無責任な善意は性質が悪い。
私が山に登っていた頃、遭遇したくない動物は以下の通り
4位 野犬 人を憎んでいるが、恐れてもいるので冷静に立ち去れば対処できる。
3位 クマ 滅多に遭遇しないが、危険度は極めて高い。距離を置くほか対応策がない。
2位 猪 沢登や藪漕ぎをしていると近接遭遇することままあり。あの牙で突き上げられると、本当に危険。
1位 サル 知能が高く、素手の人間が弱いことを知っているため悪質。小柄だが人間よりも遥かに怪力で凶暴。
このうち、野犬とクマは背中さえ見せなければ、ゆっくりと後ろ歩きで後退することで逃げられることが多い。猪は突進はしてきても、付きまといはないので、樹の上などに逃げれば安心。
厄介なのはサル。人間が食い物をもっていることを知っているため、執拗に迫ってくる。たとえ武道の達人でも素手では対応不可。火薬の匂いを嫌がることがあるので、サルがいると分かっている場合、爆竹で追い払うことは可能。
以前にも書いたが、千葉の里山をハイクした際に、サルの群れに囲まれたことがある。その時は偶然にも野山を散策(?)していた、地元の犬に救われた。この犬は律儀にも我々が山を下りるまで付き合ってくれた。やはりサルは犬を苦手とするらしい。
近年、神奈川の西部、小田原にサルの群れが降りてきて悪さをしているとの報道は散見していた。おそらく誰かが餌をやったのだろう。人間の持つ食料の美味しさを学んだサルの群れは、そのまま小田原に居ついてしまった。
そして民家に侵入したり、子供や老人から食料を奪ったりして被害が拡大していった。困り果てた小田原市は遂にこのサルの群生を始末することに決めた。
すると、全国の善良なる市民様から抗議の電話が殺到して、市役所は業務に支障をきたす有り様である。
サルが可哀そうだぁ?!
冗談じゃない。サルは日本の野性動物の中ではトップクラスの凶暴さを誇る害獣たりえる動物である。しかも知能が高いので、子供や老人のような弱い個体を狙って襲ってくる。
小柄なニホンザルと云えども、その腕力、握力、咬合力は人間の比ではない。しかも動きは俊敏であり、牙は鋭く、爪の強さは堅い合成板さえ傷つける。空手の有段者やプロボクサーでも、複数のサルに囲まれたら成す術はないほどである。
剣道の有段者が真剣をもってしても、勝つのは難しいほど戦闘力は高い。接近されたら猟師でも危ないほどにサルは危険な生き物である。
では麻酔銃で仕留め、山へ返せというお人もいる。
バカなのか。人の食料が美味であるが故に山を下りて、人里で暮らすことを選んでいるサルだ。たとえ山に帰しても、必ず再び降りてくる。
ついでだから書いておくと、麻酔銃を使えるのは獣医資格を持つ猟師だけだ。極めて数が少ないだけでなく、麻酔の量をサルの体格により調整する必要がある上に、十数メートルまで近づかないと、まず当たらない。
サルのもたらす害の実情を知らぬ上に、どう対処すべきかも分からないまま、ただ自身の善意だけを根拠に反対するアホどもは、ある意味サルよりも面倒くさい存在だと思います。
最近の私のお気に入りはタコ。
もっとも味の良く値段も高い国産のタコではなく、アフリカのモーリタニア産のタコである。欧米ではスペインなど海沿いの国を除けば、タコは悪魔の手先として食べられることはない。
それはアフリカでも同様で、誰もタコに見向きもしなかった。アフリカの北西部に位置するモーリタニア沖は、寒流と暖流がぶつかる好漁場ではあるが、長年の戦乱で漁業が衰退しており、沿岸で細々と魚を獲るのが精一杯であった。
そこへ日本からJICAを通じて派遣された中村正明という一人の青年が現れ、モーリタニア沖がタコの漁場として有望であることに気が付き、現地の人々を説得してタコを獲らせ、日本に輸出する道を拓いた。
足かけ7年に及ぶ根気強い説得と指導、公務員の3倍近くになる収入が人々を惹きつけ、現在日本が輸入するタコの4割はモーリタニア産である。もちろん瀬戸内の明石のタコの旨さを否定する気はないが、このモーリタニア産のタコもなかなかイケる。
