続編をいきなり観るのは、けっこう辛い。
楽しいアニメであることは間違いない。実際、私も劇場で周囲もはばからずにゲラゲラ笑っていたしね。
ただ、心底楽しめなかったのは、設定と背景が呑み込めなかったからだ。怪盗グル―とのタイトルだが、既に引退なのか?あの三人の子供たちとグルーの関係は如何に?
そして何より分からなかったのが、あの出来そこないのバナナみたいなモンスターたちは一体何者なのだ。グルーとの関係はどうなっているのだ?
こんな疑問が脳裏をグルグル巡っていたため、映画そのものを十二分に楽しむことが出来なかった。実に無念である。
気になって後日、調べたらやはり最初の映画があり、その続編であることが分かった。分からないはずである。たしか丁度忙しかった頃にやっていた映画らしく、宣伝だけはなんとなく記憶にあるが、観てなかったのは間違いない。
楽しい映画だし、面白かったのだけれど、第一作目の「怪盗グルーの月泥棒」を観ておけば、もっと楽しかったと思う。
ちょっと失敗した気分。でも、映画自体は良いので、機会があったら是非どうぞ。
緊張が緩んだ時こそが危ない。
東名高速を走るとき、なるべく避けたいと思っているのが午後の神奈川西部を走ることだ。具体的には上り(東京方面)の大井松田から町田にかけての部分である。
走り慣れている人なら分かると思うが、週末の渋滞発生の名所である。渋滞の原因としては、緩やかな登りなので自然にスピードが落ちる上に、大和トンネルに入ると暗いので自然とアクセルを緩める。この相乗効果で自然渋滞の起きやすい場所とされている。
だが、それだけではないと思う。静岡側から箱根外縁部を回り込み、幾つものトンネルを抜ける御殿場~大井松田間は気が抜けず、最後のトンネルを抜けて関東平野に入るとホッとするドライバーは少なくないと思う。ここから秦野中井までは緩やかな下りで、数か所大きなカーブがあるほかは三車線ある走りやすい区間である。
それだけに気が抜けるのではないかと思っている。私自身が過去、この区間で軽い居眠り運転の経験がある。大阪からの帰路で明け方であったのだが、山間部を抜けて、広くて走りやすい区間にはいって緊張が緩んだことが原因だった。
実際、先日走った時もこの区間だけで追突事故を3件見かけた。いずれも軽微な事故ではあったが、警察の検分等もあり渋滞が発生していた。事故現場を横目で見ながら走り去ったが、正直少しウンザリしている。
事故を直接見た訳ではないが、率直に言って車間距離を十分取れば避けられた事故に思えてならない。いつも高速道路を走ると思うのだが、なぜに車間距離を詰めたがる。100キロ近いスピードで走っているにもかかわらず、すぐ後ろにくっ付いてくる。
時速100キロで走る車が完全に止まるには、100メートルの距離が必要となる。さりとて混んでいる道路で、それだけの車間距離は取りづらい。気にしている私とて、せいぜい30メートル程度にとどめている。これでも少し危ないと思っている。
それなのに、わずか5メートル足らず後ろに付けるドライバーの気がしれぬ。これではもし前の車が急にブレーキをかけたら、ぶつかるのを避けることはかなり困難だ。だからこそ、追突事故は頻発するのだろう。
東名だと、トンネルとカーブが続く山間部では緊張感があるのか、さすがに皆車間距離をある程度とる。しかし、平野部に抜けると気が緩むのだろうか、途端にスピードを上げて、車間距離を詰めたがる。あげくに追突事故を起こしているのだから、ある程度自業自得だと思っている。
狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。事故は緊張感が抜けた時にこそ起こりやすい。つくづくそう思います。
私が死んだら、どうしよう?
