なんで私は反日左翼が嫌いなのだろうか。
よくよく考えると妙なもので、私は天皇崇拝者ではないし、右翼思想が好きな訳でもない。元を糺せば十代半ばまでは、将来は学生運動家になろうと憧れた。共産党の下部組織である民青に入る気持ちもあった。少なくても、私はそのつもりであった。
疑問を持ったのは民青の若者たちが共産党の路線変更を受けて揉めだした頃だ。私が民青の若者たちに惹かれたのは、その武力革命への熱意を知ってからだ。
米軍基地の隣町で幼少期を過ごした私には、話せば分るなんて絵空事でしかなかった。
勝った者が正義、力こそが正義。それを拳で叩き込んでくれたのが近所のアメリカ人の子供たちであった。戦勝国の人間としての優越感を露骨にみせつける白人のガキどもに見下ろされながら、屈辱に涙したことは決して忘れない。
同時に気が付いた。戦争に負けたからといって自分まで負け犬根性に染まる必要はない。自分よりも一回り以上大きい白人のガキどもに喧嘩を売り、小石を握り込んだ拳で殴れば、奴らだって泣き出す。背後に回って首を閉めれば、どんなにデカい奴でものた打ち回る。
不思議なことに、勝とうが負けようが戦ってくる奴に、彼等は構わなくなる。斜め隣に住んでいた白人のガキは、悪戯と口の悪さは私以上だったが、狂人のように噛み付くは、首は締めるはと性質の悪い喧嘩をする私に次第に距離を置くようになっていた。
実際のところは7割がた、私が負けていたはずだが、やり返してくる私に辟易していたらしい。同時に遊び場所でも、不思議な境界線が出来て、いちいちいがみ合うことがなくなった。近所の幼馴染のジュンちゃんに至っては、挨拶を交わしている有様である。
互いに日本語と英語の悪口だけしか話せなかったと思うが、幾度か喧嘩を繰り返すうちに、自然と共存できるようになっていた。でも、私は仲良くは出来なかった。それはお互い様だが、無駄な喧嘩が減ったことはありがたかった。
私は実感として、話し合っても理解できないことがあることを知っていた。同時に、話し合わなくても、互いに戦い合い、認め合えば平和な空間が出来ることも知っていた。
もっといえば、戦う覚悟のない奴は信用できないとさえ思っている。口先だけで綺麗ごとを並べる奴は信用できない。たとえ傷ついても、ぼろ負けしても、自らが正しいと信じることのために戦える奴こそ信用できる。
だから憧れていた民青の若者たちの大半が、選挙による政権奪取を言いだした時の失望感は半端なかった。武力革命の決意はどこへ行ったんだ。どんなに話し合ったって、資本家たちが権力と財力を手放すわけないだろう。それが人間の性というものだろう。
悔しくて悔しくて仕方なかった。でも、私には反論できるだけの知識と知恵がなかった。いや、反論しても、子供の戯言だと軽く扱われることが分かっていた。私は小さく、弱く、無力な子供でしかなかった。
当時は気が付かなかったが、私の怒りと失望を理解していた人たちがいた。彼らは私を政治活動から遠ざけた。ボクサー上がりの青年が「俺は難しいことは分からない、でも今のヌマンタは弱すぎる。もっと強くなれ。身体も心もだ」と言われた時、その通りだと思った。
私が選んだのは、真面目に勉強することであり、山と云う巨大な自然と対峙する登山であった。短気で軽率な私だからこそ、地道に努力を積み重ねることが必要だと強く自覚した。自分の知識不足、実地経験不足、そして心の弱さ。
高校、大学と地道な努力を積み重ね、人並みの企業に務め、大人としての外殻を作り上げた。後は経験を重ねるだけだと思っていたら、難病によりすべて失った。ここで挫折しなかったのは、小さく弱い自分を知っていたからで、やり直せば良いと開き直れたからだ。
文字で書くと簡単だが、実際は悶え苦しみ、時には死すら考えた。生き残ったのは、私は自覚している以上に楽天家で、意外にも執念深かったからだ。自身は淡白な気性だと思っていたのですがね。
その頃からだと思うが、私は反日自虐系の左派ジャーナリストを嫌うようになった。安全な場所でリスクを負わずに覚悟のない平和を賛美するだけ。自分たちの賛同者が欲しくって、学校や塾、予備校に潜り込んで空論を熱心に叫ぶだけ。
そんな彼らを醒めた目つきで遠くから見ている様から「シラケ世代」なんて言葉が作られた。そんな言葉を作ったのは、やはり口先左翼の貯まり場であるジャーナリズムの世界であった。
現在、TVは視聴者の減少に悩み、新聞は売上部数の低下に怯える。当然である。長年にわたり脳内平和に酔い痴れる口先左翼がマスコミの世界にはびこってきたツケを今、払っているだけだ。
私は左翼が嫌いだ。自身に左翼的な考えが今もあることを自覚しているが、それでも現実を直視し、甘えず、たからず、自分の足で動き、手を動かして虚飾を掃う覚悟はある。それでも微かに同情と憐憫はある。
かつて行き場のない苦悩に怯えて孤立していた私を包み込んでくれたのは、たしかにあの人たちだったから。好きだった人を嫌いになるって難しいなァ。
