人間の命令に最も忠実な生き物が犬である。
その性質を利用したのが警察犬であったり、軍用犬である。古くは逃亡奴隷の捜索に利用したり、あるいは番犬や警備犬として、また負傷した敵兵捜索にも活用された歴史をもつ。
その犬に爆弾を持たせて武器として活用しようと考えた軍隊がある。それがロシア軍だ。
第二次世界大戦において、ドイツが生み出した戦車を中心とした高速機動部隊による攻撃は、圧涛Iな破壊力と共に全ヨーロッパを席巻した。フランスもイギリスも、この戦車部隊には抗えず敗退を余儀なくされている。
唯一、ロシアだけはドイツとの束の間の不戦条約で時間を稼ぎ、対抗するための戦車部隊を編制することが出来た。そう、スターリンには分っていた。いずれヒットラーは約束を破り、ロシアに攻め込んでくることが。
ヒットラーの真の狙いを理解できていたのは、独裁者であるスターリンならばであったとは、なんとも皮肉なことだと思う。ただ、あのドイツの高速機動部隊に対抗するだけの戦車軍団の編成に絶対の自信があったわけではないらしい。
結果的にロシアのT37は第二次大戦史上、最高の戦車となるわけだが、当初はスターリンのみならず、ロシア陸軍上層部でさえ相当な不安を抱えていた。だからこそ、犬を使った対戦車兵器が使われるようになったのだろう。
原理は単純で犬に戦車の匂いを覚えさせて、車体の下に潜りこませると、背中に付けた起爆スイッチが入る仕組みであった。
なんと残酷なことをと思われるだろうが、それだけドイツの戦車軍団を浮黷トいた証拠でもある。一応断っておくが、ロシア人が犬を嫌うわけではない。むしろ愛犬家を数多く抱えるワンコ大国だ。
ちなみに地球史上初の大気圏外飛行を行ったスプートニク2号の乗員はライカ犬のクドリャフカである。大気圏再突入を考慮しない実験飛行であったため、生きて戻ることはなかった。しかし、その後何度となく繰り返された犬を使った宇宙飛行実験では、大半の犬たちが無事帰還している。ロシア人が決して犬を軽視していた訳ではないのだ。
ところで件のイヌ爆弾だが、結果的には失敗であった。なぜなら訓練に使った戦車はロシア製でディーゼル・エンジンを使っていたため、ディーゼル・エンジン独特の匂いを犬たちが覚えてしまったからだ。
一方、ドイツ製の戦車はガソリン・エンジンであったため、爆弾を背負った犬たちはドイツ戦車に近づいても、納得せずに戻ってきてしまい、あげくにロシア製の戦車の下にもぐり込んでしまった。これで爆発したら意味がない。だから、この犬爆弾計画は失敗に終わった。
なお、一説によるとこの犬爆弾でドイツ戦車を300両破壊したとの報告もあるが、私は疑わしいと思っている。それほど効果があったのなら、ドイツ側が対策を練るはずなのだが、そのような話は聞いたことがない。ただし、犬爆弾でロシア戦車が破壊されたとの報告は1942年に実際にあり、以降は廃止されたのは確かだ。
いずれにせよ、なんとも間抜けな結果だが、果たしてこの計画は本当に失敗だったのだろうか?
