入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’23年「春」(65)

2023年05月31日 | 入笠にまつわる歴史


 さて、一昨日の続き、「首切り清水」の名前の由来についてだが、勝手な想像を許してもらいたい。

 芝平に暮らす60を過ぎた母親とその息子が帰り支度を始めた。二人はヒルデエラ(大阿原)の近くで一日、田に入れる草、刈敷を刈っていたのだ。ついでに焚付用の薪も集め、それらを草と一緒に連れてきた馬に積み、自分たちも背負い、日の落ちた山を下ることにした。芝平までの道程は長い。家に着くころには、日は暮れているはずだ。
 いつものように「雨乞い岳(入笠山)」の南面に位置する「仏平」の少し手前は、馬がぬかるみに足を取られないようにと緊張する嫌な場所だ。ただしここには清水が流れ出ていて、乾いた喉を潤すには絶好の場所でもあった。
 二人はおのおのそこで湧き出てくる冷水を口にし、あるいは手ぬぐいを水に浸し、汗で汚れた顔や身体を拭いた。一服した後、息子の方は改めてもう一度手ぬぐいを水に浸けて、それをそのまま首に巻いた。火照った身体にその冷たさが快く、「おっかあ、手が切れるどころか首が斬れるほどだ」なんて言って二人で笑った・・・。
 
 と、まあ、そんな話だが、まんざらの空想ではない。芝平の谷からだとこの場所までは3時間ほどはかかるが、それでも村の人々はこの辺りの山や草原を生活圏に入れていた。人々が今「首切り清水」などと呼んでいる場所は暗い森で、泥濘に足を取られないようにと人も馬も緊張したと証言する老婆が何年か前まで生存していた。
 
 法華道はその名の通り、伊那の信仰に熱い人々が身延山久遠寺への往還に使った古道ではあっただろうが、しかし山奥に暮らす芝平の住人にとっては、それよりかも生活道路の性格の方がもっと強かっただろうと想像する。
 古道を歩けばすぐに分かるが各所で道が深くえぐれている。あの道は伐り出した材木の運搬路としても使われえただろうし、炭焼きをした炭俵を担いだり馬に乗せて運んだ道でもあったのだと思う。

 藩命を帯びた高遠藩の勘定方が供の者も連れずに、こんな間道のような山道を通っただろうか。江戸の時代、飯田藩や高遠藩が参勤交代に通行が認められていたのは千代田湖の近く、金沢峠(松倉峠)1315㍍で、茅野の金沢宿に通じている。
 この道も古く、鎌倉の時代から使われていた。

 百歩譲って「首切り清水登山口」ならまだしも、「首切り登山口」はありえないし、古くからの地名「仏平」が泣いている。

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     ’23年「春」(64)

2023年05月29日 | 入笠にまつわる歴史


 激しく雨が降っている。この雨が咲き始めたコナシの花にどのように影響するのか、ここへきて少し足踏み状態のような気がする。早咲きの木も遅咲きの木もこの雨の中で開花の歩調を揃えて、今週の半ばごろには一斉に白い花で牧を飾ってくれたらいいと思うが、さてどうなるか。

 入笠山の登山口は伊那市と富士見の境と、伊那側からすると入笠山の裏側になる富士見側にも、もう一箇所ある。その富士見側にある登山口が「首切り登山口」と道標や案内図に表記されるようになったのはそれほど古い話ではない。恐らく、2年くらい前のことだ。
 入笠山からヒルデエラ(大阿原)まで、それまでの舗装された林道に並行するように新しく歩道を設けた際に、近くに「首切り清水」という場所があり、それに因んで付けた名前だろう。
 しかし、これには大いに憤慨し、ここでも大分吠えた。なぜなら、「仏平」という古くて床しい名前がずっと昔しからここにはあったからだ。
 伊那市と富士見町との間には「入笠山連絡協議会」という、名前の通りの協議の場が設けられているはずなのに、こういうことに関しては話し合いが行われたとは思えない。それとも、伊那側の関係者はこうしたことへの知識もなければ、関心もなかったのだろうか。

 そもそも「首切り清水」の名前の由来にしてもはなはだ怪しいもので、高遠藩の勘定方がここで水を飲んでいた時に、盗賊に背後から首を斬られたという口碑に基づくようだが、こんなことが実際にあったのかどうか、別の機会に糺してもいいが疑問点を挙げれば幾つもある。
 ヒルデエラも現在は「大阿原湿原」と国土地理院が発行する地図にまで表記されているが、これも正しくないことはすでに述べてある。「阿原」とは湿原の意味である。
 富士見町が入笠の観光に熱心なのはよく理解しているつもりだが、「法華道」にしても言えるように、観光目的のために時に過ぎるのではと思うようなことがないではない。

