つっこみどころ満載。
莫大な製作費をかけた世紀の駄作との評は、それほど間違っているとは思わない。長年のSFファンである私も、おいおい、それはないだろうと突っ込み入れたくなったぐらいなのだ。
でもねぇ、白状すると後半はけっこう夢中になって画面を見入ってしまいましたよ。いささか気恥ずかしささえ覚えますが、目を閉じて眠る気にもなれなかったし、席を立つ気は毛頭なかった。
多分、十数年たったら、こんなおバカな映画があったと話題になるような映画だと思う。そのくらいヒドイ出来だが、そのくらいインパクトがあったのも確か。
車やトラック、はたまた戦車がドリフト(路面を滑りながら曲がること)をするのなら、いくらでも見たことがあるが、よりにもよって数万トンの戦艦がドリフトする場面なんて捧腹絶倒で呆れるの通り越して、画面に目が釘付けでした。
ちょっと呆れるような映画が見たいと思ったら、この映画おすすめです。でも前半、30分は寝ていても差し支えないでしょう。あたしゃ、あまりに退屈で寝てましたから。それだけに後半のアクション・シーンは目が覚めるオバカぶり。
たまには、こんなのもイイかもしれません。だって楽しかったのだもの。
なにがって、いわゆる従軍慰安婦である。要は軍隊の基地周辺で営業していた売春婦のことである。別に珍しくもない。現代の日本でも自衛隊や米軍の基地周辺に行けば、兵隊さん相手の売春宿、あるいは風俗業はないところの方が珍しい。
おバカな隣国が、性的奴隷だと言い触れ回っているらしいが、その奴隷に相手してもらうために紙幣握りしめていく馬鹿がどこにいる。訓練を終えて、明日はいよいよ戦地に赴任だという若い兵士たちは、上官に紹介されて売春宿を訪れ、そこでおずおずと性体験をする。戦時中、よくある話であり、日記や手紙などでもよく語られる話でもある。
ただ、その紙幣は軍票であり、大日本帝国の敗戦とともに無価値となったのはいささか気の毒ではある。でも、それは売春業者に限らない、ありふれた悲劇でもある。
このいわゆる従軍慰安婦とは、敗戦後20年以上たってから元・売春婦を親族にもつ日本人が、朝日新聞と組んでねつ造した造語に過ぎない。日本を貶めることが平和の道だと思い込んでいる愚かな偽善者たちが飛びつき、自らの善人ぶりをアピールするのに最適なエサであった。
このエサに飛びついたのが朝鮮半島の住人であった。この国は男女差別が激しい国の一つである。離婚した女性ですら身の置き所がないような国(だから離婚した女性は日本に渡来する)であり、年とった売春婦なんて日の当たる場所には出られない国でもある。
その売春婦たちに、堂々日の当たる場所に出るきっかけを与えたのが、このいわゆる従軍慰安婦問題である。
だが、よく考えて欲しいものだ。この世界屈指の自己主張の激しい国民が、もし自分の娘、妻や姉妹、恋人、友人が強制的に性的な奴隷として軍に徴集されたりしたら、いったいどんな反応を示すのかを。
たとえ軍の命令だとしても、大人しくしているわけがない。しかし、戦前、戦中を通じてそのような騒ぎの記録は皆無。当然だろう。当時の風潮からして、売春婦の多くは家族に売られたのが普通だからだ。
貧しさゆえに、子供を労働力として売ることは、あの時代珍しいことではなく、むしろ普通の行為であった。それは日本とて同じこと。世界大恐慌以降、貧しい日本の農村から多くの婦女子が売春業者に売り捌かれたのは歴史的事実だ。同じことが、朝鮮半島でも行われただけのこと。
だから軍が強制徴収しての性的奴隷なんてありえない。せいぜい、売春業者に便宜を図った程度であろう。日本でも敗戦後GHQが、アメリカ兵相手の売春婦たちに便宜を図っていたことは歴史的事実だ。だからといって彼女らが性的奴隷だと云う馬鹿はいない。
更に付け加えるならば、もし仮に軍が関与して強制的に朝鮮半島の若き婦女子を徴収して、性的奴隷にしたというのなら、日本の敗戦後なぜに彼女らの親たちは日本に賠償請求などの訴えを起こさなかったのか。なぜに我が子を救おうとしなかったのか。
当然であろう、あの時代親たちは自分の子供を売り払ったことを自覚していたし、。今も昔も売春には安くない金がかかるのは不変の事実だ。彼らが自分の娘をいくらで売り払ったかを自白することはないだろうが、沈黙を守る程度の節度は持ち合わせていたのだろう。
