おい、どこ見てやがる!
怒鳴ったのに反応がない。困ったぞ。
なにが困ったって、動くに動けない。なにせ貯水池の上に張り出しているブナの木の枝の上なのだ。
近所の公園にはバラ線の柵に覆われた長方形の貯水池があった。たしか防火用水だったと思うが、いつも濃い緑色で、少し腐敗臭がある気味の悪い池だった。いや、池というよりプールに近い。
コンクリの箱状の貯水プールといった表現が一番的確だと思う。貯水池なら魚や昆虫が採れるはずなのだが、ここの水は腐っていたようで、生物が繁殖している感じがしなかった。
だから、子供たちもあまり近づこうとはしなかった。
でも、子供たちが近づかない理由は他にもあったと思う。この貯水池は過去何度か実際に子供が溺死しているようなのだ。だからバラ線は定期的に張り替えれていたし、近づきたくても近づけなかった。
でも、子供って奴は抜け道を見つけ出すのはお手のもの。その気になれば、バラ線を木の板で押しのけて、中に入り込むことは出来た。私も何度か入り込んだことがある。それほど難しくはない。
ただ、臭いし、虫取りにも不向きだし、積極的に入り込む気はなかった。入る時は、もっぱらボールやらブーメランやらを取り戻しに行く時だけだ。
実はもう一つ、理由があった。誰から聞かされたのか忘れたが、この貯水池で溺死した子供は皆、水面に映った自分に誘われて溺れたという。その話を聞かされた時は、大人が子供を遠ざけるための作り話だと思っていた。
危ない場所に子供を近づけないための大人の作り話は聞き飽きていた。だいたい、そんな話のある場所は、大人が子供に来てほしくないだけで、実際に行ってみたった、なにもないのが普通だと子供たちはみんな知っていた。
とはいえ、この貯水池はそんなひねくれた私でも近づきたくない場所だったのも確かだ。バラ線は、服をひっかけると破けるから困るし、安いボールのために服を破いて怒られるのは割に合わない。だから私は滅多に近づこうとはしなかった。
困るのは、野球のボールが貯水池に飛び込んでしまった場合だ。試合でも使える軟式用ボールは貴重品であり、そう簡単に諦める訳にはいかない。だから、その時も外野の柵(というか繁み)を超えたボールを探していた最中だった。
繁みに見つからないので、こりゃ貯水池に飛び込んだなと察して、仲間を呼んでバラ線を持ち上げてもらい、なかに入り込んだ。そこで見つけたのは、丁度真ん中あたりに浮かんでいるボールだった。岸からでは届かない場所だぞ。こりゃ困った。
だが、回収する方法がないわけではない。この貯水池の傍にはブナの木が立っており、枝が大きく張り出している。この枝の上へ登って、下に棒を差し出せば水面に届く。そうしてボールを岸へ寄せれば回収できるのだ。
仲間内では木登り名人として知られた私が行く羽目になったのは仕方ないが、いざ行ってみると枝の先端ちかくまで行かないと届かないと分かった。そこでもう一人に枝の根元で私の足をつかんでもらい、身体を伸ばす形でエイヤっと手を伸ばして棒でボールを押し出した。
ボールはゆらゆらと岸辺に向かい、待ち構えていた仲間が救い上げた。藻が絡んで汚く、そして臭いので大急ぎで水場へ走っていく。それを上から見ながら、私は体を引っ張ってもらって降りようとした。
ところが、枝の根元で私の足首をつかんでいるTの奴が動かない。彼に足を引っ張ってもらわないと、私は動くに動けない。無理矢理首をひねってTを見ると、なんと目をつぶって何やらブツブツ言っている。お経か?