基本はタコワサなのだが、最近はキムチと和えて大葉を刻み、ごま油を少したらしたタコキムチもお気に入り。匂いを気にしなくていい週末は、一口大に切ったタコとジャガイモをオリーブオイルで煮込んだアヒージョも頂く。まぁ大蒜は控えめに使っているが、それでも翌日まで匂うはずなので、土曜の夜限定である。
多分、新型コロナ禍による自宅待機がこれほど長引かなかったら覚えなかったレシピではある。まぁ、美味しければ全て良しとしましょう。
長年使い続けてきたパソコンのOSであるWINDOWSとも、いずれお別れかもしれないと思っている。
私が初めてコンピューターに触れたのは、まだ昭和の頃であり、当時はBACICというコンピューター言語でコマンドを打ち込んで操作するものであった。
うろ覚えだが、その時のコンピューターは日本電気製であったと思う。コマンドを暗記しつつ、専門学校に通ってワードプロセッサの入力を覚えたのも懐かしい思い出である。
その大学4年の時、ゼミの研究室には一台のコンピューターがあった。それがマッキントッシュであり、院生に見せてもらったゲームに驚いたものだ。当時はマイコン(マイ・コンピューター)と呼んでいた。
コマンド入力よりも、マックの操作のほうが感覚的で楽しかった覚えがある。ただ、その後入社した会社ではIBMのオフコンの操作が中心であり、ブラインドタッチ(当時は特技として認識されていた)が出来る私は、社内ではコンピューター担当を押し付けられた。
嫌ではなかったが、営業希望だった私は内心不満であった。もっとも数か月後、原因不明の難病で会社を離れ、長く療養生活に入るとコンピューターとは縁遠い生活となった。
9年余りの療養生活の間に税理士の資格を取り、社会復帰に備える準備の一環としてパソコンの勉強を始めた。その時に初めてWINDOWS機に触れたことになる。まだ95の時代である。
正直に云えば、頭の悪いOSだと思っていた。マックのほうが使い勝手が良かったと感じていた。しかし、会計系のビジネスでは圧倒的にWIN機が使用されることは事前に下調べしていた。
実際、税理士事務所で働き出すと、WIN機ではなく会計専門のオフコンであったが、入力操作に戸惑うことはなかった。そのうちにWIN98が登場し、これは自宅用に購入した。そして予想通り、オフコン機もWINDOWSを使うようになった。
以来、WIN-ME、NT、Vista、XP、7、8、そして10と使い続けてきた。はっきりいえば、吐き捨てたくなる失敗作もあったと思うが、個人的にはNT及びXP、そして7は名機であったと思っている。
ただコンピューターの世界は有為転変が激しい。現在、PCのOSとして一番多く使われているのはWINでもなく、OSiでもなく、アンドロイドである。スマホ用ではあるが、スマホは携帯型PCでもある。もっともビジネス用としては、まだWIN対応ソフトが主流であるため当分WIN機が使われるとは思う。
しかしPC用のOSとしては、もはやGOOGLEの産み出したアンドロイドとその派生であるPC用OSのクロームには追いつけないと考えざるを得ない。ユーザーの数が違い過ぎるからだ。スマホと連動できるのは非常な強みになるしね。
もちろん、マイクロソフトもスマホ用のWINを作ったが、まるで売れず消えていった。またSurfaceという新機軸のPCも出したが、これもGOOGLEの出してきたクロームPCに負けている。
ただし、クロームPCには現時点では欠点も多い。最大の欠点は、ネット常時接続が必須なので、Wifiは絶対必要。またデーターを全てネット上に保管するためか、本体の性能は思いの外低い。
だから安い(3万円前後で買える)のだが、Win機と同等には使えない。現時点で適しているのは、ユーチューブ閲覧とSNSしかやらない人だろう。個人的には、ドキュメントで縦書きが出来ないのが致命傷。私は嫌だ。
私の予測では、今後はこのクロームPCが主流となるように思う。特徴はネット接続を前提としていることで、ネット上に基本となるデーターベースを構築し、データーなどもネット上に保管する。これにより、PC本体のメモリー容量を激減させ、かつPCの値段も大幅に値下げすることに成功している。
