入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’25年「冬」(23)

2025年01月30日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 夜は長い。昼間と比べてずっと長い気がする。人を訪ねるのは気を遣うし、どこかへ出掛けるには酒を飲んでいるから車は使えない。となると、やはり夜の散歩は、おあつらえ向きだと言える。
 他人に迷惑をかけるとも思えないし、健康にも精神にもいい。充実感もあるし、悪くない一人でできる夜遊びではないだろうか。
 何も毎日する必要はないし、気が向いた時だけ歩けばいいのだと決めている。慣れてくれば、おのずと身体が求めてくるようにもなる。

 20代の後半から30代、1回に10㌔、1か月で100㌔を目標に走る計画を立て、かなり何年も続けた。毎日だと、いろいろな付き合いができなくなるし、精神的にも負担になるから、この程度で良かったと思う。その後、月に100㌔の目標は外したが、40代、50代でも時々は走っていた。
 
 素人考えながら、30代に走ったことが40代の体力維持に繋がり、40代の同じ努力が50代には貯金になったような気がする。
 こうして考えてみると、苦労や疲れることはできるだけ避けて生きてきたつもりながら、意外とそうではなかったかも知れない(また消えた、どうもここら辺がおかしい)。
 
 58歳で入笠の牧守になってから、最初のころは入牧頭数が200頭近かったから、放牧の仕方にもよるが、頭数確認のためには2万歩以上を歩いた。しかし、それをあまり苦にすることはなく、むしろ、そういう仕事、暮らしを喜んでいた。
 それはいつも、山での体験や苦労と比較していたからで、またもしも山でなく、別のことに熱くなっていたなら、牧場で働こうなどとは考えもしなかっただろう。

 ある時「趣味と実益になってよかったじゃないか」などと農協のさるエライ人に恩着せがましく言われたこともあった。あれを「実益」と言われた日には返答に窮したものだが、しかし聞き流した。
 どうも安気気楽に生きようとしてかえって苦労を増やし、それだけでなく立場も下げ、収入も減らすという皮肉な結果になった。よくある話だ、別に後悔はしていない。
 
 それよりむしろ、牧場や入笠には感謝している。あの風景、自然がもし身近になかったなら、果たして自分の人生で他に代替するものがあったかと思うほどにも。
 
 かんとさん、了解。遅ればせながらFWさん、多謝。
 本日はこの辺で
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      ’25年「冬」(22)

2025年01月29日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 冬枯れの田が続く盆地に、けたたましい救急車のサイレンの音が響く。その音を耳にしながら、消防や警察の車両なら耳をそばだてても、救急車の場合は日常の一断面のように聞き流す。運ばれていく人への関心は、それが近所であれば別でも、殆どの場合は湧いてこない。

 救急車と警察車両にそれぞれ一度づつお世話になったことがある。前者の場合は初めて発症した腎臓結石で、この時は愚かにも、折角だから救急車に運ばれてみたいという気持ちがどこかにあった。だから、昨年末の3回目の発症時も、2回目の時も、その時の反省もあり、救急車のお世話にはならなかった、念のため。
 警察車両の時は、谷川岳で事故を起こし、一ノ倉の出会いから登山案内所までのほんのわずかな距離だったが乗せてもらった。
 もう記憶がはっきりしないが、こちらで呼んだわけではないのに、人だかりの中に1台のパトカーが待っていた。多分、案内所の救助員が連絡したのだと思う。
 内心の、これで土合か水上の駅までその車で行けると思った甘い期待はあっさり裏切られ、結局そこからはタクシーを呼んだ。

 そんなことを思い返しながら、今朝その時、実は安気に風呂に入っていた。救急車を要請した死ぬか生きるかの人とではエライ違いであり、その違いを考えると、少なからず混乱した。
 先日も、久しぶりに電話した友人は、電話の向こうから弱々しい声で「これから手術だ」と言う。こっちは梅の枝打ちについて教えを乞うつもりだったから驚き、言うべき言葉を失った。