よくよく考えると妙なもので、私は天皇崇拝者ではないし、右翼思想が好きな訳でもない。元を糺せば十代半ばまでは、将来は学生運動家になろうと憧れた。共産党の下部組織である民青に入る気持ちもあった。少なくても、私はそのつもりであった。
疑問を持ったのは民青の若者たちが共産党の路線変更を受けて揉めだした頃だ。私が民青の若者たちに惹かれたのは、その武力革命への熱意を知ってからだ。
米軍基地の隣町で幼少期を過ごした私には、話せば分るなんて絵空事でしかなかった。
勝った者が正義、力こそが正義。それを拳で叩き込んでくれたのが近所のアメリカ人の子供たちであった。戦勝国の人間としての優越感を露骨にみせつける白人のガキどもに見下ろされながら、屈辱に涙したことは決して忘れない。
同時に気が付いた。戦争に負けたからといって自分まで負け犬根性に染まる必要はない。自分よりも一回り以上大きい白人のガキどもに喧嘩を売り、小石を握り込んだ拳で殴れば、奴らだって泣き出す。背後に回って首を閉めれば、どんなにデカい奴でものた打ち回る。
不思議なことに、勝とうが負けようが戦ってくる奴に、彼等は構わなくなる。斜め隣に住んでいた白人のガキは、悪戯と口の悪さは私以上だったが、狂人のように噛み付くは、首は締めるはと性質の悪い喧嘩をする私に次第に距離を置くようになっていた。
実際のところは7割がた、私が負けていたはずだが、やり返してくる私に辟易していたらしい。同時に遊び場所でも、不思議な境界線が出来て、いちいちいがみ合うことがなくなった。近所の幼馴染のジュンちゃんに至っては、挨拶を交わしている有様である。
互いに日本語と英語の悪口だけしか話せなかったと思うが、幾度か喧嘩を繰り返すうちに、自然と共存できるようになっていた。でも、私は仲良くは出来なかった。それはお互い様だが、無駄な喧嘩が減ったことはありがたかった。
私は実感として、話し合っても理解できないことがあることを知っていた。同時に、話し合わなくても、互いに戦い合い、認め合えば平和な空間が出来ることも知っていた。
もっといえば、戦う覚悟のない奴は信用できないとさえ思っている。口先だけで綺麗ごとを並べる奴は信用できない。たとえ傷ついても、ぼろ負けしても、自らが正しいと信じることのために戦える奴こそ信用できる。
だから憧れていた民青の若者たちの大半が、選挙による政権奪取を言いだした時の失望感は半端なかった。武力革命の決意はどこへ行ったんだ。どんなに話し合ったって、資本家たちが権力と財力を手放すわけないだろう。それが人間の性というものだろう。
悔しくて悔しくて仕方なかった。でも、私には反論できるだけの知識と知恵がなかった。いや、反論しても、子供の戯言だと軽く扱われることが分かっていた。私は小さく、弱く、無力な子供でしかなかった。
当時は気が付かなかったが、私の怒りと失望を理解していた人たちがいた。彼らは私を政治活動から遠ざけた。ボクサー上がりの青年が「俺は難しいことは分からない、でも今のヌマンタは弱すぎる。もっと強くなれ。身体も心もだ」と言われた時、その通りだと思った。
私が選んだのは、真面目に勉強することであり、山と云う巨大な自然と対峙する登山であった。短気で軽率な私だからこそ、地道に努力を積み重ねることが必要だと強く自覚した。自分の知識不足、実地経験不足、そして心の弱さ。
高校、大学と地道な努力を積み重ね、人並みの企業に務め、大人としての外殻を作り上げた。後は経験を重ねるだけだと思っていたら、難病によりすべて失った。ここで挫折しなかったのは、小さく弱い自分を知っていたからで、やり直せば良いと開き直れたからだ。
文字で書くと簡単だが、実際は悶え苦しみ、時には死すら考えた。生き残ったのは、私は自覚している以上に楽天家で、意外にも執念深かったからだ。自身は淡白な気性だと思っていたのですがね。
その頃からだと思うが、私は反日自虐系の左派ジャーナリストを嫌うようになった。安全な場所でリスクを負わずに覚悟のない平和を賛美するだけ。自分たちの賛同者が欲しくって、学校や塾、予備校に潜り込んで空論を熱心に叫ぶだけ。
そんな彼らを醒めた目つきで遠くから見ている様から「シラケ世代」なんて言葉が作られた。そんな言葉を作ったのは、やはり口先左翼の貯まり場であるジャーナリズムの世界であった。
現在、TVは視聴者の減少に悩み、新聞は売上部数の低下に怯える。当然である。長年にわたり脳内平和に酔い痴れる口先左翼がマスコミの世界にはびこってきたツケを今、払っているだけだ。
私は左翼が嫌いだ。自身に左翼的な考えが今もあることを自覚しているが、それでも現実を直視し、甘えず、たからず、自分の足で動き、手を動かして虚飾を掃う覚悟はある。それでも微かに同情と憐憫はある。
かつて行き場のない苦悩に怯えて孤立していた私を包み込んでくれたのは、たしかにあの人たちだったから。好きだった人を嫌いになるって難しいなァ。