日本人は、宗教に対する理解が乏しいと思う。
よく自分は無宗教だと平然と言う。日本人同士なら分る感覚なので構わないが、外国人とりわけ一神教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)信者相手の場合、無宗教と宣するのはまずい。
無政府主義者をアナーキストと呼び危険人物扱いするのは当然だが、無宗教を掲げる人間は、神を否定する者であり、キリスト教などの一神教の信者からすれば、きわめて危険な思想の持ち主だと理解されやすい。もっといえば、神を否定するものは、敵対者として規定される。蛮族扱いしてくれれば幸いだといってもいいぐらいだ。
科学と言う神を奉じる近代社会の下では、すべての宗教にたいして寛容であることが通例なので、無宗教も許される。ただ、宗教的感覚は根強いもので、無宗教のものへの蔑視感や敵対観は容易には拭えない。
アメリカという国を民主主義の国だと理解するのは構わない。しかし、宗教的自由を求めて新大陸に渡った入植者が築き上げた国でもあることを理解することは必需だとも思う。
より正確に言うなら、プロテスタント(ピューリタン)が自らの信じる宗派の自由を確立せんとして造られた国でもある。見方を変えれば、キリスト教原理主義の国としての顔を持つ国でもある。
ところが、日本の歴史教科書は、このアメリカにおけるキリスト教の役割を無視、あるいは軽視したものとなっている。これは非常に問題だと思う。宗教の軽視は、マルキシズムの強い影響下にあった歴史学者に固有なものだが、彼らが教科書を執筆しているから困る。
たとえば、アメリカの西部開拓史は、原住民討伐の歴史でもあり、侵略行為そのものでもある。しかしアメリカ人には罪悪感などない。むしろ崇高な使命感すら持っていた。その思想的バックボーンを「マニフェスト・ディスティニィ」という。直訳すれば明白なる運命だ。
意図するところは、遅れた野蛮人どもに文明の恩恵を与え、素晴らしきキリスト教社会の理想郷を教え広めることは、神に命じられた明らかなる使命であり、定められた運命でもある。神の意志に逆らうものを、正義の鉄拳をもって排除し、神の御心に叶う世界を作ることこそ、我々に与えられた崇高なる使命なのだ。
だからアメリカ人には原住民を残酷に排除したことに罪悪感など存在しない。ハワイを侵略したことも同様だ。カトリックの国であるメキシコ(スペイン)から領土を奪ったことを恥じ入る気持ちなどありえない。
太平洋を渡り、日本に文明をもたらし恩恵を与えてやったとの満足感はあっても、彼らの伝統的慣習などを踏みにじることに罪悪感などありはしない。
その日本が、天皇を神として抱き、与えてやった文明の利器をもって大きく発展し、あまつさえ我がアメリカの権益をそこなうとは何たる所業か。正義の鉄槌は、断固下されるべきである。
近代日本の開国と発展に大きく寄与したアメリカが、日本を敵国と定め、さまざまな圧迫を加えるようになった背景には、このようなキリスト教徒としての意識があったことは間違いない。
とりわけ日露戦争後、世界の五大国として覇を唱えた日本帝国は、アメリカ人の目には異教の神を抱く悪の帝国と捉えざるえなかった。だからこそ、それまでの親日的姿勢から反日的態度に豹変した。
このことは、1920年代のアメリカのメディアに顕著だが、それ以外にキリスト教会の働きも無視しえない。ラジオや教会での説教で、反日煽動がなされ、それが真珠湾奇襲で爆発することになる。
ところが何故か、日本の歴史教科書は政治、経済、軍事面だけしか捉えようとしない。そりゃ、シナ大陸におけるアメリカの権益を求めた経済的理由、海を挟んだ強大な軍事力をもつ相手への警戒感も、アメリカをして反日に追いやる重大な根拠であった。しかし、それだけではない。
アメリカの対日政策におけるキリスト教勢力の影響が、きわめて重要な要素となった事実が不当に押し隠されている。それはアメリカ側でも同様で、そのことをアメリカ国務省の外交官として指摘したのが表題の作品です。
著者であるタウンゼント外交官は、中国における宣教師たちが貧困と不平等に喘ぐ可愛そうなシナの人たちへの憐憫に囚われる一方、整然とした文明社会である日本へは憐憫の情がわかず、布教活動に積極的になれないことを指摘する。そしてシナでの布教活動がうまくいっていないにもかかわらず、シナでの活動に拘る様を批判する。
シナでの布教を目的に、シナの敵としての日本を批判してシナ人の歓心を買い、アメリカの対日政策に影響を与えたキリスト教勢力。タウンゼントはそのことを批判して、あげくに日本擁護の論陣を張ったものだから、真珠湾奇襲の後刑務所に収監された異端のアメリカ外交官でした。
なぜにアメリカが反日政策をとるに至ったか、それを宗教的側面から述べたこの本は一読の価値があると思うのです。機会がありましたら是非どうぞ。