 高齢化時代を迎えて近年、「本人の感想です」の小さな文字が付いた栄養補助食品、サプリメントの宣伝広告がやたらと目立つようになってきた。どこまで信用できるのかといつも疑問を持ちながら、途中でそれが終わるまで音声を消す。
 健康で長生きができることに不満の人はいないと思うが、やがて植物人間になってしまったり、人格崩壊に至るような重篤な病を抱えてしまった人の中には、生きる意欲を失ってしまう人もいるだろう。
 今国会が開かれている。選択的夫婦別姓の問題について議論があることは知っているが、それよりかも、自発的な安楽死ということの方がもっと差し迫った、より重要な問題のように思っているが、どうだろうか。
 本日はこの辺で。
 

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      ’25年「冬」(21)

2025年01月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

   中央の白い峰が中ア木曽駒ケ岳の前岳、これが主峰だと思っていた
 
 きょうも何の予定もなければ、特にやらなければならないこともない。こんなふうにして、わが晩年を空費することを喜んでばかりいるわけではないが、気の重い仕事や約束事、ずっと引きずっている気苦労の種がないのは有難いと思っている。
 
 退屈になれば、雪深い山奥の小屋番にでもなったつもりになり、あるいは風呂に入ったり、昔読んだ本を引きずり出して気を紛らわす。部屋や風呂の掃除もするし、洗濯もする。3度の食事の用意もするから、何もしないでいるわけではない。
 今夜は散歩にも出るつもりだし、その前には日課としている「座る」ことも少ない予定の中に入れてある。

「座る」ことについてはこれだけ続けてきたのだから、鼻呼吸に集中して雑念を消したり、寄せ付けないようにすることが大分できるようになってきた。
 だからどうだということではなく、精神的には何の変化もなければ、進歩もない。ただ、無念無想の時が上手く流れると、以前にも呟いたように、雪上にスキーで大きく、美しいターンを描けたような快感は味わえる。それだけのことで、それ以上求めもしない。

 夜の森の中を歩いていて、月の光や瀬を流れる水の音に心が洗われる気がしたり、森閑とした闇の中を歩く快さと通ずると思っている。
 過去から未来へは、薄い皮膜のような「今」が介在しなければ両者は繋がり、流れてはいかないわけで、少しづつ燃えながら短くなっていく1本の線香からそのあるかないかのような存在をかろうじて感じる、それで充分だと思っている。
 何しろあれは「心のラジオ体操」なのだから、宗教的な教えや、心理学的な説明も全く必要と思わない趣味の領域、夜の散歩と同じようなものだ。

 昨日呟いたように、市長が市報で法華道を紹介したから、今後古道を訪れる人が増えるかも知れない。その際、同じ山道を往復することを嫌う人がいるが、登りと下りとでは別の道かと思うくらい違うこともある。それにまた、今は利用できないが、整備すれば他に選べる下山路もないわけではない。
 6万の伊那市民にとって入笠は故郷の山であり牧である。古(いにしえ)の事物語る良い山だ。
 本日はこの辺で。
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      ’25年「冬」(20)

2025年01月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

           西山( 中ア)は雲に邪魔され、やむを得ず反対側、逆光の仙丈岳
 
  午前6時、まだ外は薄暗い。起き出してから1時間、部屋が暖まるまで炬燵に抱き付きコーヒーなど飲む。外に出ると気温は零下5度、雪を被った経ヶ岳の頂上付近に朝日が射し始め、赤く染まりかけているのに気付く。
 写真を撮ろうとしたが、そこからでは建物や樹木などの邪魔が多く、思い切って急遽開田まで車を走らせた。
 
