ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

雨音の報せ

2010-11-30 12:56:00 | 日記
季節はずれの大雨は、どこが居心地が悪い。

当初の目的は紅葉を愛でつつ、河辺でバーベキューとキャンプファイヤを楽しむ予定であった。もっとも紅葉云々は、女子部員たちを慮ってのもので、本音はバーベキューであった。

ところが、当日は朝から曇り気味で、キャンプ場に着いた時にはシトシト雨となった。どんより曇った雨空での紅葉は、とても楽しめたものではない。でも、川面を埋め尽くす落ち葉の流れ行くさまは、やはり綺麗なものであった。紅葉の絨毯とでも言いたくなるほど大量の落ち葉が、川を流れていた。

次第に雨が激しくなったので、バーベキューは屋根つきの炊事場でやることにした。既に晩秋の時季であるにも関らず、温暖前線が運んできた生暖かな空気が、妙に気持ちを不安にさせる。

とはいえ、食べ盛りの高校生だ。肉はもちろん、野菜も焼きソバもあっという間に胃袋に消える。片付けを済ませて、学年ごとに分かれたテントに戻って、翌朝のハイキングに備える。予報では明日は晴れるはずなのだ。

満腹感も手伝って、皆早々に寝入る。ただ、テントの布地に叩きつけられる雨音が妙に気になり、私は熟睡できずにいた。寝つきのいい私としては珍しいことだった。

私の隣に寝ている部長のKも寝付けないようで、寝袋の中でゴソゴソしているようだ。寝不足で朝を迎えるのは勘弁なので、無理やりにでも寝ようと試みるが、どうも今夜は気持ちが落ち着かない。

それでもいつの間にか寝入ったらしく、足音で目が覚めた時は既に0時をまわっていた。足音?

テントを叩き続ける雨音に混じって、誰かが外を歩き回っているようだ。それも一人ではない。足音の感じからすると、複数であるように思われた。

変に思い、寝袋を這い出して入り口を開けてみるが、不思議なことに人の姿はない。ただ薄暗い河原の風景とテントが並ぶだけだ。はて、あの人の気配はなんだったのだ。

と、いきなり肩に手を鰍ッられた。ビックリして振りかえると部長のKだった。

ビックリさせるなよと愚痴ると、Kは妙に不安そうに「誰かが呼んでなかったか?」と訊いてくる。ん?いや、声は聞こえなかったが、誰かがテントの周りを歩いている気がしたんだよね、と答えた。

互いに顔を見合わせてみるも、不安が募るばかり。私が、この雨だから増水は大丈夫かなと心配すると、Kは「見に行くか?」と言う。うなづいて、取り急ぎ傘を取り出して、テントを出て河辺に行こうとして驚いた。

既に水面が間近に来ている。ウソだろう・・・ここは公営キャンプ場で、増水対策のため安全な高さにテントを設営できるようになっているはずだった。どうみても3メートル以上増水しているようで、しかも雨が止む気配はない。

Kが先生に相談したほうがいいなと言うので、私も肯く。先生たちのテントに行き、起して状況を説明すると、登山のベテランであるA先生が半信半疑でテントから出てきた。

3人で改めて河辺に近づくと、さっきよりも更に増水しているようだ。顔色を変えた先生の指示で、急遽全員をたたき起こしてバンガローに避難した。

幸い全てドーム式のテントだったので、素早く撤収できた。寝ぼけ眼の後輩たちを急かすのに難儀した以外は、無事避難は成功した。

バンガローで一休みしていると、車のヘッドランプの灯りが近づいてきて、キャンプ場の管理人のオジサンがやってきた。やはり心配だったのだろうと思っていたら、それどころではなかった。

上流の堰堤が決壊しそうなので、役場から避難命令が出ているとのこと。管理人のオジサンが言うには、もうすぐ役場のバスが来るから、それに乗って公民館に行って欲しいと。

その直後にマイクロバスが来て、大急ぎで乗車して公民館に避難させてもらった。役場の人が温かい味噌汁を振舞ってくれたので、それを飲みながらくつろいでいると、管理人のオジサンが来て、よく増水に気がついたねと感心していた。

私がテントの周りを歩く気配がしたので、変に思い河辺を見に行ったことを伝えると、管理人さんが妙な顔をした。あのキャンプ場に泊まっていたのは、あんたらだけで、ほかには誰もいないはずだよと首を傾げている。

ヘンには思ったが、その時はバタバタしていて、それどころではなかった。翌日のハイキングは中止となり、その日の午前中には帰京した。その時は、見事な秋晴れで、秋の山の天候の変化の激しさに呆れた覚えがある。

数日後、放課後顧問の先生たちとの反省会の席で、A先生が妙なことを言い出した。なんでもあのキャンプ場は、以前もう少し上流にあったそうだ。しかし、季節はずれの台風による増水に飲み込まれて、数人が亡くなったこと。そのために、水面から高さのある今の場所に移設されたそうだ。

A先生は真面目腐った顔つきで「ヌマンタ、お前本当に足音を聞いたのか?」と訊ねてきた。そう言われても、答えようがない。あの気配が足音だったのか、それとも雨音かなにかの音を聞き違えたのか、私にはさっぱり分らない。

