今朝も椋鳥の群れが柿の木に来ている。いつまでもそこに居残る鳥もいれば、来たと思ったらすぐに飛び去ってしまう一群もいる。そういう時には一時、鳴き声が喧しく聞こえてくるのだが、あの鳥たちにも縄張りのようなものがあるのだろうか。今は数羽が枝から枝へとせわし気に移動している。よく見れば、朝日を一番先に浴びる日当たりの良さそうな東側の実は熟すのが早かったのだろう、椋鳥奴に食べ尽くされてもうない。
Photo by かんと氏
この写真なら、今月19日の夕方から始まった月蝕と、左上方には昴が見えるだろう。19日に牧を閉じて、その夜下に帰らず上に泊まった理由が、この月蝕と昴を同時に見ることだったことを、この2回目の写真を撮影者のかんとさんから送ってもらった時にやっと思い出した。まあ、そんなふうに一日いちにちは薄く、跡を残さず、呆気なく過ぎていく。
昨夜は久しぶりに昨冬の散歩道、全7㌔を歩いた。9時に家を出て、小太郎とHALの眠る林を抜け、さらに開田に出ると、頭上に大きなオリオン座が待っていた。そこも入笠の牧場ほどではないが、夜は特に大きな夜空が頭上に展開し、中でもこの星座を目にすればやはり冬の到来を強く印象付けられる。
約1時間半、歩数1万歩くらいの散歩の間、3回ぐらい星座は目前に迫ってくるように見える。瀬澤川の深い谷を渡る橋の上では、昨冬と同じように葉を落とした木々の間から、赤い色のベテルギウスと3個の冷たい青白い光に囲われ、星雲・M42や並列するオリオンの三ツ星が見えていた。
オリオンに限らず星を目にすれば、頭の中の時間に対する認識が変わる。自分が生まれるよりかずっと遠い昔、億年の単位が付く時間を思い、また自分がいなくなった後もずっと続く、先のない時間を想像する。洞穴の住人と同じで、理解を超えた聞きかじりだが、以前に呟いた10の33乗年とは、原子を構成する陽子の理論上の寿命だとか。1兆年が10の12乗だと言えば、その永遠にも似た長さが少しは想像できるかも知れない。
頭上の闇と無数の星の光の散らばりは、無窮と永遠を同時に伝えてくれる。そして、それだけでなく、慰められる。
本日はこの辺で。