 途中、登校する小学生らの姿を何人も目にした。もうその時間には家を出なければならないのかと驚き、つい同情までもしたくなる。もっとも、われわれの時代はスケートをするため、この時季は毎朝6時には校庭にできたスケート場にいた。
 70年も前のことである。まず、今の子供たちと比べ、身なりの良さはわれわれのころとは明らかに違う。先日No17に、美和ダムの湖底に沈む前の風景と、それを眺める子供らの写真を載せたが、今と当時とでは着ている物も、その着ぶくれした姿も明らかに違う。

 もう一つ驚いたことは、子供たちの集団の中に知っている大人が加わっていたことだ。聞けば毎朝、子供らを見守りつつ小学校まで付き添うのだという。距離にしたら2キロ近くあるだろう。
 われわれのころは車の量も少なかったから、歩道もない未舗装の県道をゾロゾロと好き勝手に歩いて通った。その当時と比べて、子供ばかりか大人もご苦労なことだと思った。
 
 それでも良くなった点では鉄筋建ての校舎に加え、その移転により倍近い遠距離になった通学路である。丘の上の校舎までは田圃や畑もあれば、林や森もある。四季折々の自然の風景が、子供たちの感受性を豊かにしてくれるだろう。
 あのくらいの子供たちにしたら、早起きも、通学路の長さも、それほど気にならないのかも知れないし、今は教室に入っても寒さに震えることはないだろう。



 話は変わる。わが市、伊那市の市報には毎月市長が綴る「たき火通信」といコラムがある。今月は、「信仰の道 法華道」というタイトルで、古道法華道のことや、それの修復に苦労した北原のお師匠のことを紹介していた。
 法華道と牧場の繋がりは長く、太い。入笠牧場が今年から放牧を止めると決めた話が、市長の耳に届いているのかも知れない。
 本日はこの辺で。
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      ’25年「冬」(19)

2025年01月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
  

 また「明日は沈黙します」の土曜日が来た。早い、早過ぎると思いながら、同じ言葉を繰り返す。
 
 牧場を来年度から閉鎖すると呟いてから今も、「キャンプはできなくなるのか」とか「牧場はどうなるのか」とかの問い合わせがよく来る。責任をもってそれらに応えることのできる立場ではないが、東部支所の所長との間ではキャンプと撮影は続行することで一応話はついている。ただし、まだ一部の人間は、これで納得するか分からない。
 
 恐らく、そういう人たちは、かつては長野県の三大公共牧場の一つに数えられた牧場への思い入れもなければ、愛着もなく、何より牧畜の知識もない人たちだと思われ、そう言われても仕方ないだろう。
 あの人たちにはせめて、100年からの歴史を持った南信地区最大の公共牧場を閉鎖した人たちとして、後世に語られるかも知れないという覚悟ぐらいは持ってほしいが、それも分からない。
 
 高ボッチの伝統のある草競馬も、残念ながら終わってしまった。当然、諸々の事情、理由はあっただろうが、詳しいことまでは伝わってこない。
 あそこにも牧場があって、と言うよりか元々が牧場で、以前に行った時は数頭のホルスがいた。今はどうなっているか知らないが、多くの人は放牧されていた牛のこともだが、もう見ることのできないあの草競馬を惜しみ、残念に思っていることだろう。牛も、競馬も一つの貴重な景色なのだから。

 牧場の土地を伊那に返還するのは来年になると聞く。それまでは農協が管理を続けるしかあるまい。
 来年度も管理を任されるなら、何キロになるか知らないが電気牧柵はわが苦労の作(柵)だから全部撤去する。第2牧区のように、区画変更に伴う新たな牧柵も、これまた苦労の作(柵)だから同じようにしてもいい。
 ただし、牧場の外周と第4牧区の道路に沿った牧柵は当面管理上からも残すべきで、これらの牧柵も殆どは支柱を打ち直し、古い有刺鉄線も使い回しで張り直したものだが、これらには手を出さないつもりだ。
 
 吠えたいことはいろいろある。しかし今は、18年間過ごしたの牧場の記憶と、あの自然、土地への感謝だけに留めて良しとしておきたい。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。
 
 

 
 
 
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