昨日は思い付いて、夜ではなく午後の3時過ぎに散歩に出た。いつもの開田を抜け、瀬澤川の谷を渡り、集落を掠めて峠を越え、最後は天竜川の冷たい水の流れを聞きながら歩く約1時間40分ばかりの気分のいい散歩時間だった。開田では上部を雲に覆われた仙丈を眺め、最後の峠を越えたいつもの高台からは天竜川がうねる伊那谷を眼下にした。色彩の乏しい風景だったが、化粧気のない素顔のような気がしてそれにも好感を持った。
明日の今ごろは、法華道を歩いているだろう。過去の約16年間、少し意外だが、例外が二度だか三度ほどあるだけで大概はいつも一人でこの古道を歩いた。それも冬に限って雪道ばかりだから、最近になっては、いい年をして大丈夫かと心配してくれる人もいる。「ゆっくり行くよ」とか「通い慣れているから」などと言ってはみるのだが、どれほどの効果があることか。
確かに明日も急ぐ必要はないからそれでいい。しかし実際は、ある程度の緊張と、速度を保つ、言ってみれば「挑む、向かっていく」、そういう気持がなければ、登行を維持することは難しい。
街の中を店をひやかしながらブラブラ歩くのとは違うのだ。荷を背負い、平地ではなく斜面を、単調な歩行を繰り返すわけで、根気忍耐が必要になる。それを支える意志がそれなりに求められる。
もちろん、雪の古道は味わいがあるし、深く静まり返った森や林には惹き付けられる不思議な何かが棲んでいる。しかしそういうことを感ずるのは限られたほんの一瞬いっしゅんであって、殆どの時間はただ歩き続けることだけに費やされる。
困難危険な場所はないし、歩く距離は大したことはない。スノーシューズなどという便利な道具もある。もうザックの中にはテント、寝袋、食料、そしてもっと重い登攀具などは入っていない。こういう重い物を背負い、二重靴を履き、ツボ足で何日も雪の中をもがくわけではない。
上には住み慣れた小屋があり、ドロドロのウイスキーが待っている。今届いたばかりの豪華この上ない正月料理の数々も、選択に悩んだ末、大半は下に残すことになるだろう。送り主の厚意の重さに潰れて、遭難しそうだと悲鳴を上げたくらいだ。
今年が終わる。その時が、すぐそこで待っている。幾つもの深い思いがよぎり、そして取り返せない過去へと去っていく。別れの言葉は少なめにして、もう会うことのない年と別れていこう。2022年に感謝。
本年の独り言はこれで最後にいたします。聞いて下さり、ありがとうございました。どうか佳い年をお迎えください。敬白。