連載中の漫画作品の映像化は難しい。
いくら週刊誌に連載していても、基本漫画家一人で作画する場合、時間的にも物理的にも製作できる原稿には限りがある。一方、TV局や映画会社はチームで制作する。当然ながら、すぐに連載に追い付いてしまう。
元々人気作であるからしてある程度視聴率は稼げるし、スポンサー企業も付きやすい。だから原作者をせっつくが、単なる加工作業と、ゼロから作品を生み出す労力は本質的に違う。TV業界ではその対応策として、一度放送を中断して原作を待つか、TV版オリジナルの新たなストーリーを製作して放送するかだ。
原作を大事にしたい漫画家は、本音では前者を望むが、実際にはTV局側の都合で後者の方法が取られることが多い。一応、漫画家が監修していることになっているが、困ったことにTV局側が勝手に製作を推し進めてしまうこともある。
その悪しき典型ともいえるのが、スクエアエニックス社で刊行された「鋼の錬金術師」荒川弘の一回目のアニメ作品であった。アニメが製作発表されたとき、原作はまだ5巻までしか刊行していなかった。そこでTV局はオリジナルのストーリーを作って、あっという間に完結させてしまった。
ちなみにホムンクルスのボスは出てこないし、まるで別作品であり、私は気持ち悪くなったほどだ。当然に作者の荒川女史は怒り、これ以上原作を穢すことは許さず、新たに「フルメタルアルケミスト 鋼の錬金術師」として二作目を作らせた。
こちらは、荒川弘が目を光らせていたせいで、非常に完成度が高く、大人の鑑賞に堪えうる名作となっている。不可解なのは、未だにネット上では一作目も面白い、二作目よりも面白かったなんて意見が出回っていることだ。
おそらくだが一作目の製作関係者ではないかと思う。断言しますけど、主人公らのデザインが同じだけでストーリーとしての完成度は二作目が遥かに勝ります。自由度が高い小説の実写化とは異なり、漫画のアニメ化は、漫画読者の目も厳しく、近年はTV関係者の勝手な改編は許されなくなっています。
でも、それは近年の漫画家と良心的なアニメスタジオの努力の積み重ねがあったからこそです。TV業界で漫画を原作としたアニメ作品が製作され始めた1960年代からつい最近まで、TV局の恣意的な介入により原作が改悪されたケースは数多にのぼります。
私が基本、漫画の原作とアニメ作品は別物だとしているのは、改悪ではなく改良(?)されたアニメ作品も少なくないからです。一例を挙げるならば「タイガーマスク」がそうでした。あれは梶原一騎の脚本が優秀であり、漫画家が描いた作品は子供向けに改変されていたのです。私が認める数少ない例外ですね。
考えてみれば、当時活躍していた脚本家には小説家になってもおかしくないほどの実力者がけっこういました。自分でオリジナルの物語を綴れるだけの脚本家はアニメに限らず、時代劇や家族向け作品などでもけっこうあったのです。
あの当時の脚本家主導によるオリジナルの作品を作っていく風潮が次第に廃れ、替わりに小説や漫画を原作とした映像化が次第に増えていき、そうなるとTV局も脚本家のオリジナルより、既に売れた実績のある小説や漫画を利用することが普通になってしまいました。
ただ問題は、TV業界側では映像化の許可を得れば、自分たちが好き勝手に原作を変えてしまうことも既得権だと勘違いしたことでしょう。小説が原作だと、映像化の過程で仕方なく変えることもあるのは、私も理解できます。
しかし漫画のアニメ化は、原作のイメージが強すぎるため、如何に連載が遅れようと原作のイメージを壊すような改変は認めがたくなった。実際、漫画家はアニメにも造詣が深いこともあり、例えTVオリジナルストーリーであっても原作のイメージを変えないよう、強く関与することが普通になっています。
荒川弘が一作目を認めず、新たに原作に忠実な二作目を作ることに固執したのも、その一例だと思います。実際、両方を視た私ですが、二作目を視た後は一作目には嫌悪感しか感じませんでした。
ところが漫画の実写化となると、昔の習慣が抜けずに原作を図々しく変えてしまうことが未だに横行しているのでしょう。その悪しき実例が、先月自殺した「セクシー田中さん」の漫画家であったと思います。
ちなみに私がこの原稿を書いている現在、自殺に追いやった主犯である日テレは、未だにノーコメントを貫いています。まったく反省する気がなく、騒ぎが収まるのを待っているのでしょう。
あぁ、厭らしい。