さて、一昨日の続き、「首切り清水」の名前の由来についてだが、勝手な想像を許してもらいたい。
芝平に暮らす60を過ぎた母親とその息子が帰り支度を始めた。二人はヒルデエラ(大阿原)の近くで一日、田に入れる草、刈敷を刈っていたのだ。ついでに焚付用の薪も集め、それらを草と一緒に連れてきた馬に積み、自分たちも背負い、日の落ちた山を下ることにした。芝平までの道程は長い。家に着くころには、日は暮れているはずだ。
いつものように「雨乞い岳(入笠山)」の南面に位置する「仏平」の少し手前は、馬がぬかるみに足を取られないようにと緊張する嫌な場所だ。ただしここには清水が流れ出ていて、乾いた喉を潤すには絶好の場所でもあった。
二人はおのおのそこで湧き出てくる冷水を口にし、あるいは手ぬぐいを水に浸し、汗で汚れた顔や身体を拭いた。一服した後、息子の方は改めてもう一度手ぬぐいを水に浸けて、それをそのまま首に巻いた。火照った身体にその冷たさが快く、「おっかあ、手が切れるどころか首が斬れるほどだ」なんて言って二人で笑った・・・。
と、まあ、そんな話だが、まんざらの空想ではない。芝平の谷からだとこの場所までは3時間ほどはかかるが、それでも村の人々はこの辺りの山や草原を生活圏に入れていた。人々が今「首切り清水」などと呼んでいる場所は暗い森で、泥濘に足を取られないようにと人も馬も緊張したと証言する老婆が何年か前まで生存していた。
法華道はその名の通り、伊那の信仰に熱い人々が身延山久遠寺への往還に使った古道ではあっただろうが、しかし山奥に暮らす芝平の住人にとっては、それよりかも生活道路の性格の方がもっと強かっただろうと想像する。
古道を歩けばすぐに分かるが各所で道が深くえぐれている。あの道は伐り出した材木の運搬路としても使われえただろうし、炭焼きをした炭俵を担いだり馬に乗せて運んだ道でもあったのだと思う。
藩命を帯びた高遠藩の勘定方が供の者も連れずに、こんな間道のような山道を通っただろうか。江戸の時代、飯田藩や高遠藩が参勤交代に通行が認められていたのは千代田湖の近く、金沢峠(松倉峠)1315㍍で、茅野の金沢宿に通じている。
この道も古く、鎌倉の時代から使われていた。
百歩譲って「首切り清水登山口」ならまだしも、「首切り登山口」はありえないし、古くからの地名「仏平」が泣いている。
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本日はこの辺で。