まだビジネス用ソフトがWIN対応が中心であるため、当面WIN機の需要は尽きないと思うが、疑似的なOFFICEソフトが出そろえば、いずれはクロームPCに淘汰されるかもと思っている。
追記 6月24日に新しいWindows11が発表されましたね。アンドロイドのソフトが使えるとか。・・・ゲームですけど、私、もう使えてますがね。まぁ、無料でアップデイトできるようですから、しばらく様子をみてから対応します。どうせバグ、出るでしょうから。
人生最大の危機を、最高のチャンスに変えた男、それが徳川家康ではないかと思う。
三河の土豪の息子であった家康の人生には、幾度となくピンチが訪れている。三方ヶ原の戦いや、本能寺の変の直後の伊賀越えなど何度も死地を潜り抜けている。
しかし、最大のピンチは関東への移封命令であったと思う。時は豊臣秀吉の北条打唐フための小田原攻めの終了後である。20万の大軍を率いて北条氏を屈服させた秀吉の最盛期である。
温暖な三河の地の土豪として苦労に苦労を重ねて守ってきた先祖伝来の領地を捨てて、未知の関東への移設命令はあんまりといえばあんまりである。長く家康に付いてきた家臣団も憤懣やる方なかったと思う。
現代を生きる我々は、関東が日本最大の平野であり、後の徳川家の石高の大半を占める豊かな地であることを知っている。江戸が大阪どころか、世界屈指の大都市であったことも知っている。だから疑問に思うことは少ない。
しかし、家康が訪れた関東の地は平野ではなく、湿地帯であった。上野山や高輪台に低い丘があるだけで、後は水はけの悪い湿地に過ぎなかった。家康の巡行に同行した家臣団の面々は失望する以上に怒りを爆発させたと思う。
もちろん秀吉はそのことを知っていた。そして家康が怒る家臣団に引きずられる形で、秀吉に刃向かうことを期待していたはずだ。既に全国統一を既定のものとしていた秀吉にとって、豊臣家の安泰を脅かす最大の敵は徳川家康であることを想定していたと思う。
既に小牧・長久手で一度戦い、野戦では秀吉軍を破っている家康である。だからこそ秀吉は20万の大軍を率いる権勢をもってして、徳川家康を排除する覚悟があったと思われる。そのために三河から関東への移封を命じて、家康の反逆を狙ったのだと私は考えている。
だが驚くべきことに、家康は素直に秀吉の命に従って江戸へ移っていった。忍耐の人、家康の本領発揮だと思うだろうが、私の見方は少し違う。家康は関東大湿原に未来を賭けたのだと思う。
実はこの時代、関西は疲弊していた。幾度も戦火に襲われた京都はもちろん、奈良も難波も街としては荒廃していた。大阪城建築などで、周辺の山々は森林伐採が進み、水害も多数発生していた。
だからこそ未開の地である関東近辺の山々の森は建築用木材の宝庫であった。同時に新田開発が十二分に見込める土地でもあった。しかし、如何せん洪水を頻繁に起こす利根川の存在が、関東発展の為の障害となっていた。
当時の関東平野は利根川が江戸湾(東京湾)に蛇行しつつ流れ込み、毎年のように河川は氾濫し、新田開発など出来る状況ではなかった。そこで関東を視察して回った家康は、利根川を関東の東側、現在の銚子に流すといった大規模な水利工事に取り鰍ゥった。
これは画期的であると同時に、巨大土木事業であり家康一代では終わらず、孫の家光の代までかかっている。その結果、150万石に相当する新田開発に成功し、これが徳川幕府の財政に大いに貢献したことは間違いない。
湿地と小高い丘が散在する江戸は、家康の命令で各地の大名が工事を請け負い、丘を切り崩して湿地を埋め、堤防を作り、河川を改修して水害を減らしたことで世界屈指の大都市である江戸が立ち上がった。
家康がそこまで予測していたかどうかは不明だが、結果的に秀吉の命令は、徳川家の治世を万全なものとしたことは確かだ。家康は忍耐するだけでなく、未来への展望をしっかりと持っていたからこその偉業だと思う。
逆に秀吉からすれば家康が父祖伝来の地を捨ててまでして、自分の命令に従ったことに満足してしまったことが痛恨のミスであった。秀吉の死後、今度は家康が豊臣家に無理難題を突き付けて反抗させたのは、見事な意趣返しであった。