軍の基地周辺で慰安所を経営していた売春業者がいたことは、兵士たちの手記や手紙などからもその実在が証明できる。もし彼女らが性的奴隷であったとしたのなら、民間の売春業者にとっては大打撃だ。今風に云えば、官による民業圧迫であり、廃業に追い込まれかねない。なにせ奴隷を抱くのに金はかからないが、売春婦はそうではない。やはり性的奴隷はありえない。
では、何故ゆえに従軍慰安婦という虚構は今も活きているのか。
この原因は、この国の歴史的ねつ造体質にあるように思う。
李氏朝鮮時代、この国は少数の貴族階級(両班と呼ばれた)に支配されていた。おおよそ5%から20%程度がこの支配階級に属し、残りは農民と奴婢であった。
ところが妙なことに、現在南コリアの人々の大半が自らの出自を両班だと名乗り、間違っても奴婢階級の出であったと口にする者はいない。少なくても私は只の一人も知らない。李氏朝鮮を訪れた外国人の記録では、国民の半数ちかくが奴婢階級であったはずなのですがね。
一方、北コリアでは事情が異なる。イデオロギーの問題なのかもしれないが、両班階級の出身であることを語る者は皆無。何故なら階級闘争の主攻撃先であるからであり、大半が農民階級の出てあったと主張するようだ。
はて?奴婢階級出身のコリアはいずこ?
そう、この国では歴史的事実を隠ぺいし、仮装することは当然であり、罪悪感などない。アメリカの歴史学の教授が、コリアンにとって歴史とはヒストリーではなく、ファンタジーであると喝破したそうだが、まさにその通り。
彼らコリアンにとって従軍慰安婦とはねつ造でもなく、虚構でもなく、彼らの目的(日本を貶める)に適った立派な夢(ファンタジー)なのだ。
自虐が平和の目的に適うと盲信している平和痴呆症の日本人ならそれで良いのだろうが、普通にまともな日本人にとっては迷惑極める妄想である。こんな妄想を歴史として捉え、両国での共通認識による歴史教科書なんて、ありえない馬鹿げた話である。
馬鹿に合わせる必要もなければ、相手にしてやる必要もない。馬鹿が馬脚を露呈するのを座して待てばいい。なんだか馬と鹿が気の毒になってきた。バカが伝染しそうな気がするので、これ以上書きませんが、世の中まともに相手にしてはいけない事ってあると思います。
犬と仲良くなるのは、わりと得意だ。
まず、犬の目線に立つことが大事。間違っても上から見下ろしてはダメ。地面に座り込むぐらいが丁度いい。ただし、犬の顔、とりわけ視線を合わせる時は注意が必要。
彼らは見知らぬ人間に対して警戒心が強い。目と目を合わせるという行為は、探り合いであり、挑発にもなりかねない。無理して笑顔を作る必要はないが、優しく声をかける必要はある。
意味なんて通じないが、敵対心のないことを声から判断させることが大事。犬に声をかけるなんてバカらしいと思うかもしれないが、案外と犬は聴いていますよ。意味は分からなくても、警戒心を緩めることは出来ると思っています。
私は「遊ぼう、遊ぼうぜ」と軽く声を鰍ッながら、ゆっくりと近づきます。初対面の犬の場合、まだまだ警戒しているはず。だから私はゆっくりと腕を差し出して、口元にもっていって、わざと咬ませます。
舐めてくる犬もいますが、大概は軽く噛み付いて、こちらの反応を伺てきます。少し痛いけど、それは顔に出さず、笑顔で優しく撫でてやると、大概の犬は警戒心を解いて、こちらに関心を持ってくれます。ここから遊びにもっていくのは簡単。
ただし、この腕を差し出す前に、よ~く観察することが大切です。犬が本気で噛み付いてきたら、人間の腕の肉なんて軽く引き裂けます。無言で鼻に皺をよせ、尻尾を軽く下げ、後ろ足を緊張させて跳びかかる姿勢をとっている時は、一度ゆっくり後ずさって様子をみるべきです。
唸っている時も同様ですが、無言の時のほうが危険度は高い。過去に見知らぬ人間から痛い目にあっているような犬は、なかなか警戒心を解きませんから、その犬が信用している飼い主などが一緒でない限りは、そのような犬には近づかないほうが無難です。
この見極めが出来ないと、けっこう痛い目に合うことになります。