あまり考えたことがなかったが、そろそろ自分の死んだあとのことを考えておくべき時期がきたと思うようになった。別に改まって正式な遺言書を書く予定はないが、一人暮らしが長い故に、妹たちや友人たちへの配慮も兼ねて、なにか書き残しておくべきだと考えている。
同じようなことを考える人は、けっこういるようで最近流行の「エンディング・ノート」が売れ行き好調なのも分かる気がする。私も簡略なものを書いておくつもりだ。そうでないと、私の葬儀を誰に連絡したら良いか、あるいは何が財産で、債務はなにかが分からず、妹たちが苦労すると思うから。
母は葬儀をやらないように言い残していたが、私はやった方が良いと考えている。私自身は既に死んでいるのだから、葬儀なんてどうでもいい話だが、現世に残されたものたちにこそ、葬儀は必要だと思うからだ。
形式ばることは嫌いで、子供の頃から式典なんぞ大嫌いであったが、年を経るにつれ形式も必要だと認識を改めている。
なぜなら、母が亡くなってから気持ちの切り替えに難渋したからだ。母がもう居ないことは分かっているのだが、遺体は大学病院だし、納骨も済ませていないので、気持ちが上手く切り替わらないことに悩んでいたのだ。
まァ、幸い予想よりも早く母の遺骨が戻ってきたので、来月には納骨の儀をする予定だ。別になにかが変わるわけでもないのだが、そこでようやく母の死の区切りが付けられると思っている。
もっとも葬儀をやるにせよ、新聞に黒枠広告を載せることはないと思う。
長年新聞を濫読してきた私だが、この黒枠広告はほとんど素通りであった。関心がまるでなかったのだ。この黒枠広告の仕事に長年携わってきたからこそ書けたのが表題の書だ。
明治時代から始まった黒枠広告だが、マスメディアの発展に伴い黒枠広告も中身が変わってきていることが大変に興味深い。まだ見たことはないが、昨今の新聞の退潮とインターネットメディアの拡張を思えば、いずれ黒枠広告がネットの世界に登場する日も近いのかもしれない。
もっとも自分の事務所のHPさえ、未だに作っていない私だ。自分の死亡広告をネットにアップするなんて、おこがましい気もする。多分、関係者に手紙と電話で済ませるような気もする。事務的に、ただ事実関係だけを報せるだけのものだろう。
ただ、この本を読んでそんな味気ない黒枠広告だけではないと知った。故人自らが事前に書いておいた原稿を載せたものもある。これなんか故人の為人が分かり、他人の私でも興味がもてる。
また震災による黒枠広告の切なさも、胸を打つものがあった。なかでも事故で子息全員をいきなり失った気持ちを素直に書いた黒枠広告には、思わず深く沈思するほどの感慨を受けた。
私も、少し気の利いた死亡広告の原案でも考えておこうかな。まァ、ナマケモノの性分なので多分やらないでしょうけどね。
多分、30数年ぶりである。
なにがって、私がTVドラマを意識して観たことだ。もちろん友人宅でつきあいで観たことならある。だが、ほとんど頭を素通りである。だから、まともにTVドラマを観たのは本当に久しぶりであった。
このドラマ、随分と話題になっていることは知っていた。おそらく今年はNHKの朝ドラマの「あまちゃん」と、この「半沢直樹」が私が耳にしたTVドラマの双璧であるように思う。だから少しは関心を持っていた。
ただ、観るようになったのは偶然だ。たまたま高速道路で大渋滞にはまり、致し方なく車の中で同行者と観る羽目に陥っただけだ。ところが案に相違して面白かった。思わず引き込まれてしまった。
正直、あり得ないっ!と思ったが、似たようなことなら銀行に限らず、大企業、お役所問わずあるだろうとも思った。だからこそ視聴者の関心を惹きつけたのだろうし、組織の中で仕事をしている人間なら、出来そうで出来ないことをやってのける主人公に喝采を送るのも当然にも思う。
