親父であり、侍というよりも与太者。武芸の技量はなくとも天性の喧嘩上手で荒れた幕末の江戸に無頼風を吹かした小吉は、品の良い歴史家には評価しずらい人物だと思います。
だが小吉の息子であったからこそ、江戸の暴れん坊たちは勝海舟の無茶な要請に応じた。これはこれで事実として明記されて然るべきでしょうね。ただ霞が関のエリート官僚様は嫌がるだろうなぁ。だって、彼らが一番苦手なタイプですからね。