秀頼や淀君には、家康のような忍耐も未来への展望もなかったのだから、その点でも豊臣家の滅亡は必然であったように思います。
日本のマスコミ様は大本営発表が大好きだ。
官庁の記者クラブで配布される資料を手に、広報室での担当官僚からの解説をネタに記事を垂れ流すだけ。その実地検証もしないし、裏取りもしない。そんなことをして、記者クラブでハブられても困る。なにより出世コースである官庁の記者クラブの席を維持するためにも、余計なことはしない。
ただ官僚の主張を広報するだけに集中する。この悪習は、官庁や大企業相手の時だけだと思っていたら、他でもけっこうやらかしている。
その一例が、日本医師会である。
今回の新型コロナ禍により、日本の医療体制は崩壊寸前であると、散々危機感を煽りたてている日本医師会である。当初は医師会の会長自ら説明していたが、いつのまにやら引っ込んで、現在はウィルス疾患の専門研究家に会見を任せている。
ところで、国民一人あたりの病床数は世界屈指である日本の医療体制の危機とは何ぞや、である。
これは感染力の強い疾患を収用できる病院の危機である。当然であるが、一般の病院では、このような感染力の強い病気の患者を受け入れる体制が十分ではない。
第一、コロナ患者を受け入れてしまうと、風評被害により一般患者が逃げてします経営危機の問題がある。また隔離等の設備投資にかかる支出も馬鹿にできない重要な要因である。
一般の病院では受入が十分に出来ないとされるが、実際には兵庫の長尾医院を始め、医師が使命感からコロナ患者の診察、自宅訪問等を実践しているケースもある。だが、これは相当に大変なことで、医療従事者の保護、隔離体制の確保、そして自宅訪問医療と問題山積のなか頑張っている医師や看護師らには頭が本当に下がる。
しかし、厚生労働省はそのような民間医師の努力には冷淡で、ろくに補助金すら交付していない。せめて保険診療の点数加算ぐらいしろと思うが、平等を盾に知らぬ存ぜぬである。
そして多くの民間病院、診療所を守る日本医師会は、そのような努力は迷惑だと言わんばかりの態度であるように思えてならない。医は仁術というが、実際には経営問題でもあるので、コロナ診療を拒否する病院の気持ちは分かるが、それでも頑張る病院もある。
つまるところ、日本医師会の言うところの危機とは、大半の病院をコロナ禍に巻き込むなということなのかと、意地の悪い私などは考えてしまう。だからこそ、医師会会長は自ら広報をするのを止めて、専門の研究者に広報させているのではないか。
言っちゃなんだが、研究者なんて良い意味で専門バカだが、市井の病院の経営には無知だぞ。知らないからこそ、危機だ危機だと騒げるのだろうと私は邪推している。尾身氏をやたらと賛美しているマスコミも散見するが、実情が分かっているのかね。
私に言わせれば、民間の病院をコロナ禍対策に引き込めなかった厚生省の失策であり、その失策を報じず、官僚の用意した資料を横流しして済ませる大マスコミ様も共犯である。
でも、一部の記者は実際に奮闘する民間病院を取材し、報じているけど、何故だかその扱いは小さいぞ。
話が長くなるので簡単に書くが、民間病院が協力しないのは経営面だけではない。ここ十数年、厚生省の病院に対する様々な施策には失敗というか、ろくでもないものが多かった。当初は素直に応じていた病院も、今では不信感を隠せない。これは、私も痛いほどに良く分かる。
実際、私は顧問先の病院には厚生省の施策には応じないようにと指導しているくらいだからだ。霞が関のエリート様の机上のプランを強行しようとした結果と、その惨状は目を覆うばかりだからだ。
話を元に戻すが、大マスコミ様の記者でも地道に取材している方ならば、日本医師会や厚生省の言い分がおかしなこともわかるはず。でも、官庁の記者クラブ所属というエリートコースに乗っている記者様たちには敵わないらしい。
まだ結論を出すには早過ぎるけど、厚生省及び医師会の適切な対応があったならば、コロナ感染者及び死者はもっと抑えられたのではないか。私はそう考えています。