よく自分は無宗教だと平然と言う。日本人同士なら分る感覚なので構わないが、外国人とりわけ一神教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)信者相手の場合、無宗教と宣するのはまずい。
無政府主義者をアナーキストと呼び危険人物扱いするのは当然だが、無宗教を掲げる人間は、神を否定する者であり、キリスト教などの一神教の信者からすれば、きわめて危険な思想の持ち主だと理解されやすい。もっといえば、神を否定するものは、敵対者として規定される。蛮族扱いしてくれれば幸いだといってもいいぐらいだ。
科学と言う神を奉じる近代社会の下では、すべての宗教にたいして寛容であることが通例なので、無宗教も許される。ただ、宗教的感覚は根強いもので、無宗教のものへの蔑視感や敵対観は容易には拭えない。
アメリカという国を民主主義の国だと理解するのは構わない。しかし、宗教的自由を求めて新大陸に渡った入植者が築き上げた国でもあることを理解することは必需だとも思う。
より正確に言うなら、プロテスタント(ピューリタン)が自らの信じる宗派の自由を確立せんとして造られた国でもある。見方を変えれば、キリスト教原理主義の国としての顔を持つ国でもある。
ところが、日本の歴史教科書は、このアメリカにおけるキリスト教の役割を無視、あるいは軽視したものとなっている。これは非常に問題だと思う。宗教の軽視は、マルキシズムの強い影響下にあった歴史学者に固有なものだが、彼らが教科書を執筆しているから困る。
たとえば、アメリカの西部開拓史は、原住民討伐の歴史でもあり、侵略行為そのものでもある。しかしアメリカ人には罪悪感などない。むしろ崇高な使命感すら持っていた。その思想的バックボーンを「マニフェスト・ディスティニィ」という。直訳すれば明白なる運命だ。
意図するところは、遅れた野蛮人どもに文明の恩恵を与え、素晴らしきキリスト教社会の理想郷を教え広めることは、神に命じられた明らかなる使命であり、定められた運命でもある。神の意志に逆らうものを、正義の鉄拳をもって排除し、神の御心に叶う世界を作ることこそ、我々に与えられた崇高なる使命なのだ。
だからアメリカ人には原住民を残酷に排除したことに罪悪感など存在しない。ハワイを侵略したことも同様だ。カトリックの国であるメキシコ(スペイン)から領土を奪ったことを恥じ入る気持ちなどありえない。
太平洋を渡り、日本に文明をもたらし恩恵を与えてやったとの満足感はあっても、彼らの伝統的慣習などを踏みにじることに罪悪感などありはしない。
その日本が、天皇を神として抱き、与えてやった文明の利器をもって大きく発展し、あまつさえ我がアメリカの権益をそこなうとは何たる所業か。正義の鉄槌は、断固下されるべきである。
近代日本の開国と発展に大きく寄与したアメリカが、日本を敵国と定め、さまざまな圧迫を加えるようになった背景には、このようなキリスト教徒としての意識があったことは間違いない。
とりわけ日露戦争後、世界の五大国として覇を唱えた日本帝国は、アメリカ人の目には異教の神を抱く悪の帝国と捉えざるえなかった。だからこそ、それまでの親日的姿勢から反日的態度に豹変した。
このことは、1920年代のアメリカのメディアに顕著だが、それ以外にキリスト教会の働きも無視しえない。ラジオや教会での説教で、反日煽動がなされ、それが真珠湾奇襲で爆発することになる。
ところが何故か、日本の歴史教科書は政治、経済、軍事面だけしか捉えようとしない。そりゃ、シナ大陸におけるアメリカの権益を求めた経済的理由、海を挟んだ強大な軍事力をもつ相手への警戒感も、アメリカをして反日に追いやる重大な根拠であった。しかし、それだけではない。
アメリカの対日政策におけるキリスト教勢力の影響が、きわめて重要な要素となった事実が不当に押し隠されている。それはアメリカ側でも同様で、そのことをアメリカ国務省の外交官として指摘したのが表題の作品です。
著者であるタウンゼント外交官は、中国における宣教師たちが貧困と不平等に喘ぐ可愛そうなシナの人たちへの憐憫に囚われる一方、整然とした文明社会である日本へは憐憫の情がわかず、布教活動に積極的になれないことを指摘する。そしてシナでの布教活動がうまくいっていないにもかかわらず、シナでの活動に拘る様を批判する。
シナでの布教を目的に、シナの敵としての日本を批判してシナ人の歓心を買い、アメリカの対日政策に影響を与えたキリスト教勢力。タウンゼントはそのことを批判して、あげくに日本擁護の論陣を張ったものだから、真珠湾奇襲の後刑務所に収監された異端のアメリカ外交官でした。
なぜにアメリカが反日政策をとるに至ったか、それを宗教的側面から述べたこの本は一読の価値があると思うのです。機会がありましたら是非どうぞ。