入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’23年「冬」(23)

2023年01月31日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 きょうで1月が終わる。結構長かったように思う。大晦日に上に行き、3日に下りてきて、また7日に上がり、9日までいた。年の初めはそうやって慌ただしく過ごし、その後はあまり変化のない冬ごもりの日々が続いた。きょうの写真は雪に埋もれた何もない田圃が半分以上を占めているが、その不必要なまでの空白が今年最初の月を象徴していると言えそうだ。
 
 天気が良くないと散歩にも出ない。その間に8世紀の日本を訪ね、チベットへ出向きヒマラヤを仰ぎ、蒙古の大草原へ連れていかれて、再びこの国の明治のころに戻ってきた。どれもいい旅ができたと大いに満足している。ただ、それらの旅の途中で目にした風景の大半は、たちまち濃い霧の中に消えて行ってしまうだろう。
 
 多くは読み飛ばすだけで済むという一度の旅であるはずなのに、時にはまたそういう風景に出会うために、もう一度同じ場所へ行かなければならないということも稀にだがある。しかし、これが時には難しい。それに面倒でもある。
 例えば、現在の地球上に生存する大型の動物の数は、圧倒的に人間と家畜であるということは納得できても、さてその割合を軽々に呟いてはまた間違える可能性がある。この後、本を2,3冊ひっくり返さなければならない。
 はたまた、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜には最後まで二人の側室がいた。それぞれに12名の子を生ませたとか記憶している。もしも、その子らの誕生が将軍職中であったなら問題だと思ったが、在職期間はたった1年に過ぎなかったことが分かったから、引退してからということになるだろう。それにしても、あまりに多過ぎないか。こんな例をここで挙げた以上、確認しなければならなくなった。
 別の資料には、子の数が男10人、女11人もあるし、いずれにしても静岡に暮らしていた28年間のことのようだ。どうでもいいが、それにしても、時には一夜に二人を相手にお情けを与えなければ、これだけの数に至るのは難しい。牛の繁殖と一緒にしては畏れ多いが、牧場の風景を思い浮かべながらそんなことまで考えてしまった。
 
 以前に散歩に加え瞑想を始めたと呟いた。適当な言葉を知らなかったからそう言ったまでだが、いくら何でも瞑想は言い過ぎだと思い、それに面映ゆく、このことについては沈黙していた。しかし、今も続けている。
 このごろになって「座る」という言葉ならあまり大袈裟ではなく、一番やっていることにも合うと合点した。というのも、座禅とまでは考えていないし、瞑想でもない。精神の修練でもなければ、宗教的な背景、匂いなど全くない。
 これで少しは短気、軽挙がおさまるなどとは思っていないが、1合の酒と似た心のビタミン、とでもしておけばいいだろうか。

 本日はこの辺で。
 
 
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     ’23年「冬」(22)

2023年01月30日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 先週末の雪、里にこれだけ降ると、当然ながら上のことが気になる。もうすぐ1月も終わることだし、2月に入ったらまた法華道を登って、上に行ってみようかと考えている。さすがにこの時季ともなれば歩くしかないが、もしかすればきょうも入笠は雪で、さらに積雪を増やしているかも知れない。
 
 静まり返った雪の古道、特に「爺婆の石」から「厩の平」はわずかな距離だが平坦なクヌギの疎林の中を行く。一服したくなるところだが、その先に「はばき当て」手前の登りが待っている。昔の旅人を真似て、いつもそこまで登ってから一休みと決めている。雪の状態にもよるが「はばき当て」まで、登り出して早ければ1時間少々、2時間あれば余裕だろう。
 聞き慣れない「はばき当て」とは、今のスパッツと考えてもらえばいい。北原師が立てた案内板には、ここで旅人が一休みを兼ね、そのはばき当てを締め直してから旅を続けたという説明がある。

「はばきあて」からは大きなモミの木を巻くようにして最後の登りとなるが、道はいつも吹き溜まりになっているためそれを嫌ってほぼ直登する。程なく「山椒小屋跡」の案内板があり、ここで尾根の登りは終わりとなる。ただし、雪の量が次第に増す落葉松の樹林帯の中を、古い林道へ出るまではまだしばらく厄介な登りが続く。
 それにしてもいつのころまで、こんな辺鄙な山の中にお助け小屋があったのか、口碑は詳しいことを伝えていない。恐らく樵か猟が本業で、お助け小屋は旅人から強いられた副業であったのだろう。
 法華道のことを思い浮かべているうちに、道案内のようなことをつい呟いてしまった。それなら最初からと考えないでもないが、変な先入観や、役に立ちそうもない予備知識などない方がいいだろう。
 