ただ、最終回の終盤、悪役たる常務への処遇が分かった時点で、主人公が組織から放り出されることが予測できてしまった。おそらく大組織で管理職経験がある人なら、当然の結末であったと思う。
もちろん、視聴者のなかにはあの結末に納得がいかず、あれは次回作を予感させるための演出だと捉えた人も少なくないだろう。そのような側面がないとは言わない。でも、組織を管理する立場にあった経験があるなら、あれはある意味必然の結末でもあったはずだ。
組織というものは、その組織が作られた目的を達成するための手段であるはずだ。しかし、多くの場合歳月が経つごとに、その組織を維持することを無意識の裡に至上の命題としてしまう。
銀行という組織にとって、半沢直樹の主張は如何に正しかろうと、半沢の存在そのものが組織の維持を危うくするとの認識が先立ってしまう。それゆえの当然の結末である。
だが、あのドラマに勧善懲悪のカタルシスを求めた視聴者は納得するまい。あれだけの視聴率をとり、話題にもなった金の卵でもある。間違いなく二匹目のドジョウは狙われるだろう。
私がそれを観るかどうかは不明だが、久々にわざわざ観るだけの価値はあったドラマでした。敵役であり、悪役でもあった常務の土下座。あの演技は見物でしたね。個人的には主人公の好演よりも感心しました。
もちろん正しくは、百聞は一見にしかずである。
新聞の広告に雑誌SAPIOの今月号のものがあり、そのなかに今どきの子供たちの学力を憂う記事の紹介があった。その一例がタイトルに掲げた「新聞は一見にしかず」であった。
子供たちに出された問題自体は、四角い枠の中に数字の漢字を入れなさいと、ヒント付きで出題されている。つまり、問題文は「〇聞は一見にしかず 」であり、もちろん正解は百の字である。
記事自体は、子供たちの基礎学力の低下を憂うものであるようだが、興味がある方は雑誌SAPIOを読んでいただくのがイイでしょう。私自身は恐縮ながら、さらっと立ち読み程度で済ませているが、あまり力の入った記事ではないように思えた。深く掘り下げれば、今少し興味深い記事になると思う。
それはともかくも、この間違った回答に、思わずニヤついた人は少なくないのでは?
実際、日本の新聞が事実を正確に報道していないと実感している人は少なくないと思う。新聞が取り上げたいと考える事実のみ報道し、世論を自らの思うところへと誘導せんと画策していると勘繰られても仕方ないと思う。
新聞信者であった私がそのことに気が付いたのは、1986年のヨーロッパで巻き起こった緑の党旋風と、中距離核ミサイルの欧州配備反対運動であった。当時の朝日新聞を読むと、ヨーロッパでは環境運動と反核運動がコラボしての大反対が巻き起こっているかのごとき印象を受ける。
そして、日本もその世界的潮流に乗り遅れるなと言わんばかりの論調であった。しかし、結論から言うと確かに反対運動はあったが、それは過激な少数派のもので、大多数のヨーロッパの人々は核ミサイル配置を支持してソ連の侵攻を抑制することを選択していた。
つまり朝日新聞は多数派の意見を無視して、自らの意向に合った緑の党と反米反核運動のみをクローズアップして、それが真実であるかのように報道していた。要するに大衆を朝日新聞の意向に沿わせようと目論む情報操作であった。
私が新聞を疑うようになったのは、この時からであるが、なまじ活字信者であるだけに社会経験を積み重ねないと、容易にマスコミの情報操作に踊らされてしまう。現在はインターネットがあり、新聞やTVの情報操作が効かなくなってきているが、ITの世界には碌でもない情報も数多あり、情報の選別が難しくなっている。
だからこそ、自らの目で見て、耳で聞き、足を運んで確かめることが重要となる。まさに百聞は一見にしかずであり、新聞は一見にしかずでもある。つまるところ、自らの見識を高める努力こそが大切となる。
情報が溢れる時代だからこそ、情報を選別し判別する見識が求められる時代だと思います。