十代の頃は、連休ともなれば必ず山に登っていた。
もちろん5月のゴールデンウィークは、2泊以上の登山が普通であった。新緑の美しい季節であり、山域によっては残雪と桜のコントラストが拝めるところもある。関東だと尾瀬の湿原と至仏山周辺は、特に美しく楽しい。
でも、私はあまりこの時期の山を好きではなかった。少し怖いからである。なにが怖いかといえば、残雪である。地域にもよるが、標高2千メートルを超えるような山だと、この時期はまだけっこう雪が残っている。
雪崩の心配はない。しかし崩落の危険性はある。この時期の残雪は、表面上溶けかかっているが、中は堅く締まっている。雪壁の崩壊は、事実上岩壁の崩壊にも似た危険なものである。
ただし、一般の登山ルートでは、ほとんど心配はない。私らのように藪山や、沢筋などの難コースに行くものだけが注意しなければならない。とりわけ、沢を遡行している時、凍結した雪渓の上を歩く時は注意が必要となる。
冷たい沢に入らずに、渡河できるので便利なのだが、この固まった雪が崩落することは決して珍しくない。午前中ならば、まだ沢筋は気温が低いので、あまり心配はない。
しかし、気温が上がる午後になると、沢を覆っている雪渓が突如、崩壊することがある。これは怖い。堅い雪にヒビが入ったと思うや否や、いきなり崩れてくる。柔かい雪とは違い、この時期の雪は堅く凍っている。拳ほどの大きさでも、当たれば大怪我する可能性がある。
だから気温が上がってきたら、雪渓には近づかないのが一番だ。
ところが自然という奴は、けっこう意地が悪い。午後の日差しが沢筋に差し込む時間は、新緑と残雪のコントラストが素晴らしく、そこへキラキラと輝く沢の水流を構図に入れると、かなり美しい写真が撮れる。
私はそれほど熱心な写真好きではないが、それでも父に貰った一眼レフのカメラで山岳写真を撮るのは好きであった。五月の新緑と、残雪そして沢の流れを上手く配置させた写真を撮ることは、私にとっても実に魅惑的であった。
それでも、やっぱり残雪は怖いと思っている。
山岳写真の愛好者として知り合ったSさんから聞いた話だ。Sさんは本業は消防士さんで、実に逞しい体つきで、カメラ機材を詰め込んだ巨大なザックを背負っている姿が印象的だった。
沢筋の休憩所で同席した際に知己を得たのだが、その時に聞いたザックの重量は50キロであった。望遠レンズを使った山岳写真を得意としており、その大柄な体に似ず、繊細な作業を黙々としている姿が印象的な人であった。
3回ほどご一緒したことがある。上越の山を登った時である。その時は登山小屋で素泊まりで、4名でのパーティであった。夕食を自炊し、紅茶にウィスキーを入れて歓談していた時に、Sさんから聞かされた話だ。
その年の冬は豪雪で、5月の連休に入っても、上流の沢筋は雪に埋まっていた。降雪時の沢筋は雪崩が頻発するので危険だが、凍結した雪渓を登れば時間短縮になる。ただ、その年はあまりに雪が多く、雪渓も例年よりも分厚く流れている水を探すのに苦労したぐらいだ。
反対側の沢を登り稜線へ突き上げて、そこの山小屋で一泊。帰路は来た沢とは稜線を挟んだ反対側の沢筋を下った。緩やかな傾斜が続く沢筋であり、写真を撮るに良いスポットが沢山あり、思いの外時間を食った。だから、本来ならば昼過ぎには下山するはずが、気が付いたら夕刻になっていた。
麓が近づくと、谷は次第に広がり、雪渓も小さくなる。そうなると危険なので、歩きやすい雪渓の上から離れて、少し稜線沿いのわき道を下っていた時だ。突如、腸に響くような轟音と共に、雪渓が崩壊した。
春先の山ではよく起こることであり、Sさんたちはさほど驚くこともなく、そのまま下ろうとしたら、同行者の一人が崩壊した雪渓の方から声がしたと言いだした。
一同顔を見合わせるが、その一人を除いて誰もそのような声は耳にしていない。だが、その一人は何故だか顔面蒼白な状態で、そわそわしているのが不気味であった。
現役の消防隊員であるSさんは、山岳遭難時の救助にも何度も参加しているベテランである。思うところがあり、不審げな仲間を説得して、崩壊した雪渓の末端に近づいた。
崩落した雪の塊がゴロゴロしているので慎重に近づくと、人影らしきものが見えた。巻き込まれたのかと思い、足を速めて近づくと、そこにあったのはどす黒く変色した人の遺体であった。
どうやら雪渓の中に埋まっていたようで、先ほどの崩壊で投げ出されたのだろう。Sさんは無線機を持っていたので、すぐに地元の警察へ連絡。仕事が待っている他のメンバーを先に下山させて、一人Sさんはその場に残って警察を待っていた。