 あの写真家は、危険なグリズリーの棲む森の中へライフルを持って行くことを止めた。銃を携えることにより得られる安心感よりか、それのないことで自然に対する慎重な態度や、神経にヤスリをかけるような緊張感の方を大切にしたいと書いていたように思う。アラスカの自然に対する畏敬の念であり、彼がこよなく愛した極北の自然への誠実な心構えであったのだろう。
 ツキノワグマにさえクマスプレーを用意する臆病者にはなかなか真似するのが難しいが、分かるような気がする。もし山に不安や緊張感がなかったなら、寒さと疲労を押してまで行く理由は、公園の中の安気な散歩ほどの価値も持たなくなりはしまいか。

 本日はこの辺で
 
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     ’23年「冬」(21)

2023年01月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 開田の雪景色をきょうの呟きに使おうとして行ってみた。ところが光が強くて、一体どんな風景が写ったか分からないまま帰って来た。雲と争う空木岳の山容は好きだが、この開田からは少々遠い。もっと上手に撮らないと、佳人と同じように、山が不満に思うだろう。済まない。

 以前にも呟いたことがあるが、「法華の会」という俳句の結社がある。よく宗教の集まりと誤解されるが、この会の名前は最初の句会を開いた場所が古道・法華道とも縁(ゆかり)があって、何となくこの変な名に落ち着き、今日に至っている。
 いきさつを縷々語れば面白いが、この会からはすでに抜けて何年にもなる。会はそれが理由かどうか分からないが、多分そうだろう、今も続いていて、昨年はついに記念誌を出した。昨夜で例会は「二百二十五回」を数えるという。伊那以外にも同人がいて、最近は「オンライン方式」などというハイカラな手法が使われるようになり、恐れ入るばかりだ。
 例会の場所は変遷を重ね、今は伊那にある老舗の蕎麦屋の2階で行われている。あらかじめ投句、選句された句を肴に、酒を飲みながら批評し合うといやり方は会の発足以来、今も変わらない。主宰によれば「この会は俳句を肴に酒を飲む会だ」ということで、確かにそんな風景になっている。

 この会の発足当時からの同人は、冬ごもりの無聊な日々を送る元同人のことを慮ってか、たまには例会に顔を出せと誘ってくれる。たとえそれが"お義理"だったとしても有難いことで、陰では哭いている。ただ、もう句作するのは、3歳の子供が遠い昔に少し覚えた英語を思い出すようなもので、もう無理と決めている。
 にもかかわらずあんな雪の降る夜、どういう気紛れであったのか、自分でもよく分からない。知った顔に会って、酒を飲みたかったこともある。迷句に誘われたこともある。滅多に食すことのない老舗の蕎麦を食べたかったこともある。いろいろあったが、

   オリオンの傾きに知る長居かな    正 

 この句に連れられて行ったような気がする。皆にもそう言った。ついでに、

   寒き夜のオリオンに杖差し入れむ    誓子

 ムー、負けていない、と。

 もう名前を出してもいいかと思いながら、今回も「神足勝記の研究者O澤さん」としておきます。そうですか、ついに校了しましたか。長いことご苦労様でした。初めて会ってから、何年が過ぎたことやら。自転車で後を追いかけてくるのを横で知らせてくれた人とも、もう5年も会っていません。
 2月、来られると言うなら、もちろん上がります。ただし、そちらこそ無理をしないように。かなり雪があります。また連絡します。

 本日はこの辺で。

 
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     ’23年「冬」(20)

2023年01月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 この写真も散歩で通る開田の道の一部。日が射さず、雪の残る冬枯れの風景は寒々しい。ここで、右下にちょっとだけ写っている道に折れ、畑中を走る迂回道路へと出る。夜間の場合、歩行者がいることを知らせるため、車が接近する前に手持ちの懐中電灯を点灯するようにしている。通行量はそれほど多くない。



 ここより300㍍ほど歩いて、山の中の道を瀬澤川の流れる渓へ下り、隣の「八つ手」という集落の端を掠めて先日紹介した峠に至る。

 冬ごもりの日々、きょうのように今にも雪が降ってきそうな天気では外に出る気などしない。部屋を暖かくして、モンゴルへでも行こうとしている。もちろん、本の上でだが。
 すでに何度も呟いているように、以前は読んだが、もう小説は読まない。落穂ひろいでもするようにあの時代、この時代へと旅をする。どれも気儘な旅であり、車窓の景色はたちまち飛び去り、心揺さぶった風景、情景は記憶の奥に沈み込み、再浮上することは滅多にしかない。しかし、それでもいい。

