医者がカルテを診ながら診断するのは間違いじゃない。
でも優れた医者ならば、まず患者を視る。患者の話を聴き、反応をみて、聴診器を当てたり、脈を図ったり、自身の医者としての見識をもって診断する。かつて20年以上にわたり私の主治医であったN教授がそうだった。
もちろん検査結果も見るし、他の医師の見解にも耳を傾けた。でも必ず自分の手で血圧を測り、脈をとり、聴診器に耳を傾けた。私は今でもN医師の暖かい手の感触を覚えている。
ところが医者の中にはカルテが表示されるPCの画面ばかり見てばかりで、肝心の患者を見ない。30年近く大学病院に通ったが、若手の医師には確かにこの手の患者を見ずに、カルテばかり見ているタイプが居た。
このタイプの医師には世話になりたくないなと常々思っていた。医師の教育機関でもある大学病院ならではの現象だと思う。他の一般的な大病院では、まず見かけたことがない。なぜなら患者からの信を失するからだ。
これは別に医者に限ったことではないらしい。勉強の良くお出来になる学者さんにも、御多分に漏れず現場よりも報告書のような文章を重視するタイプはいるようだ。
休日にヤフーニュースを閲覧していたら、妙な記事にぶつかった。曰く「清洲同盟は現在ではなかったと考えるようになっている」だそうだ。その根拠は、一次資料がないことだ。公文書はもちろん、信長公記のような資料にも清洲同盟の記載はなく、記載があるものは大半が江戸時代初期のものである。だから清洲同盟は後世の創作だと考える人がいるらしい。
私がこの記事を読んで思い出したのが、冒頭に書いたカルテばかり見ていた医者である。
確かに織田信長と松平元康(後の徳川家康)との間で結ばれたとされる同盟を明示した書面は見つかっていない。だが、歴史上の事実をみれば、二人の間に強固な同盟関係があったのは明らかだ。
裏切りが当然の戦国時代の同盟のなかでも30年近く破られたことのない強固な同盟である。駿河の家康が東の北条、北の武田を抑え、その家康の西側に位置する信長が南西の斉藤、六角、西の浅井、北の朝倉を抑える。まだ若い二人の戦国大名が互いに背中を守り合いながら成長してきたのが歴史上の事実である。
にも関わらず、公的な証拠文章がないから同盟の存在を認めないという。この歴史学者は馬鹿なのか?ちなみに濱田浩一郎という若手の歴史学者であり、一応本物である。他にももう一人、同様な主張をする学者がいたと記憶しているが、見つけられなかった。
確かに同盟の存在を書面で立証する資料はない。しかし、この二人が力を合わせて戦っていたことは歴史的事実だ。それどころか、戦国時代屈指の誠意ある同盟であった。姉川での家康の奮闘、長篠での信長の堅実な戦いぶりは、契約文章のあるなしに関わらず、二人が同盟関係にあったことを証明している。
もっとも当初は対等な関係であったと思うが、次第に信長が優位に立ち、偏った同盟だとみえるのは理解できる。でも私からすると、信長は年下の同盟者を非常に大事に扱っていたと思う。
一例を挙げると、徳川と武田の境界上の重要拠点である高遠城が勝頼に攻め落された時、信長は援軍を出すのが大幅に遅れ、その結果高遠城は武田方の手に落ちた。これに家康は激怒し、かなり強硬に不満を伝えた。
すると信長はこの年下の同盟者に対して、多額の金銭財貨を携えて謝罪している。数年分の軍事支出を軽く賄える金銀財貨に、家康も家臣も唖然としてしまい、怒りを忘れてしまったという。
経済力の重要さを誰よりもよく知っていた信長ではあるが、このような謝罪の仕方をしたのは家康に対してだけである。外交にも派手に金をばら撒いた信長ではあるが、他の戦国大名や公家、足利将軍よりも同盟者である家康の方を重んじていたように思えてならない。
歴史家に限らないが、書面という資料を重視しすぎる日本の学界は、今少し自分の頭で考えるようにしたほうが良いと思いますね。