まったく証拠はないが、私はこの計画は意図的に失敗させられたのだと思っている。寒冷地のロシアで戦車がディーゼル・エンジンを積むのは理に適っている。だが、破壊すべきドイツの戦車が同じディーゼル・エンジンでないことぐらい軍の技術者たちは知っていたのではないか。敵の武器の捕獲と研究は当然であり、実際にロシアの兵器は、ドイツ製品を模造したものが少なくない。
まったく証拠も証言もないが、私にはロシア人技術者の愛犬魂が意図的にイヌ爆弾計画を失敗させたように思えてなりません。
21世紀の日本を考える上で、重要となるべき国がいくつかある。
資源大国である南アフリカとオーストラリアは分かり易いと思う。またシナに匹敵するかもしれない消費市場の可能性を持つインドネシア、マレーシア、ヴェトナム、タイ、フィリピンらのアセアン諸国も理解しやすい。
だが、もう一つ、どうしても欠かせないのがインドだ。日本人にとって、欧米はもちろんシナよりも理解しづらい悠久の歴史を誇る大国インド。六億を超える人口を抱えるだけでなく、民主主義国家でもあるインド。
0(ゼロ)を発見した数学大国であり、科学の分野における貢献は少なくないが、カースト制度を保持し続けて、国内の貧困問題に悩まされ続ける大国でもある。
御存じの方も多いと思うが、今や日本人の国民食と言ってもおかしくないカレーは、インドのカレーとは別物。しかも、インドは地域によりカレーも多種多様であり、それどころか言語さえ一様でない複雑怪奇の国。
それでも無視しえない重要な国であるのがインド。何故なら東アジアにおいて唯一、シナに対抗し得る大国であるからだ。
実際、シナとインドの間にはチベットを挟んで微妙な国境問題が横たわっている。米ソの二極対立が国際外交の軸であった20世紀において、非同盟諸国としてシナとインドは手を握ったことはあったが、所詮はうたかたの夢。
この両国はここ半世紀、常に国境において対峙し、時には武力紛争まで起こしてきた。現在も、シナはアメリカ、ロシアと並んでインドを潜在的敵対国として警戒する。人口13億のシナにとっても、人口6億のインドは無視しえない存在力をもつ。
ただ、イギリスのかつての植民地であり、アメリカのIT産業界のパートナー的存在でありながら、伝統的に西側先進国とは距離を置いてきた国でもある。西欧の近代民主主義にも完全に染まることはなく、さりてとシナの中華思想とは別個の路を死守する孤高の大国でもある。
21世紀の日本においては、この孤高にして老獪なインドとの円滑な関係を持つことが重要になると私はみている。実際、アメリカは対シナ包囲網の一環としてのインドを捉えており、直接の外交関係改善はもちろん、同盟国(軍事的従属国)日本を介しての外交戦略を展開している。
地政学的にみても、石油タンカーの通り道であるインド洋、アフリカの資源の輸入路でもあるインド洋に強い影響力を持つインドとの関係を円滑にすることは、日本の安全保障にも大きく寄与するはずなのだ。
だが、一方で分かりづらく、理解しがたいのが悠久の歴史を生きるインド人。日本のカレーと、インドのカリーのように似ているようで、まるで違う。そんな戸惑いと困惑があるがゆえに、多くの日本人にとって馴染みづらい国でもある。
その理解の一助になりそうなのが表題の本。日本に赴任したインド人エリートによる見聞記のかたちをとっており、インド人の視点からの日本論が物珍しい。
ただし、あらかじめ断っておくと、おそらくこの本の著者はインド人のシャルマ氏ではないと思われる。これは末メとなっている山田氏の作ではないかと私は考えている。いわばインド人版イザヤ・ペンダサン(山本七平)の可能性が高い。
事実、この本のなかで山田氏自ら加筆修正を加えていることを明示している。山田氏はルポライターとしてインドものの著作をいくつも出しているので、インドに対して相当な見識があるのだろう。またシャルマ氏のように来日して、日本文化に直に触れたインド人との交流もあったのだろうと思う。
でも、この本は私が読む限り、おそらく末ナはない。文体のリズムというか、末烽フに避けられぬ文章の硬さが、ほとんど感じられないのだ。おそらく自身の経験と、幾人ものインタビューなどの蓄積により書かれたものだと推測できる。
だとしても、インド及びインド人を理解する上で参考になる著作であることは間違いない。おそらくインド人自身が書いたものより読みやすく、また日本人には理解しやすいのは確かだと思う。
結論的に云えば、インドに対して見識のある日本人が書いた、日本人論として読むのが一番正しい理解だと思います。機会がありましたら、どうぞ。
三戦全敗で終わった今回のコンフィデェレーション杯。
予想通りだが、またしてもザッケローニ監督への非難がゾロゾロと吐き出されてきた。スメ[ツ新聞はもちろん、一般紙でも書き散らかされている。
はっきり言いますが、信じちゃいけませんぜ。