 このごろは、以前に読んだ本を読み返すことがある。昔からの悪い癖で、それらの本には決まって読みながら気になる箇所には傍線を引いたり、異論、反論めいたことを書き走ったりした箇所が目に付く。中にはかなりの見当違いや、誤読している場合もあったり、なぜわざわざこんな箇所に傍線を入れたのかと不思議に思うこともある。
 当人でもそんなふうに思うくらいだから、そんな妙な手垢の付いた本を人に貸すことなど気恥ずかしくてできない。それでも、本人が読むのはもちろん構わないし、むしろ、昔の自分に出会えたり、懐かしい場所を再訪したような気分になれる。いや、忘れてしまっていて、初めて訪れた場所のように思うことも多い。

 本音を言えば、この独り言も、初期のころに考えていた目的地とは全くと言っていいほど違う場所へ来てしまい、当惑している。しかも「遊子は帰還を忘れ」、いまだに見知らぬ土地を彷徨い、あっちへ行き、こっちへ行きを繰り返しているような有様。
 その間に呟いたことは、古い本に走り書きした感想などよりか余程恥ずかしいはずなのだが、なぜかまだ続いている。友人の奥方で、かなりのはにかみ屋のくせに、カラオケとなるとそれほど上手とは思えないのに、飲み屋の見知らぬ人の前でも平気で歌いたがる人がいた。
 そういう人と、これについては同じことなのだろうか。

 本日はこの辺で。

 




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     ’23年「冬」(19)

2023年01月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 確かに雪が降った。気温も零下になった。しかしきょうの写真のように、ここら辺りはそれ程大騒ぎすることはなかったと言っていい。気になっていた小学生の通学路の雪掻きにも行かずに済んだ。

 

 昨日呟いた沢底の「鎮大神社」のことについてもう少しだけ言い足しておきたい。神社の名前が「鎮める」という言葉を持つからつい戦乱を想起するが創建は江戸の時代であるらしい、自然災害や病気から守ってほしいという願いがあって造営されたとも考えられる。
 南側の山を越したマツタケで知られる「後山(うしろやま)」の人たちは先祖が水害に遭い、諏訪から移り住んだのだと、以前に土地の人から聞いたことがある。確か、この集落でも行われる御柱を見に行った時のことだった。
 どちらも東から西に下る細長い谷の中の似たような集落だが、面積、人口は沢底の方が少し広くて大きいだろう。また、沢底は諏訪市ではなく辰野町である。
 
 集落の規模に比べて神社は過ぎたる、と言ってもいいかもしれない。参道の鳥居から始まり、石材が多く使われていた。手水舎はさすが沢底という地名を裏切らず大きな石の水盤にはいつも水が流れ、本殿までの石段は三段階に分かれて続いていた。
 その途中、中段階の石段の左右にあった「社」もしくは「祠」を、昨日は「摂社」とか「末社」とか、うろ覚えの言葉を不用意に使ってしまったが、間違っていた。で、その数は合わせて10近くもあっただろうか、これだけを見ても多くの神々が祀られていて驚く。もしかすれば建御名方(たけみなかた)神や大社と関連する祭神ばかりではなかったかも知れない。 
 
 石段を登り切った本殿はあまり古さを感じない、意外と簡素な建物だった。ありふれた、と言ってもいいかもしれない。ここでも、多数の篤志家の浄財で多くの石材が目立ったが、近くの案内板にによれば造営されたのは1751年から64年とある。それに比べると石材はあまり古いとは思えず、きっと後の世のものだろう。
 境内は古杉に囲まれ 、過ぎた年月と、人々の祈りが 淑気となって、ひっそりと鎮まっていた。
 
 あれだけの立派な神社を建てるということは、当時の人々の信仰の深さが想像できる。鎌倉の時代から知られ、全国に分祀されるようになった諏訪大社である。その威勢はもちろんのこと上伊那にも及んでいた。まして山ひとつ越えたこの土地の人々であれば、その結び付きや影響力はより強く、深く人々の心に浸透していったであろう。
 
 なお、本殿の傍にあった地元の教育委員会による案内板だが、建物の説明もいいが、せめて肝心の祭神の名前や、同じく神社の名前の由来ぐらいは記しておいてほしかった。「鎮大神社」、人々は一体何を鎮めてほしいと祈ったのだろうか。

 本日はこの辺で。
 
 
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