ですが、飼い犬ならば人に慣れているはずなので、これほど警戒心が強い犬はそう多くないです。ほとんどの犬は遊ぶのが大好き。ただ、安心して遊べるかどうかこそが、犬にとっては問題なのです。
だからこそ、わざと咬ませる。
咬むという行為は、犬にとって大事なコミュニケーションの一つ。犬にとって軽く咬んでみて、それで怒らない相手ならば安心して遊べる。犬ってそう考えているみたいです。
更に付け加えるなら、番犬として専門の訓練士の調教を受けている犬は、他人とは絶対仲良くなりません。日本だと滅多に居ませんが、まれに見かけたことがあります。これはちょっと浮「ぐらいで、ペットではなく猛獣と捉えたほうが適切だと思います。
東京だと、外国大使館が多くある麻布や麹町界隈で、そのような犬を見かけたことがありますが、金属製の柵越しであるにもかかわらず、不安を感じるほどの威圧感を感じたものです。これは、犬をそのように躾けた人間の側の問題だと思いますがね。
でも、大半の犬は人間と遊ぶのが大好き。犬も人間同様、社会性の強い生物ですから、遊ぶ=コミュニケーションであり、きわめて重要な行為でもあるのだから当然です。数多ある野生動物のなかで、社会性が強い動物はかなりいますが、人間を仲間だと認識する動物は極めて少ないのが実情。
太古の人間たちは、よくぞ犬を見出したものだと感心します。もっとも、犬の側からしても、人間という極めて強い集団戦闘力を持つ生き物との共同生活を営むことで、相当なメリットを享受したのも事実でしょう。
偶に新聞などの紙面に、虐待されたり、放置された犬の記事を読むと胸が痛みます。彼らは数少ない人間のパートナー足り得る存在です。猫でもいいけれど、私としては一緒に散歩してくれる犬がいい。
歩き回るのが好きな私にとって、犬は絶好のパートナーとなってくれるはず。いつか、必ず犬を飼いたい。まだ私生活に余裕がないので我慢してますが、犬が寄り添う生活を待ち望んでいます。
ところで、表題の作品はアイルランドを舞台とした牧羊犬と、その飼い主家族の物語。深いテーマがあるわけでなく、盛り上がるエピソードが挿入されているわけでもない。たいして面白くもない平凡な毎日が綴られているだけ。
ただ、それだけ。でも、犬好きにとって、その平々凡々たる毎日こそが幸せの源泉であることは、ご理解いただけると思います。無理に読む必要もなく、強いてお薦めもしませんが、犬好きなら楽しめる作品です。
それを誤ったとしか言いようがないのが石原慎太郎だと思う。作家としての技量は高い、それを認めるのにはやぶさかではない。
だが、政治家としては限界を露呈していた。頭がイイだけに実務能力はある。それもかなり高いレベルであると思う。だから大臣をやらせても失言以外で大きな失策はない。都知事としても、タレント知事とは格段の違いをみせ、それなりの実績も残している。
地味すぎてあまり評価されないが、東京都の会計に複式簿記を導入し、従来の収支計算だけの予算会計から大きく進歩させた功績は、私も大きく評価している。また、失敗に終わったとはいえ、銀行に対する外形標準課税の導入だって、その意気は評価したい。(結果的には大きな損失を都民に押し付けたがね)
だが、この人、政治家としては二流だと思う。
その傾向は8期続けた衆議院の頃に、既に見て取れた。血気盛んな自民党の若手を集めての青嵐会などが典型だったが、とにかく人としての度量が浅い。喩えて云うなら、学級委員長に自ら立候補して抜群の得票でなったものの、クラスをまとめる力量に乏しく、気が付いたら孤立している勉強秀才といったところか。
もっといえば、遠くから見ると見栄えも良いし、頼れそうに見える。だから大衆人気はけっこうある。ところが、いざ身近で見てみると、親しめず、不信が募る。だから、国会議員時代も、また都知事時代も、優秀な人間を周囲に集めても、数年たつと皆離れてしまう。
どうもそれは息子にも引き継がれたようで、先の代表選でも当初、盛んに持て囃されながらも尻つぼみで終わった石原伸晃に同じ資質が見て取れる。仲間を作るだけなら出来るが、その仲間を惹きつけておくだけの度量に欠ける。これが慎太郎の最大の弱点だ。