おい、T! 目を覚まして足を引っ張ってくれよ! 反応がない・・・
ちょっと怖かったが、足首を少しバタつかせてTに気付かせる作戦に出た。張り出した枝の先端であったので、墜ちそうで怖かったが仕方がなかった。
すると、いきなり足を強引に引っ張られて、枝の根元の太い部分まで戻された。ようやくTが気が付いたのかと安堵したが、良く見るとTの顔面は蒼白だった。Tは何も言わずに、一人滑るように木を降りてしまった。
なんだ、あいつと思いながらも、私も木を降りてTを探すと、驚いたことにTは地面に正座して貯水池に向かってお祈りするようなポーズをとっていた。なんか近づきがたいものを感じて、しばし彼を見守るしかなかった。
数分して立ち上がったTは、一言「水面に爺ちゃんの顔が見えた・・・」
へ?たしか先月葬儀があったあの御爺ちゃんかい、と問うとTは肯いたまま黙ってしまった。ふざけているようにも見えなかったし、第一Tはその手の話が苦手な怖がりだ。
よく分からないが、私はTの肩を抱いて、ゆっくりと広場の方に歩き出した。怒鳴って悪かったな、皆には黙っていようぜと話すと、Tは力なく肯いた。
私は何も見なかったし、何も感じなかった。ただ、Tが大好きだったお爺ちゃんの死後、落ち込んでいたのは知っていたので、皆に話して騒ぎになるのは避けるべきだと思ったからだ。
子供だって、世の中すべて明快に分かることばかりでないことは知っている。こんな時は、お化けだと騒ぐよりも、Tを落ち着かせるほうが大事だと分かっていた。あいつ、怖がりだったしね。
ただ、その事件以来、貯水池には殊更近づかなくなった。幸いにして、翌年には工事があって、貯水池は取り壊されて地下に埋設されて、赤い警報機が設置されていた。公園には人口の盛り土がされて、小高い丘が作られて、野球はやりづらくなった。
仕方ないので、少し離れた世田谷公園で野球の練習をすることになった。でも、ここは場所取りの競争が激しいので、できないことも多かった。この頃からだろう、私が野球から離れたのは。
木登り好きの私は、木に登るのが相変わらず好きだったが、あの一件以来Tが一緒に登ることはなくなった。ちょっと寂しかったが、責める気にもなれなかった。
私には見えなかったが、Tの心の目には確かに見えたのだろう。
其の後、中学に進学してから知ったのだが、あの貯水池は戦前からあり、空襲の最中にあの池に飛び込んで死んだ人もいたらしい。もっともその当時は柵なんてなく、もっと大きかったらしい。その話を聞いた時、私とTは思わず目を合わせて、肯きあったものです。
今はもう、そこに貯水池があったことさえ忘れ去られていると思います。先日、たまたま近くを車で通り、赤い警報機を見かけてようやく思い出した次第。古い池には、人の心を惑わすなにかがいるのかもしれませんね。
沖縄で再び米兵が民間住宅への酔って侵入した事件があったと報じている。既に夜間外出禁止令が出ているにも関わらず、この有様なのだから怒りを通り越して、呆れ果ててしまう。
この報道で、そのような印象を持った方は少なくないと思う。
でも、よ~く考えてみよう。
日本では、飲酒をしての車の運転を禁じている。だが、いくら罰則を厳しくしても飲酒による違反は後を絶たない。それどころか、警察官の飲酒運転さえ珍しくもない。役人のみならず議員さんにも散見する有様だ。
一体全体、どうゆうこった。
分かる人は分かると思うが、無理なんですよ悦楽を求める本能を抑えようとしても。苦しみに耐えられる人はいても、悦楽に耐えられる人はほとんど居ない。せいぜい、控える程度が限界。
とりわけ酒という奴は、脳そのものに影響を与える薬物が含まれていますから、この悦楽から逃れるのは至難の業。困ったことにストレスの多い職場の方ほど、勤務後の解放感から一杯を求める。
だから飲酒による事件には、驚くほど固い仕事の人が多い。飲酒運転の警察官もそうだし、戦場というきわめてストレスの多い場所を職場にする兵隊さんも同じこと。だからこそ、風俗街は必要とされている。