でも優れた医者ならば、まず患者を視る。患者の話を聴き、反応をみて、聴診器を当てたり、脈を図ったり、自身の医者としての見識をもって診断する。かつて20年以上にわたり私の主治医であったN教授がそうだった。
もちろん検査結果も見るし、他の医師の見解にも耳を傾けた。でも必ず自分の手で血圧を測り、脈をとり、聴診器に耳を傾けた。私は今でもN医師の暖かい手の感触を覚えている。
ところが医者の中にはカルテが表示されるPCの画面ばかり見てばかりで、肝心の患者を見ない。30年近く大学病院に通ったが、若手の医師には確かにこの手の患者を見ずに、カルテばかり見ているタイプが居た。
このタイプの医師には世話になりたくないなと常々思っていた。医師の教育機関でもある大学病院ならではの現象だと思う。他の一般的な大病院では、まず見かけたことがない。なぜなら患者からの信を失するからだ。
これは別に医者に限ったことではないらしい。勉強の良くお出来になる学者さんにも、御多分に漏れず現場よりも報告書のような文章を重視するタイプはいるようだ。
休日にヤフーニュースを閲覧していたら、妙な記事にぶつかった。曰く「清洲同盟は現在ではなかったと考えるようになっている」だそうだ。その根拠は、一次資料がないことだ。公文書はもちろん、信長公記のような資料にも清洲同盟の記載はなく、記載があるものは大半が江戸時代初期のものである。だから清洲同盟は後世の創作だと考える人がいるらしい。
私がこの記事を読んで思い出したのが、冒頭に書いたカルテばかり見ていた医者である。
確かに織田信長と松平元康(後の徳川家康)との間で結ばれたとされる同盟を明示した書面は見つかっていない。だが、歴史上の事実をみれば、二人の間に強固な同盟関係があったのは明らかだ。
裏切りが当然の戦国時代の同盟のなかでも30年近く破られたことのない強固な同盟である。駿河の家康が東の北条、北の武田を抑え、その家康の西側に位置する信長が南西の斉藤、六角、西の浅井、北の朝倉を抑える。まだ若い二人の戦国大名が互いに背中を守り合いながら成長してきたのが歴史上の事実である。
にも関わらず、公的な証拠文章がないから同盟の存在を認めないという。この歴史学者は馬鹿なのか?ちなみに濱田浩一郎という若手の歴史学者であり、一応本物である。他にももう一人、同様な主張をする学者がいたと記憶しているが、見つけられなかった。
確かに同盟の存在を書面で立証する資料はない。しかし、この二人が力を合わせて戦っていたことは歴史的事実だ。それどころか、戦国時代屈指の誠意ある同盟であった。姉川での家康の奮闘、長篠での信長の堅実な戦いぶりは、契約文章のあるなしに関わらず、二人が同盟関係にあったことを証明している。
もっとも当初は対等な関係であったと思うが、次第に信長が優位に立ち、偏った同盟だとみえるのは理解できる。でも私からすると、信長は年下の同盟者を非常に大事に扱っていたと思う。
一例を挙げると、徳川と武田の境界上の重要拠点である高遠城が勝頼に攻め落された時、信長は援軍を出すのが大幅に遅れ、その結果高遠城は武田方の手に落ちた。これに家康は激怒し、かなり強硬に不満を伝えた。
すると信長はこの年下の同盟者に対して、多額の金銭財貨を携えて謝罪している。数年分の軍事支出を軽く賄える金銀財貨に、家康も家臣も唖然としてしまい、怒りを忘れてしまったという。
経済力の重要さを誰よりもよく知っていた信長ではあるが、このような謝罪の仕方をしたのは家康に対してだけである。外交にも派手に金をばら撒いた信長ではあるが、他の戦国大名や公家、足利将軍よりも同盟者である家康の方を重んじていたように思えてならない。
歴史家に限らないが、書面という資料を重視しすぎる日本の学界は、今少し自分の頭で考えるようにしたほうが良いと思いますね。