日本固有の現象だと云ってイイ。とりわけサッカー評論で食べている連中は、ここぞとばかりに自分の商品価値を上げるための御発言を繰り返す。ザックを上から目線で非難して、自分の見識を高くみせつける毎度御馴染みの商法に過ぎませんから。
日本代表が負けると、ここぞとばかりに監督を非難して自己の宣伝に努めている。ただ、それだけなので、真に受けてはいけません。
もちろん三戦全敗なのだから、反省点も改善すべき点も数多あるのは当然。でも、この負けたという経験こそが貴重な財産。アジア基準から世界目線へと変わるためには必要な敗戦であったと思います。
私からすると、今の日本代表が公式の大会でブラジル、イタリア、メキシコに負けるのは当たり前のことで、むしろ勝ったら僥倖、引き分けなら褒めたいぐらい。それが今の日本サッカーの実力です。
実際、世界のサッカーメディアは、日本の敗退を予想通りとみなし、むしろ健闘したことを讃える記事が多い。とりわけ苦戦したイタリアは、イタリア人監督ザッケローニの手腕はもちろん、日本選手の技術の高さを称賛している。もっともブラジルやメキシコなどは勝利を当然のものとして淡々と伝えるに留まったのも事実。
ところで、TV観戦ながらまずブラジル、これには驚いた。いや、ネイマールら攻撃陣が凄いのは分かっていた。むしろ驚いたのは、その守備の固さ。唯一、日本が得点できなかったチームであり、スペインやウルグアイと比較しても、その守備の固さは驚異的だと思う。はっきり言って勝つ見込みが皆無に感じられたほど。
実は私が唯一勝機があると思っていたのがイタリア。チームの変革中であり、日本人の俊敏さが十分通用すると分かっていたので、ちょっとは期待していたのです。実際前半を2点先取して、そのまま後半に持ち込めたら勝利もしくは引き分けもありえたでしょう。
でも、経験値が違う。昨年のユーロ準優勝は伊達じゃないのが良く分かる試合運びでした。高温多湿のコンデションに苦しんだのは日本も同じ。海外のメディアの日本への絶賛こそが、この今大会の日本の価値でしょう。
そしてメキシコ。マスコミのなかには、この試合こそ唯一が勝てる国だなんて馬鹿言っていた向きもあるようです。冗談じゃない、メキシコはガチでブラジルにも勝っている強豪なのです。そして日本人の俊敏さが通用しない(体格がほぼ日本と同じ)チームなのです。
私はむしろ、よく前半0―0で抑えたと感心したくらい。実際、いいチームでした。これはメキシコが主力をほとんど国内リーグの選手で占めていることも大きいでしょう。つまりまとまりが一番良いチームなのです。
このメキシコでさえ日本と同じく予選敗退。これが世界のサッカーの現実であり、ワールドカップで日本が再び挑む戦場なのです。むしろ日本のサッカーの今の位置を確認するうえで、非常に良い経験であったと思います。
本音を吐くと、運転するのは浮「だろうと思っている。
でも男だったら、一度はスーパーカーのハンドルを握って運転してみたいと夢見るもんだ。真っ赤なフェラーリでもいいし、黒光りするポルシェもいい。挑発的な黄色のランボルギーニだっていいし、メタリックシルバーに輝くコルベットも素敵だ。
ただ、私は未だ一台もスーパーカーには乗ったことがない。いや、正確に言えば大学時代にホテルの駐車場でバイトしていた時、格納式の車台に入らないポルシェを奥のカースペースに移動させたことがあるだけだ。
ボシュッという重厚なドアの開閉音に緊張しながら、重いクラッチをゆっくりつなげて慎重にバックさせる。水平6気筒エンジンの独特の排気音など耳に入らず、ひたすらぶつけないように気を配りながら、壁際に駐車させた。
わずか3分程度の運転、これが私が唯一、スーパーカーに触れていた時間である。いや、とても運転したとは言えまい。だが、その僅か3分足らずでも、私はその日一日興奮したものだ。ちなみにベンツ、ジャガーも移動させたが、あれはスーパーカーではない。やっぱりポルシェは違うぞ。
なにせ、憧れのポルシェ。私の脳裏には早瀬左近の姿が浮かんでいた。そう、表題の作品の主人公のライバルである、あの早瀬である。
この漫画が流行ったのは昭和50年代、私が小学生の頃であった。世にいうスーパーカー・ブームの火付け役である。私も毎週楽しみに週刊少年ジャンプを読んでいたが、当時から絵の下手な漫画だとも思っていた。
車のデッサンはともかく、人物のデッサンはあきらかに狂っている。時として遠近感すらおかしく、けっこう気になっていた。ただし、女体のラインを描くのだけは上手かったように思う。顔がワンパターンなのはともかく、自分が好きなものを描くのは上手かった。逆にそうでないものは、明らかに手抜きしていたように思う。
だがなによりも、スーパーカーの姿だけは上手く描いていた。あの多角形コーナリングはともかくも、コーナーをタイヤを軋らせて走る車の場面には、本当に興奮させられた。
余談だが、スーパーカー・ブームに終止符を打ったのは、オイル・ショックと排ガス規制であった。これでガソリンをカブのみ(燃費ド最悪)し、排気ガスを大量に吐き散らすスーパーカーは走れなくなった。