もう日は傾き、気温も下がってきた。Sさんはたき火を熾し、お湯を沸かして珈琲を飲みながら、そのまま待機していた時だ。急に誰かに呼ばれた気がして、不思議に思い立ちあがった。山裾側で何かが動いたような気がした。
気になって、その場を離れて、動きがあった場所の様子を見に行った直後である。突如、上流のほうから轟音がした。再び雪渓が大きく崩壊したようだが、今度は規模が大きかった。
軽トラほどもある雪の塊が、上流から幾つも飛び跳ねながら落ちてきた。慌てて沢を離れて稜線側へ逃げて難を逃れたのだが、振り返って唖然とした。たき火を熾した場所が、完全に埋まっていたのだ。
幸い、Sさんの荷物は他の場所に残置していたので無事であった。が、あの遺体は再び雪というか雪の塊の下に埋まってしまった。Sさんは自分が間一髪で難を逃れたことを自覚していた。同時に、自分がなにか不思議なものに助けられたのだとの思いが拭いきれなかった。
私の知る限り、Sさんは極めて理知的な人で、むしろ合理的に過ぎるかもと思っていただけに、この話には驚かされた。Sさんは「私は霊とかお化けとかの怪異現象は信じていません。でも、論理的に解明できないことが起こることがあるとは思っています」
そう淡々と語っていた。私も山で何度か、理屈に合わぬ不可解な現象に遭遇したことがあるので、Sさんの話には大いに頷けたものです。決して論理的ではなく、また科学的に証明できるものではないでしょう。
でも、そのような不可解な事態に遭遇したら、私は自分の勘というか本能に身を任せたいと考えています。
長期政権は必ず慢心する。
それは歴史が教えてくれる事実であり、教訓でもある。にもかかわらず、この教訓を直視しない政治家は少なくない。
平成のみならず、昭和を含めても異例の長期政権を担う安倍・自公政権も残念ながら、この教訓を見て見ぬふりをしている。だからこそ、先週の衆議院補選において与党候補が敗れた。
反自民傾向の強い沖縄はともかくも、維新の会が躍進している大阪でも自民は負けている。これを特殊なものだと見過ごしてはいけない。
閣僚の問題発言にも見られるように、現在の与党には慢心が見受けられる。与党が慢心してきた一因は、マスコミの頓珍漢な安倍政権攻撃にある。「森友、加計問題」に見られるように、政権の致命傷とは成りえない問題を過剰に取り上げ過ぎた。
それに便乗した野党も同罪である。不快ではあっただろうが、あれで安倍政権は完全に野党を見下げ、マスコミの批判を馬耳東風と聞き流した。東京新聞の望月記者のように、嫌がらせにしかならない取材と報道をしているだけなので、政府から舐められて当然であろう。
私は安倍政権の外交はけっこう高く評価している。しかし、内政とりわけ経済政策は良く言って55点だ。アベノミックスは基本的に大企業と投資家優遇である。だからこそ、株価は上がったし、不動産取引は活発であった。これは十分評価できる。
しかし賃金上昇は失敗だと私は断言する。政府に賃金上げろと云われて、素直に上げられるのは下請けいじめで利益を貪る大企業と、予算さえ確保できれば大丈夫なお役所だけだ。
おまけに世情に疎い安倍政権は、賃金を上げても、そこから所得税や社会保険が天引きされて実質手取りはさほど増えない現実を無視していた。賃金が上がっていない中小企業だと、毎年値上げされる社会保険のおかげで手取り額は減少しているのが実情だ。
だから国内消費は伸び悩む。手取りの賃金がさほど増えない以上、財布のひもを締めるのは当然である。さらに追い打ちのように値上げが相次いている。特に食料品の値上げは地味ながら影響は大きい。
アベノミクスが全て失敗だとは思わない。でもその成功の果実を堪能しているのは大企業と資産家であり、中低所得層に関してはむしろマイナスの影響の方が大きい。それが、現在の景気の停滞感に反映している。
またこれは安倍政権のせいではないが、高齢化社会の到来は確実に地方経済を衰退させている。これまで地方経済を支えてきた高齢者層が、年齢による衰えから引退してきている。これは必然ではあるが、同時に対応策が難しい。実際、私はこの問題に対する有効な解決策を見出していない。
高齢化社会とは、低消費社会でもある。医療費と介護費用を除けば、基本的に高齢者に多額の買い物は必要ないからだ。その一方で、低消費はデフレを招く。国内消費の落ち込みは、短期的なものではなく、長期的もしくは構造的なものである。
だからこそ、海外からの旅行者、短期滞在者のインバウンド需要が景気を大きく刺激する。そのせいか、財務省は10月の消費税増税を実施しても、東京五輪などのインバウンド需要が景気を底上げするから、増税に問題なしだと与党を煽る。