ところが昨今、頭がイイだけの真面目一徹馬鹿が風俗取締りだとか、夜間外出禁止だとか、とにかく禁止すれば問題は解決すると愚かな判断をした。禁止したって、ストレスの多い職場で働く人は、本能的にどこかでストレスを発散しようとする。
プロ相手なら、上手くストレスを発散できたのでしょうが、素人相手ではむしろストレスがたまる一方。だから素人さん相手に無理を強いての事件が続発する。
断言させてもらいますが、夜間外出禁止なんて馬鹿なことをやっていれば、今後もこの手の酔っ払い米兵の事件は続発するでしょう。禁止すればなくなるはずだと考えること自体、人間の本質に対する理解が薄いことの証明みたいなものです。
規律正しく、安全で快適で、効率よく清潔な社会が、どれほどのストレスを与えるか、それがなぜに分からない。人間には誰にだって二面性があるのです。規律がなくて自由奔放で、油断ならなくても楽しくて、無駄だらけでもくつろげる。そんな場所も必要なんです。
だって、それが人間だから。
品行方正で、勉強熱心で真面目なエリートさんたちには、認めがたい人間の本質なのでしょうがね。要するに人間に対する理解が浅い、それに尽きると思います。それに便乗して、被害者意識丸出しで米軍批判を繰り返すマスコミ様も同罪ですけどね。
追記 佐世保基地では、夜間飲酒禁止を打ち出したらしい。どうもアメリカ軍にも禁止すれば問題は解決すると考える、頭のイイお馬鹿がいるようだ。お酒って奴は、おおらかに、楽しく飲めば、そうそう馬鹿はやらないもんだ。禁止するから、余計にストレスため込むのだよ。
カナダを本拠地とする、この異形のサーカス(シルク)集団が世界中を席巻してから十数年。日本でもディズニーランド(既に終了)をはじめとして各地で公演がなされたので、観られた方も多いと思う。
流行音痴の私なんぞ、観たいと思ってチケットを入手しようとしたら既に完売状態。仕方なく、この冬の映画で我慢だと思っていたら、品川プリンスホテルで追加公演があると知り、申し込んだところ幸いチケットを買えた。
約2時間の公演であったが、十二分に楽しめるものであった。しかも、子供向けではなく、大人向けの演出であったため、かなりセクシーなサーカスであった。
余は満足じゃ。
それにしても、人間の持つ表現力って凄いものだ。照明などに多少の工夫はあったが、ハイテクというよりもローテクを駆使しての演出も見事だが、なにより人の演じる効果にこそ感嘆した。
人間の可能性の追求には、尽きるところがないのだと痛感しましたね。
率直にって、私にはこの素晴らしさを表現する言葉が不足している。自分の件p鑑賞力の低さを痛感させられるとは思わなかった。多分、日ごろから舞台演劇とは無縁であることが大きいと思う。
観なければ、あの素晴らしさは分からない。品川プリンスでの公演は既に終了したようですが、また機会があったら観たいものです。
登山の一種だったのか
なにがって、シナの万里の長城での遭難事故のことである。観光スポットとして世界的に有名な万里の長城だが、よくよく考えれば山の稜線上に築かれた山城であり、山特有の気象に襲われるのも当然なのだろう。
日本人旅行客が登山中に遭遇した急速な天候悪化により、3人が凍死に至り、一人が怪我を負って帰国したようだ。一応、ガイドはついていたようだが、救助を呼ぶのが精一杯だったらしい。
どのような企画であったのか詳細は知らないが、問題はこの旅行企画をしたのが、数年前に北海道トムラウシ山での遭難事故を招いた会社であったことだ。
私は事故の詳細を知らないし、その企画自体も知らない。だから安易な批判はしたくない。しかし、前から思っていたのだが旅行と登山は混同しないほうが良いのではないだろうか。
概念的には登山も旅行の範囲内だとは思う。しかし、危険度が違い過ぎる。山に登るということは、人間が暮らす社会から離れて、野生の世界に踏み入ることを意味する。人々が暮らす日常的な世界の移動に過ぎない旅行とは、根本的に異なるものだと思うからだ。
