絶望の淵にある時こそ真価が問われる。
平凡な人生を望んでいたのだが、それでもこれはヤバいと深刻に悩んだことがある。あれは大学4年の8月のことだ。たまたま出会った高校のWV部の後輩と飲んだ際、岩登りをしたいというので、当時私が練習によく登った奥多摩の岩場へ連れて行った。
夏休み中とはいえ平日であるため、誰もおらず自由にコースをとれたのはありがたかった。40メートルほどの簡単なルートを登攀し、昼食のお弁当を河原で食べて、さあもう少しランク高めのルートへ挑んだ時だ。
やはり2ピッチ、つまり40メートルほどのルートであり、1ピッチ目を慎重に登りテラスで一休み・・・のつもりであった。ところがセルフビレイのためのザイルをカラピナにつなげた直後のことだ。
ザイルがするするっと滑り落ちていくではないか。慌てて手を伸ばしたが間に合わず、そのまま一番下まで落下していく。呆然として相方の後輩を見ると、いつのまにやらザイルをハーネスから外していた。ザイルはけっこう重い。支点に結ばれていなければ自重で落ちていくのは必然だと気が付いた。
なんで?と問うと、私の真似をしたのだとのこと。私は彼がまだザイルを結んでいると思い込み、自分のハーネスからザイルを外して確保用のカラビナにつなげるつもりであった。まさか後輩が既にザイルを外しているなんて思いもよらなかった。
頭が真っ白になった。初心者の後輩のミスではない。私が確認しなかったのが悪い。テラスで呆然としながらも、今するべきは反省ではなく、ここから如何に脱出するかだと分かっていた。当時はまだ禁煙をしていなかったので、落ち着いてタバコを吸う。
こんな時、やっていはいけないのは精神的な動揺を表に出すことだ。パニックは伝染する。私が動揺したら、それは確実に後輩にも伝わり、余計に危険な状態に陥る。だからタバコを吸いながら落ち着いて考える。
まずザイルの確保なしで岸壁を降りるのは論外だ。岩登りは登るよりも降りる方がはるかに難しい。助けを呼べれば良いが、平日のこともあり周囲には誰もいない。沢筋の岩場であるため大声を上げても無駄だろう。
そうなると登るしかない。改めて装備を確認するが、補助用のザイルが一本、それも10メートル程度だ。これは使えない。その時私が選んだのは、私一人が確保なしで登り、稜線まで登って登山道から下ってザイルを回収する。そのザイルを使って懸垂下降して戻り、後輩を救助する。
自分なりにタイムスケジュールを書き出すと、日が暮れるまでになんとかなりそうだ。ただ2時間はかかる。私はそのことを後輩に説明し、補助ザイルで彼をテラスに確保する。水と食料を渡し、私が戻らなければ誰かが助けにくるまで決して動くなと命じる。
幸いにしてこの後輩、けっこう肝が太い。私を真剣に見つめて「信じてますから」とだけ返事してきた。
そこから先はあまり覚えていない。実は過去に練習で幾度となく登ったルートである。自信がなかった訳ではない。しかしザイルで確保されていない状態で登るのは初めてだ。望まずして行った初のフリーソロである。
とにかく必死だった。覚えているのは背中を焼く夏の午後の日差し。素手でつかむ岩の硬さと、自分の激しい息遣いだけだ。気が付いたら登り切っていた。多分時間にして10分とかかっていない。ただ、疲労感が凄まじく、しばし地面に倒れ込んでしまった。
ふと気が付くと後輩の声が聞こえる。起き上がり無事登り切ったと伝えて、もう少し待てと言って大急ぎで稜線沿いの登山道を下る。河原まで降りきると、ザイルが無造作に落ちてあった。そのザイルを背中に巻いて、再び稜線を駆けのぼる。もう太陽は傾きかけているから時間的余裕は少ない。
岩場の上に着くと、打ち込んであるボルトを支点に懸垂下降で後輩の待つテラスまで下る。後輩の目が少し涙ぐんでいたのは見間違いではないと思う。息を整え、身の回りをよくチェックしてから、まず後輩を懸垂下降で降ろす。
まだ安心はしない。事故が起こるのは得てして安堵のため息をついた直後だと知っているから。慎重にザイルをセットして、私も懸垂下降で河原まで降りる。降りた瞬間、凄まじい眠気に襲われたことはよく覚えている。
気が利く後輩が、コンロでお茶を沸かしてくれた。こんな時は冷たい飲み物よりも暖かい飲み物がありがたい。その後日暮れも近いので、河原沿いの林道へ上がり速足で駐車場まで行き、帰途に就く。さすがに運転する気力がなく、後輩に任せて私は一休み。途中の夕食のためのいつものファミレスに着くまで完全に熟睡してしまった。
夕食を食べながら後輩が「凄い冒険でした」と笑ってくれたのがありがたかった。だらしない先輩ですまなかったが、私の本音である。
ところで表題の映画は、サメ映画としては大ヒットした訳ではない。でも映画評論家あたりからは高評価だったから、覚えている方も多いと思う。サメの迫力は、他の作品にゆずるが、必死に、それでいて冷静に生き延びる方策を探る主人公が実に印象的だった。そして最後の場面で主人公がぐったりとする場面に妙に共感できる私です。