 ところが、この「首切り清水」について新説を耳にした。もう半世紀以上も以前のことながら、地元である高遠町(当時)の小学生たちは、遠足で入笠を訪れることがあったらしい。その時、引率した先生から児童が聞いた話の中に「首切り清水」の名前の由来説明もあったという。
 その説明は、現在流布されているような禍々しいものではなく、もっと穏当なものであったことが分かった。(つづく)

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     ’21年「冬」(39)

2021年12月20日 | 入笠にまつわる歴史


 まずまずの天気、冷たそうな青空が拡がりきょうも気温は低い。11時から始まる農協の会議に参加するため、これから本所へ出向くことに。牧場のことが話題に出ると思うが、さて。

 結局、一方的にあれこれ話して帰って来た。要は入笠の美しい自然を守りたいこと、そのためには牧場の存続が必要で、当然ながらその存続のためには牛が必要だという、考え方としては敢えて逆の方向から話した。だからキャンプ、山小屋、撮影などの仕事は、あくまでも牧場を維持するための手段に過ぎず、牧場は安易、安直な観光政策など拒否して自然を守り、自然と一体化しつつある第2の自然だと言ってきた。
 同意もされなければ、反論もされず(クク)、あれは聞き置くということだろうが、それでも営農担当常務、営農部長、畜産課長、同係長の参加があった。

 第1牧区の一部を含む「御所平」は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が潜伏した地と伝えられているが、疑わしいと以前に呟いたことがある。それよりか、鎌倉幕府滅亡後に、前執権の北条高時の遺児亀寿丸(後の時行)が諏訪氏の支援でそこに連れてこられ、1335年の鎌倉奪還を企てた中先代の乱を起こすまで潜んでいた場所ではないか、と控え目に囁いた。
 宗良親王には南信濃の大鹿村に長年(通算では30年を超えると言われる)過ごした拠点があったからだ。それに、この時点では南朝は北条氏一門にとっては敵方であって、行動を共にするはずがない。しかし、とにかくかなりの軍勢がいたと思しき跡はある。であれば、親王よりか幼少の時行を担いだ鎌倉の残党ではないかと考えたのだ。
 ところが昨日、発売されたばかりの「中先代の乱」(鈴木由美著、中公新書)を読んでいたら、あながち口碑を否定できないことが分かった。大事なことを知らずにいたが、時行は3回も鎌倉の奪還に挑んでいたのだ。
 先の本によれば、1340年「大徳王時城」の戦いではかつての敵方であった南朝の宗良親王に味方し、共に信濃守護小笠原氏と戦っている。諏訪上社の神長官守屋氏が、40年後に書いた守屋文書によれば、この戦いに敗れたとあるようだ。戦いの場所については、伊那市長谷説を疑う人もいる。
 ともかく、何らかの事情で親王が大鹿に帰らず、時行としばらく行動を共にしていた可能性がないとは言えない。その場所がもしも入笠の「御所平」であったとすれば、いまだに残るこの地名は口碑と一致する。
 その後時行の消息は、12年後の1352年、3回目にして最後の鎌倉奪還を試みたことで分かる。そして、ついには囚われの身となり、20数年の短い生涯を終えたという。ただ、これにも逃げたという説がある。
 北条時行、物心ついた時から戦いの渦に飲まれながら生き、やがて歴史から消えた。しかし下って、幕末から明治にかけての偉人、横井小楠は時行の末裔だと、本人は信じていたようだ。
 本日はこの辺で。
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     ’20年「冬」(73)

2021年02月01日 | 入笠にまつわる歴史


 大河ドラマ「麒麟が来る」もいよいよ来週の放映が最終回となる。この番組制作では、入笠牧場も多少の縁があり、そのためばかりではないがほぼ毎回見た。主君織田信長を裏切った三日天下の明智光秀という、これまで多くの人が抱いていた人物像もこの番組で大分変ったのではないかと思う。
 