おまけに、この作品の大ヒットでしこたま儲けたせいか、作者の池沢さとしはヒット作を出せなくなり、いつのまにやらジャンプ消えてしまった。その後、数年を経て今度は大人向けである週刊プレイボーイに軟派な漫画を描きだした。
大人向けということで、女体を思う存分描いていたが、やっぱりスーパーカーを描かずにはいられなかった。そして、やっぱり女と車だけは上手かった。好きなんだろうな、どちらも・・・。まァ、男なんてそんなもんなんだろう。
ある意味、分かりやすい漫画であった。そう、デッサンは狂うことがしばしばあったが、車のレース場面などは、運転をしたことがない人にも分かり易く描いていた。あの多角形コーナリングとか、ちょっと現実離れしていると言いたくもなるが、子供でも分かり易い描写は作者の苦心の成果なのだと今にして分かる。
多分、この漫画を読んで、いつかは俺もスーパーカーを運転するぞと心に決めた子供って間違いなくいると思いますよ。もっとも私自身は、自分の運転の技量の低さを自覚しているので、「猫に小判」「豚に真珠」でスーパーカーを楽しむのは無理だろうと割り切る、醒めた大人になっちゃいましたけどね。
待合室での流し読みの記事であったが、現在新聞やTVなどの既存のメディアが提供するニュースへの信頼度が低下しているという。
無理もないと思う。
当初は無視されてきた在日朝鮮人、在日韓国人に対する所謂在日特権への反対デモが今さらのように報道されている。ただし、そのデモの当初の目的である在日特権反対は報じずに、ヘイトスピーチをする危ない輩といった視点でのみ報道している。
私はそもそもデモに対して政治的効果は薄いと思っているし、朱に交わって赤くなるのが嫌というか、わざわざ品性を自ら貶めるようなことはしたくないので、正直あまり好意的ではない。
それでもデモが起きた動機は分かる。このデモに対しては暴力的な威嚇や妨害が起こるであろうことは、在日団体の過去を知っている私からすれば当然というか、必然であった。
そもそも在日特権のほとんどは、役所や報道機関への暴力的な威嚇と破壊により勝ち得た特権に他ならない。金で黙らせようとして沈黙を守ってきた役所の立場も分からないではない。また現実の暴力に対して及び腰の報道機関の脆弱さだって分からないではない。
それにしたって偏向が過ぎると思う。
ヘイトスピーチを批判的に報道するなら、何故ヘイトスピーチが叫ばれるのか、その背景を調べなければ報道としての意味はない。今のマスコミのやり口は、在日コリアの団体におもねった卑屈な行為であり、事実を隠ぺいして不正を黙認することにも他ならない。
冒頭に挙げた記事では、公共放送である(はずの・・・)NHKの信頼度が一番高かったが、それでも半数程度の指示に過ぎない。これは未だにNHKが公平で中立な報道機関であると勘違いをしている視聴者が多いことの証しでもある。
しかし、記事では年齢が下がるにつれてNHKへの信頼度は低下し、既存のマスメディア(新聞、TV)の報道を信頼していない層が50%に達しているとも書いてあった。
当然であろう。
もっとも、だからといってインターネットにより報道される情報の信頼度も決して高くはない。これは既存のマスメディア以上に玉石混合であるので無理ないと思う。
あまり意識されないが、新聞は第三種郵便物として優遇されているし、TV、ラジオは許認可事業である。いってみれば既得権の塊である。新規参入が著しく阻害されてきた業界なのだ。
そこに風穴を空けてしまったのがインターネットだが、率直に言ってネットは信頼度が低い。あまりに自由度が高いが故に、屑情報が多すぎる。一時流行ったメルマガだが、現在も続いているものはそう多くないと聞く。
それでも既存のメディアに対する不信感は、インターネットがあってこそなのも事実だと思う。だが、その不信感の最大の根源は、既存のマスメディアの意図的な情報偏向にこそある。
視聴者は、多くの場合マスメディアの情報操作に容易に騙される愚民なのかもしれない。だが理屈抜きで物事を判じる勘の鋭い愚民でもある。だからこそ、次第に既存のマスメディアを信用しなくなってきているのだろう。
新聞は発行部数を減らす一方だし、雑誌も同様だ。TVは視聴者を引き付けることが出来ず、ラジオも独自の番組作りに難儀している。だが、その一方でアングラ情報を垂れ流す三流雑誌は、今も根強いし、新規創刊も少なくない。
今やyou‐tubuは既存のTVを押しのける勢いだし、ニコニコ動画のような新興メディアも続伸中である。だが、ネットへ頼らない層も確実にいるので、既存のメディアに替わることはないと思う。
情報過多の時代にあって、如何に必要な情報を入手し、適切な判断が出来るか。これは相当に個人差が出ると思えるのです。こうなると21世紀は情報過多でありながら、情報格差が生じる時代になるように思えてなりません。
要は最後の判断は自分次第。その覚悟が求められる時代なのだと考えています。