80歳という高齢も不安要素だが、それ以上に心配なのは騒ぎを大きくするだけで終わり、日本の政治にとって必要な改革を中途半端で終わらせてしまうことだろう。言っていることは立派でも、それを実現するだけの人望がない。
独裁者でいられた都知事ならば、なんとかなった。しかし、国政での改革は複数の有力者の協力なくしてあり得ない。そして、もう分かっている。石原慎太郎には、その有力な協力者と話は出来ても、彼らとの協業は出来ないことが。
結局、最後は孤立して毒舌吐いて、混乱だけを残しての退場となると思う。気の毒だけど、自業自得だよ。
誰にだって全盛期はある。
気力、体力ともに充実し、たまり過ぎて崩れてきそうな仕事の山に負けることなく、ただただ必死で毎日を過ごす。でも振り返る余裕なんてないが、たくさんの仕事をやっつけた実績だけは残る。
やがて、年齢とともに体力気力が衰えていることを自覚せざる得なくなる。いつのまにやら周囲からはベテラン扱いされ、そうなって初めて全盛期の自分を振り返る余裕が生まれる。
同時にずる賢くもなる。全盛期の仕事は出来ないが、その作業を部下に押し付け・・・いや分担させることが出来る。慣れてくると現場は部下に任せて、自分はオフィスに居座って指図することが仕事になる。
かくして管理職が出来上がる。
だが、現場を離れた寂しさは、拭いがたく埋めがたい。やっぱり、現場に出てこそ仕事だよ。
そんな思いにかかられたのではないかと思ったのが、表題の漫画。
この作品、現在映画化されて、けっこうヒットしている。でも知らない人のほうが多いと思う。事実、私はこのアニメを知ってはいたが、見ていなかったし、まさかこれほど人気があるとも知らなかった。
この作品は、TVアニメが始まりだ。どこかで見たことのある絵柄だと思ったら、あの桂正和であった。私が大学生の頃に、週刊少年ジャンプで「ウィングマン」でデビューして一躍人気漫画家の仲間入りをした御仁である。
繊細な絵柄で、汗と根性で売るジャンプらしくない画風だと思っていた。だから、あまり好きでなかったが、その描かれる女の子が可愛らしく、そのせいで私の周囲ではけっこう人気があった。
ただ、桂氏本人はヒーロー漫画を描きたかったらしい。でも、それでは人気が出ず、敏腕編集長で知られる島鳥氏の勧めもあって、恋愛路線を大幅に取り込むことで、大いに人気を得た。
その後、「電影少女」などいくつかヒット作があるようだが、私の縄張り外の作風なので、ほとんど忘れかけていた漫画家でもある。
その桂正和がキャラクターデザインを担当し、西田氏らサンライズが作ったアニメがヒットした。桂氏本人は、そのヒットに驚きながらも、「俺はデザインしか、やっていない」とぼやいていたらしい。
漫画家として現役ではあるが、デザインだけ係ったアニメのヒットは、おそらく桂氏に忸怩たる気持ちを抱かせたのだろう。だから今さらではあるが、いきなり週刊ヤング・ジャンプ誌に、この作品を漫画として掲載する気になったのではないか。ちなみに同誌には、「ZETT MAN」を連載中である。
はっきりいって、このアニメ及び映画のヒットは、西田氏をはじめライジングプロの努力に帰されるべきものだ。放送が終わった後で、原作に忠実に漫画を掲載するなんて、ちょっとわがままだと思う。しかも連載する気はないみたいだし。
ただ気持ちは分かる。やっぱり現役漫画家としての矜持を守りたいのではないか。いくらキャラクターデザイン担当といっても、やはり漫画を描いてこそ漫画家なのだ。ましてや、桂氏は現役の漫画家なのだから、描きたい気持ちを抑えきれなかったのだろう。
まァ、映画の宣伝にもなるとも思っていたのかもしれないが、だったらアニメがヒットしていた時に描けばイイなのにね。
久々に読んだ桂正和の漫画でしたが、絵柄が上手くなっていたのに感心しました。いささかくたびれた正義のヒーロー、TIGERこと虎鉄と、期待の大型新人ヒーローながら人付き合いの悪いバーナビーのデコボコ・コンビのヒーロー物語。
暇があったらアニメも観たいと思ってしまったのは確かです。それにしても大企業(しかも実在の)のスャ塔Tーがつくヒーローとはビックリ。アイディア賞ものですね。