馬鹿なのか?
文部科学省が推進しているのが、「アントレプレナーシップ」教育である。なんだと思ったら、起業家精神を学校教育で推し進めていくことだそうだ。山本・文部科学省政務官によると、子供の可能性を拡げ、失敗しても挑戦できる社会への転換を含め、官民一体で取り組んでいきたいとのことだ。
まぁ本音は、新しい予算獲得のための方便であろう。霞が関で出世していく手段として、新しい予算獲得は王道である。その意味は分かるが、果たして中身を理解しているのか疑わしい。いや、頭の良い官僚様であるから、当然に分かっているはずだが、私のみたところ木を見て森を見ずに過ぎない。
日本の学校教育の目的は、優秀な役人を育成することにある。優秀な役人とは、前例踏襲とミスをしない人材のことである。そのことが分かっていれば、起業家精神の育成とは真逆の方向性を持っていることは明白だ。
起業家精神とは、失敗を恐れず、失敗を糧として新たな価値観を育て上げることにある。明治維新以来、日本の学校教育が育んできた教育とは真逆である。事実、近代日本において、起業家精神を発揮して、新たな事業、新たな企業を生み出してきたのは、優秀な役人ではない。
優秀な役人とは、失敗をせず、過去の前例に現実を当てはめて政策と制度の整合性を維持することこそ真髄がある。いや、戦後の高度成長を導いてきたのは、優秀な役人がいてこそだと主張する方がいるのは承知している。
でも、勘違いしていると思う。アメリカのGHQは戦前の優秀な官僚たちを政府から追放してしまっている。残されたのは、エリートはエリートでも三等エリートである。具体的に言えば、戦前の一等エリートとは、陸軍中野学校と海軍江田島学校の出身者を言う。
東大であろうと京大であろうと、この最上位の二校の下に居たに過ぎない。作家の源氏圭太はいみじくも「三等重役」と称したが、この三等重役たちが戦後の高度成長の旗振り役を果たした。同時に戦後の日本を代表するであろう新興企業は、非財閥系どころか下町の工場から育った企業が珍しくない。ソニーにせよ本田、松下にせよ、エリートとは程遠い現場の叩き上げ職人が原動力である。
そして日本のバブル崩壊と停滞の30年を演出したのは、東大出のエリート様たちであることを銘記していただきたい。同時に現在、日本が得意にしている漫画やアニメーション、TVゲームなどを育ててきたのは、エリートとは程遠い若者たちである。
また現在、外国人観光客を魅惑して止まない日本の料理は、これまた学校エリートではない料理人たちである。
では、日本のエリート様たちは、何をやっていたのか。それは世界でも最も成功した社会主義国としての日本社会を作り上げたことだ。データーをもとに最適と思える資源人材の配置を行い、系統だった統治機構を作り上げ、安定した平和な日本を維持管理してきた功績は、このエリート役人たちの功績である。
しかし安定した社会は、変化する社会への対応が苦手であり、失敗を厭う減点主義の人事考課は、チャレンジ精神を摩滅させてしまった。
だからこそ、「アントレプレナーシップ」起業家精神の育成を言い出すのは理屈としては分かる。でも、本当に分かっているのかな。これは従来の優秀な役人を育成する教育とは真逆の方向性を持つことを。
多分分かってない。分かってなくても問題ない。何故なら新たな予算獲得こそがエリート官僚に認められた最大の功績だからだ。予算さえ獲得すれば、それが成功しようとしまいと彼らは気にしない。これは、過去の霞が関主導の政策の末路をみれば明白だと思う。
日本の役人は、ある面では優秀であることを認めるのはやぶさかではない。しかし、やった仕事の結果責任を取らない以上、この新しい政策はおそらく失敗しますよ。方向性は間違っていないけど、役人主導では無理です。ネズミが猫に鈴を付けるようなものですからね。