 伊那谷にも高遠城ばかりか、入笠や芝平の谷にも、そんな戦国の世の歴史の踏み跡が残っている。中でも確かに高遠城の戦いは特によく知られ、攻める織田、徳川勢に対し守る武田方の勇猛な戦いと壮烈な最期は、ここで呟くまでもない。しかし、かつて戦国の覇者と目された武田も、高遠城を失った後はまともな戦いもかなわぬまま、数々の悲劇を残し滅び去っていった。
 荊口には「気の寺」として知られる「巧妙寺(ぐみょうじ)」という古刹がある。1444年に、日学上人によって真言系の寺から日蓮宗に改宗されたと同寺の沿革にある。何でも、織田の軍勢が高遠城を攻めた際に、炊き出しを求められ、それに対し住職が拒否し寺は焼かれたという。このことはすでに一度呟いた。この時、寺の中の本尊や仏具は焼かれる前に持ち出されて無事だったこと、それを命じたのが信長の寵臣、森蘭丸の兄である森長可(ながよし)であるとまで語った、かどうか。
 最近知ったことだが、長可この時まだ二十歳を過ぎて間もないころのこと。その若さで規模までは分からないが一軍を束ねて、しかも寺宝は守るという判断ができたことに驚かざるをえない。なお、地元の口碑では高遠城を陥す前のこととされているが、その後のことではないかという気がする。そうでないなら、この軍勢は一体、どこから来たというのか。背後は山で、その向こうはその後に攻略しなければならない武田方の諏訪の地である。法華道にも「万灯」とか「厩の平」という、この戦いにちなむ名前が残っているが、ここも下ってきたことになっている。しかし、逆に登っていったのではないかと思う。
 入笠湿原の北方、早稲田中学・高校の寮の傍に「鐘打平」と呼ばれる平地がある。そこの案内板には、織田と徳川軍が諏訪を攻める前夜、ここで武田勢を威嚇するため鐘を打ち鳴らし、それが地名の起こりだと記されている。この兵らが長可勢であるかどうかはさておき、弘妙寺焼き討ちが高遠城攻撃の前か後かの疑問と、芝平を通過していった軍勢の諏訪から甲斐攻略の経路とが、これで繋がってくるような気がする。

 兄長可がその若さだとすると、森蘭丸は二十歳にもならぬ身で終わった一生ということになる。この森兄弟の縁の地が光秀の領地坂本であり、この地が召し上げられてこの兄弟のものになるかも知れないという懸念が、光秀をして謀反に走らせた原因の大きな理由と、「細川ガラシャ婦人」の作者三浦綾子は書く。
 本日は風が強い、この辺で。

 

 
 

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   ’18年「初夏」 (34)

2018年06月19日 | 入笠にまつわる歴史



 きょうの写真に写っている辺りも「御所平」の一部と伝えられている。この名前の由来だが、後醍醐天皇の皇子宗良親王がしばらくいたとする説が有力だが、1333年に鎌倉幕府が崩壊し、その後、諏訪氏の庇護を得た北条時行の一派がこの地に潜伏し、その際に宗良親王を騙った可能性も考えられる。
 時行が潜んだ場所はここ以外にもあったようだが、1年と有半ほど後の1335年、北条政権再興のため鎌倉奪還を目指し、足利尊氏の弟直義(ただよし)が守る同地を攻めた。世にいう「中先代の乱」である。
 以上のことはこれまでにも呟いた大雑把な話だが、「御所平」の名称についてはこうした背景が考慮され、今後に何らかの変化が起こるのか否か、注目したい。
 それにしても、あの人、あの人、そしてたくさんのあの人たちは、この問題をどう考えているのか・・・。
 
 今では集団離村してしまった芝平も、かつての住民には北原姓が多く、乱の前か後か、北条の残党の一部がこの山奥に住み着いたと信じる人もいて、歴史への郷愁を誘ってくれる。
 北原のお師匠もかつては芝平の住人だったが、師は法華道を歩いたり、御所平峠の自らが据えた地蔵様の前に額ずけば、その昔、日蓮宗の本山・身延山久遠寺を目指した信者の旅姿が見えると言った。なかなかその域には届きそうもないが、御所平の辺りを行けば不思議なくらい、動乱の世を過酷な運命に翻弄されながら生きた、若武者のことが思い浮かぶ。
 元熊本藩士にして、幕末から明治にかけて活躍した儒学者横井小楠は自らを、時行の末裔だと言っていたという。小楠は号で、名は平 時存(ときひら)、北条四郎時存と名乗ることもあったとか。

 牛は、ふたつの群れになっていたが、給塩の方法に苦慮している。塩鉢に置いても牛たちには分からず、鹿が待ってましたと来るだけだろう。呼び寄せ、来れば塩を貰えると教えるまでには、この頭数では簡単にはいかない。

 FAXでも予約や問い合わせに対応できるようになりました。ご利用ください。 入笠牧場の営業案内は「入笠牧場の山小屋&キャンプ場(1)」
「同(2)」をご覧ください。
 
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