山で人が生きていく為には、人自らが生きるための努力をしなければいけない。人々が暮らす街とは異なり、山では人が生きる為に必要不可欠な水、食料、住まいなどを自分で確保しなければならないからだ。
山では人が、ただ単に生きていくだけでも難しい。だからこそ、古来より人々は安易に山に入ったりはしなかった。山で獲物を狩る猟師などの限られたエキスパートだけが、自ら山に入っていった。
人々は知っていた。山は人の住むべき世界でないことを。5千年を超す人類の営みのなかで、山で暮らすことを選択した人々は極めて稀であった。迫害から逃れるため、あるいは宗教的生き方のため、農業が出来ず動植物の採取で生きるしかない環境である為とか、特定の理由がない限り、人々は平地で暮らすことを選んだ。
ところが近代に入り、主にイギリスやドイツなどで登山をスポーツ的概念で捉える人々が現れた。未知なる世界への探求は、近代ヨーロッパに吹き荒れた流行のようなもので、住み慣れた故国を離れて遠くアフリカ、アジア、南米などに挑み、そこを制覇することに熱中した。
これは政治的には帝国主義であり、経済的には植民地敷設であり、精神的には未知なる世界の征服であった。侵略的行動であると同時に、冒険的精神の発露でもあった。この延長線上に登山という新しいスポーツが産まれた。
19世紀から20世紀にかけて、世界の主な山の頂は人間により踏破された。やがて、登山道が整備され、山小屋が作られて、一般庶民でも山の世界に踏み入ることが可能になった。これは確かに旅行ブームの延長線上にあった。
未知なる世界をわが目で見たい。
この素朴にして熱烈な要求が、世界をまたにかけた旅行や登山を生み出した。そして21世紀初頭の日本では、中高年を中心に登山ブームとなっている。しかも、時間のかかる技術習得を省き、人間関係のしがらみが強く残る山岳クラブではなく、旅行会社の企画したツアーに参加する形で山に登る。
その旅行会社も、十分な下見もせず、事故を想定した事前対策も不十分なままツアーを募集する。おまけに同行するガイドも、通常のツアーガイドの延長に過ぎない。本格的な山岳ガイドとは異なる、ただのツアーガイドに安全な山岳ガイドが務まる訳がない。
単なる観光地旅行ならいざ知らず、登山ともなれば相応の下準備と、安全確保のためのガイドが必要なのは当然のことだと思う。だが、この観光会社は、その準備を怠った。
おそらくこの観光会社にとって、客を引き寄せる企画を優先させて、企画の安全性に対する配慮を軽視したのだろう。そう非難されても、致し方ないと思う。
単なる観光旅行のツアーガイドと、安全な登山のための山岳ガイドは別物だ。ガイドのせいばかりではない。生き残った方と、凍死遭難者を分けたのは、おそらく防寒具だったと思う。山で生き延びる装備を持ったものと、そうでないものとの差でもある。
やはり、観光旅行と山岳ツアーは分けたほうが良いと思うな。
嫌々ながらであったが、とにかく引っ越してきた新しい街は、閑静な住宅街であった。
綺麗な邸宅が数多く立ち並ぶ高級といっていいほどの住宅街。でも、新居はオンボロ家屋。まあ、この人の稼ぎじゃ、相応しいといえば、相応しい。庭は広いし、遊ぶ場所には困らないと思っていたら、とんでもない事件に見舞われた。
首筋を一刺しして、その遺体を放置する恐るべき凶悪犯が徘徊していることが分かったのだ。
だが、恐怖心より興味心が勝るボクは、さっそくに捜査を開始する。新たに出来た友達の青髭や、パスカルたちと協力しながら地道な調査を開始した。
オンボロ家屋の地下から見つけ出したおぞましき日記から、事件の背景が浮かび上がり、遂にクリスマスの夜に凶悪犯と対面することになる。
さあ、どうしよう。
ちょっと毛色の変わったミステリーを楽しみたいと思ったら、恰好の一冊です。本当に毛色が違いますから、猫好きに限らず楽しんでもらいたいですね。