ちなみにKは、誰かの声を聞いた気がして目が覚めたとのこと。足音も気配もなにも感じなかったそうだ。同じテントで寝ていたTは熟睡していて、私とKがテントを出たことさえ記憶にない。

よく背筋が凍るとか、妙な胸騒ぎがしたとか聞かされることがあるが、私自身はまったくそのような覚えはない。実を言えば、テントを叩く雨音は嫌いではなく、むしろ好きな音でさえある。あの晩は、その音が少し強かっただけで、別に予感あったわけではない。

強いて言えば、晩秋に相応しくない、生暖かい雨と風が気持ち悪かっただけだ。私の記憶では、雨のなかでの緊急避難は、ワクワクするような緊迫感があり、むしろ気持ちは高揚していた。

ただ、私の目を覚まさせた足音の気配、これだけが分らない。多分、雨音が一時的に高まっただけだと思うが、A先生やKは、そうは思っていないようだ。

そのせいで、高校のWV部では怪談事件として伝えられている。別にあの足音がなくても、管理人が知らせに来て、役場の方々のバスで助けられたのだから、怪談にしなくてもいいように思う。

でも、あの場にいた後輩たちは、昔、増水で亡くなった人たちの気配を私とKが感じて、それで助かったと信じている。信じるのは自由だけれど、どうも私にはピンとこない。

私は自分に霊感が乏しいことを自覚している。あれは一時的に強まった雨音だと思うぞ。
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グローバリゼーション人類5万年の旅 ナヤン・チャンダ

2010-11-29 13:50:00 | 
言葉の定義は難しい。

とりわけ一度、ある一定のイメージが付いてしまった言葉は、そのイメージに拘泥されて、本来の意味が失われることがある。

私にとっては「グローバリズム」が、その代表例だ。私の理解では、要は欧米の多国籍企業を中心とした資本家たちが、自分たちが売りたいものを自由に売りさばく自由を追求するための方便がグローバリズムなのだ。

グローバリズムが推し進められた背景は、先進国においては、これ以上市場開拓の余地が少なく、未開発の市場である途上国こそが、これからの富を産みだす可能性を秘めている。だが、既成勢力が市場を囲って離さないので、グローバリズムを押し付けて、市場開放を促す。

まさに欧米の強欲そのものであり、欧米自体が行き詰っていることを示している。私はそう理解していた。しかし、表題の本を読んで、だいぶ印象が変ってきた。

グローバリズムを全体化、あるいは拡散化と考えてみると、実はそれは5万年前にアフリカの地を出て世界中に広がった人類の基本的行動様式だとも規定できる。

有史以前から人類は、在る地から他の地へと移住を進め、未開の地を切り開くこともあれば、既に先住者が居る地に入り込んで、様々な抵抗を押しのけてまでして動いてきた。

住み易い環境ならば、その地に定住し、住みづらくなると移住して新たな生活地を求めてきた。やがて文明を発達させると、交易という名のグローバリズムを志向するようになってきた。

ただし、当時の技術では移動手段は主として徒歩であるがゆえに、グローバリズムはゆったりとしたものであった。ゆったりとはしていたが、それだけに断固たる決意の下で行われてきたため、移動先でのトラブルは必然でもあった。

新たな地を求めることは変化であり、それに抵抗する側は安定を求めてきた。そして歴史は多くの場合、前者が勝ち残ってきたことを教えてくれる。

表題の書は、アメリカに移住したインド人の視点で、グローバリズムについて新しい解釈を与えてくれた。さすがにインド人、その視点はユニークであると同時に、古い歴史をもつがゆえに欧米化を絶対視しない客観性をも持ち合わせている。

今後、人類が進むべき方向性を模索する上で、きわめて重要なサジェスチョンが多く含まれていると思うので、機会がありましたら是非どうぞ。
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炭酸はダメよ

2010-11-26 12:39:00 | 健康・病気・薬・食事
今年、一番ショックな科白だった。

今でも二ヶ月に一度は外来診察を受けている。主治医は今も変らずN先生だ。夏場の血液検査の数値を見ながら、N先生はブツブツ呟く。

「~ん、糖尿病の感じはないね、でも、蛋白はいつもより多い。忙しかったようだね」

はぁ、その通りです。寝不足でもありました。

「おや、相変わらずGDPの数値は悪いね。ん、やっぱり肝臓の数値は良くないな」

はぁ、やっぱり脂肪肝のせいですかね。

「そうそう、よく分っているじゃない。」

そりゃ、先生が以前説明してくれましたから。

するとN先生は、急にメモ用紙を手にとってなにやら書き始めた。

Non Alcoholic Hepatitis(非アルコール性脂肪肝)通称ナッシュと言うそうだ。かつては肝臓の機能障害の主たる原因はアルコール、つまり酒に起因することが多いとされていた。それは間違いではないが、私のように酒をほとんど飲まなくても肝機能障害は起こる。