しかし、地道に有権者との意見交換を欠かさない政治家ほど、増税に危機感を持っている。安倍首相の側近である萩生田氏の消費税増税延期発言はその一例であるが、肝心の安倍首相自ら火消しに走っている始末である。
このままでは、今年の参議院選は危ないと思う。ただ、野党が相変わらずだらしない。元号批判などくだらんことをやってないで、中身のある政策批判が出来てない。
だから政権交代はないだろうけど、自公は議席を減らすことは確実であるように思います。
断固たる覚悟と、それを実践するための努力は、時として人の心を頑なにしてしまうのかもしれない。
明治時代にオーストリア=ハンガリー帝国の由緒ある貴族の家に嫁ぎ、夫が亡き後も帰国せず、異国の地で生涯を終えた女性がいた。20世紀初頭のヨーロッパの貴族社会で「黒い瞳の貴婦人」として知られたご婦人でもある。
おそらく近代以降、最初の国際結婚であり、ヨーロッパの貴族社会に初めて入った日本人であろう。
初等教育くらいしか受けていない光子だが、その後の努力によりドイツ語、フランス語などを学び、貴族社会に相応しいレディとなって7人の子供を育て上げただけでなく、夫の早過ぎる死後は家長としてシュミット家を守っている。
当時は黄禍論などが宣伝され、日本に対する風当たりも厳しいだけでなく、世界大戦もあった動乱の時代である。光子も多くの財産を失い、最後は二女に見守られながらかの地で亡くなっている。結局、一度も里帰りすることはなく、日本大使館の関係者に守られながらの最後であった。
彼女の名前は、時たま書物で目にすることがあったが、詳しくは知らなかった。私はなんとく、その容姿の美しさを見初められて現地妻となり、その後夫に連れられて渡欧した女性程度の認識しかなかった。
表題の書は、いろいろと誤解の多いクーデンホーフ光子の手記を通じて、彼女の半生を著わした力作である。私も誤解していた一人である。
正直驚いた。たいへんな努力家だと思う。異国の地で家督を守り、子供を育て、貴族社会にも出入りしていたのは、本人の努力の成果あってのものだと知り、著者が苦労して末オた気持ちがなんとなく分かった。
ただ唯一残念に思うのは、彼女の晩年が孤独なものであったことだ。あれほど子供たちの教育に苦労したのに、最後に残ったのは二女一人。でも、この手記を読んで思ったのは、それは彼女が自ら招いた孤独ではないかとの疑念であった。
亡くなったご主人は、18の言語を話し、読み書きさえ出来る大変な知的エリートであった。その夫が守ろうとした旧家を引き継ぎ、夫の教えを実践しようとした努力は素晴らしい。
しかし、自由に生きようとする子供たちの希望を受け入れることが出来ず、絶縁してしまった事が、孤独な晩年を招いたのは確かだと思う。優秀な子供たちが、舞台女優を娶るなんて、光子には家名に泥を塗る行為にしか思えなかったのだろう。
でも、後進国である日本から嫁を娶った亡き夫の事は考えなかったのだろうか。家族よりも家名を守ることに囚われすぎたのではないか。そこまで彼女を追い詰めたのは、当時のヨーロッパの貴族社会であろうことは、この手記からなんとなく読み取れる。
ちなみに、彼女が絶縁した二男は、汎ヨーロッパ主義の提唱者で、ヨーロッパ連合の結成の精神的支柱になった人だそうです。妻に女優を選んだことを光子に叱られ、絶縁されたのですが、私には光子の夫の良き後継者であったように思えるのです。
光子がたいへんな努力で、夫の残した貴族の地位を守ろうとしたのは分かるのですが、そのために子供たちを失ったのは、彼女の頑なさが一因であったように思えてなりませんでした。
なお、表題の書は、光子が幼くして父を亡くした子供たちに、父の姿を伝えようとして書き残したものです。光子がどのように夫を見ていたのかも興味深いのですが、私としては日本から中欧への旅行記として興味深く読ませて頂きました。
伯爵が日本滞在中に旅行した朝鮮への虎狩り旅行及び立ち寄ったウラジオストックの描写も生々しく、あの時代をよく描けていると思います。興味がありましたら是非どうぞ。
ほとんど財産らしき財産を持たない私だが、今使っている事務所の住所と電話番号は財産だと思っている。
特に電話番号は重要だ。先代のS所長がほぼ40年、私が9年使い続けているだけに、昔の顧客からの連絡がつながるのが強みだ。このおかげで、相続や譲渡といった資産税がらみの仕事が毎年あるので、実にありがたい財産である。
でも、稀に困ることもある。
先週のことだが、事務所に故S先生の安否を尋ねる電話があった。声の感じからして、40台から60台くらいの中高年女性に思われた。既に亡くなっていることを伝えるのだが、信じてくれない。
なんでも過日、S先生から電話があったのだが、留守電だったので気になって電話してきたのだと言う。オカルト話かよと思ったが、当の女性は怖がっているのではなく、戸惑っているように感じた。
話しているうちに、たしかにうちの事務所の昔の顧客の名前が出るところから、仕事上の関わりがあった女性なのだろうと推測できた。ただ、電話で十年前だといっていたが、その頃は既にS先生は半引退状態で、事実上私が事務所を仕切っていた。
その私が知らないのだから、十年前というのは間違いだろう。私がS先生の下で働き出したのは平成6年からだ。その私が見知らぬ人が、うちの事務所の仕事に関わっていたという。妙には思ったが、S先生は経理の出来る女性を数人、外注の派遣社員のような形で使っていたから、その一人なのだろう。
とりあえず、その話は適当に切り上げたのだが、困ったことにその後も数回、その女性からの問い合わせが続いた。どうしても、S先生が死んだとは信じられないと言ってくる。電話を受けたスタッフも困っていた。
ちなみにそのスタッフも、ほぼ私と同年数S先生の下で働いていたのだが、その電話の女性は記憶にないという。妙な電話だと思いつつ、もしかしたら仕事を斡旋して欲しいのかと勘繰った。
そこで、今でも仕事、出来ますかと尋ねたら、その女性が衝撃の一言「あら、嫌だ。私はもう85ですよ、仕事なんて無理、無理~♪」
おいおい、85才だったのかいな。
声に艶があり、若々しかったのけど、多分中年だろうとは思っていたが、まさか85だとは思わなかった。ってことは、ボケが入っているのではないかと気が付いた。
なんか、どっと疲れた気がした。最後にしようと思って、S先生を騙る電話だと思うので、警察に相談してくださいと伝えて、話を終わらせた。
電話の声で年齢を推測することは難しいとつくづく痛感しました。でも、あれほど若々しい声の80代の方は、初めてでしたね。
いささか早過ぎたキャッツアイだった。
ただし、怪盗キャッツアイとは異なり、この作品の主人公は犯罪組織と戦う側の人間である。当初は「クライム・スイーパー」といったタイトルであったと思う。
掲載誌は週刊少年ジャンプであった。1970年代前半の時期に連載されていた。私はこれが読みたくて、好きでもない散髪を我慢して毎月、床屋に通っていた。
週刊少年ジャンプは、良識ある世間様から評判の悪い漫画雑誌であったので、公民館や図書室には置いてなかった。私の近所では、唯一床屋さんだけが、週刊少年ジャンプを待合席に置いていた。
主人公は容姿端麗、頭脳明晰、運動能力抜群の女子高生犯罪捜査官(苦笑~)である。なんといっても最大の魅力は「ハレンチ学園」のヒロイン十兵衛も霞むほどのお色気シーンである。
ただし、下着を見せても、その中身までは絶対に見せない。でも、アクション・シーンでのパンちら場面は、十代の少年を惹きつけて止まない魅力があった。
私の基準だと、永井豪より控えめで、石ノ森章太郎より肉感的、でもなによりも魅力だったのは、このヒロイン、自身の性的な魅力には無頓着なお転婆ぶりであったと思う。
そんな場面ばかり覚えているスケベな少年読者だったので、肝心のストーリーはあまり覚えていない。
ちなみに「ドーベルマン刑事」や「北斗の拳」などの原作者としられる武論尊の初のヒット作である。同時に、逆井五郎という漫画家の最大のヒット作ではないかと私は思っている。
武論尊氏はともかく、漫画家逆井五郎はその後も漫画を描き続けているが、この作品ほど輝いたものはなかったと思っています。こんな可愛らしいヒロインを描けるのに、なぜにその後ヒット作を出せなかったのだろうかと不思議に思っていた作家なのです。
いや、そこそこヒットした作品はあるのですが、本作ほどではなかったのです。押し入れの奥を聡怩オた時に出てきた本作を読み返しながら思ったのは、この
漫画、セクシーな場面がとことん寸止めなのです。
あの時代は、それが普通でした。良識あるPTAの淑女の方々も、本作ならばかろうじて容認できる程度のセクシー場面でありましたから、お色気に頼った漫画に堕していないことが、この作品の良さであったのだと再読してみて感じたのです。
実際、アクション場面はけっこう迫力ありますしね。ただ、可愛らしく、しかもセクシーな主人公を前面に出すには、いささか早過ぎた。キューティハニーぐらいぶっ飛んでいれば、良かったのですが、それだと少年誌での連載は厳しかったはず。
今どきの若者ならば、物足りない寸止めセクシー・ガールなのでしょうけど、あの時代では十分輝いていたヒロインでした。まっ、男性限定でしょうけどね。