その原因の究明が進んだのはわりと最近のことで、甘味の多い飲み物、とりかけ炭酸入り甘味飲料水が肝臓によくないらしい。やばい・・・私、けっこう好きだ。

そんなわけで、今後は炭酸飲料はダメと釘を刺されてしまった。ある意味、禁酒よりも辛いかも。まァ、ダイエットにもなるさと、いささか自虐的に納得している。

納得はしたものの実践できるだろうか?いささか不安ではあるが、肝硬変と肝臓ガンは嫌なので、なんとか我慢するしかないだろう。嗚呼、ショック。
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今年の日本シリーズ

2010-11-25 12:34:00 | スポーツ
勝利の女神は、ほんのわずかな油断さえ見逃さない。

今年のプロ野球の日本シリーズは壮絶だった。当初、関心がなかった私だが、たまたまTVで観た6戦目の終盤の攻防に目が釘付けとなった。

ロッテが王手を賭けた状態で迎えた名古屋ドームでの試合は、流れとしては中日が優勢に思えた。負けられない、との思いがチーム全体にみなぎる気迫は、TVの画面越しでも伝わってきた。

だがロッテの勝利への執念も、中日のそれに劣るものではなかった。勝ち越し、追いつきを何度も繰り返す白熱の試合は、チャンネルを回す手を止めてしまった。

9回裏、10回裏と最後まで常に中日はサヨナラのチャンスを迎えながら、ついに勝ち越すことが出来なかった。ロッテの守備が上回ったからだと評してもいいが、それだけではなかったように思えた。

実力伯仲のチーム同士ではあったが、優勝への執念がほんのわずか中日よりもロッテが上回った気がする。穿った見方ではあると思うが、リーグ三位でCSシリーズを勝ち抜いたロッテに対して、リーグ優勝を遂げた中日にはわずかに余裕があったように思えた。

中日は決してリーグ優勝だけで満足していたわけではないと思う。しかし、優勝を味わえなかったロッテほど、優勝に恋焦がれてはいなかったのではないか。

私は中日が慢心していたとは思わない。中日もまた、日本一に賭けていた。日本中の野球ファンから嫌われながらも、今年のWBCの日本チームへの協力を拒否して優勝を目指したのも事実だ。首脳陣も監督も選手も、なにがなんでも今年は優勝との思いを溜め込んでいたと思う。

しかし、その想いは叶わなかった。

ほんの僅かの執念の違い、それがロッテの日本一という結果になったのだと思う。勝利の女神の、なんと目ざといことだろうか。
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グラップラー刃牙 板垣恵介

2010-11-24 12:20:00 | 

一番強い格闘技は何?

世の中には数多の格闘技がある。柔道、相撲、空手、合気道、日本拳法、少林寺拳法などが日本における代表的格闘技だ。しかし、世界は広い。世界中に普及したボクシングを筆頭にブラジルのカポエラ、フランスのサバット、タイのムエタイ、シナの中国拳法、モンゴル相撲、ロシアのサンボと枚挙に暇が無いほどだ。もちろん、他にも未知の格闘技は数多く存在する。

なかでもブラジルのグレーシー柔術は革新的だった。日本で生まれた柔術が、遠くブラジルの地で異質の進化を遂げていた。20世紀後半、世界各地の競技会でグレーシー柔術は猛威を奮い、その結果として総合格闘技というジャンルが、新たに生み出された。

ところが日本という国は不思議なもので、総合格闘技という言葉が作られる前から、概念としての総合格闘技が存在していた。

あまり知られていないが、日本拳法などは半世紀以上前から、殴る、蹴る、組む、極めるといった総合格闘技の概念を実現していた。その他にも異なる格闘技道場出身者たちの私的な交流が少なからずあったらしい。

私が十代の頃、小金井の澤井道場の奴らには手を出すなと先輩から警告されたことがある。当時はさっぱり分らなかったが、道場破り歓迎の荒っぽい実戦中国拳法の道場であったらしい。ただ、一部の高段位者にしか知られていない謎の道場としての噂のほうが有名で、誰もその実態を知ることはなかった。

その澤井道場に乗り込んだ経験があるという異色の漫画家が、表題の著者である板垣氏だ。ボクシングの国体選手であり、少林寺の心得もあった板垣氏であるが、取材とはいえ実際に澤井道場の実力を我が身で確かめた根性の持ち主である。

けっこう手荒い歓迎を受けたらしく、そのような格闘技の実地の経験が活かされているが故に、表題の漫画はえらく説得力がある。

もしボクシングと空手が戦ったらどうなるか、あるいはプロレスラーと横綱が戦ったらどうなるのか。そんな夢のような対戦が漫画の世界で実現した。しかも、漫画家自身が幾つもの格闘技の実践者であるだけに、その表現力は相当なものがある。

週刊少年チャンピオンで長く連載されていたが、メジャーな人気が出たのはここ十年ぐらいな気がする。既に2回タイトルを変えて、今も連載は続いている。格闘技ファンなら必須の漫画であることは間違いない。

それにしても主人公・刃牙(バキ)の親爺さん、強すぎる。一体どんなエンディングを迎えるのが、今から待ち遠しくて仕方ない。この結末を観ずして、三途の川は渡りたくないものです。

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