入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

         里の春 (4)

2015年03月31日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    
 断酒を決めてから二十日が過ぎた。実はこの間、告白すると3回ばかりだが、アルコールを口にした。入笠から帰った先週の日曜日(3月22日)の夜、来客もあり、あまり頑なになるのも見苦しく、いかがなものかと思ったのだ。また丁度、FMZ君から大量の酒とビールが届いたので、早速試飲して礼と感想を伝えなければ、恩義に悖るということも考えた。それにしても彼から受けた数々の厚意・厚情に対して、こちらからはタラノメとキノコを送るぐらいで、最早今生においてはとても返えし切ることはできない。感謝、涕泣。
 羅臼昆布でしっかりと出汁(だし)を引き、京都のナントカという絹豆腐を使って丁寧に湯豆腐を作り、香の物を用意した。これだけでもう、十分である。またこの夜は電子レンジなぞという無粋なものは避け、ヤカンに湯を沸かし、正当なやり方で熱めの燗をつけた。
 で、まずは一杯ゴクリと。刹那、口中に激雷が発生し、喉から胃の腑に電光が走った。身体がふるえ、失禁しそうになったので、急いでビール奴を喉にドボドボと流し込むと、熱せられた口腔は間を置かず冷やされて、ついにはあまりの快感に絶叫した・・・。一夜明けても前夜の勢いが止まらず、またビールを飲んでしまった。嗚呼。
 もう一度は一昨日の日曜日、その理由はこれまた深刻極まりなくて、アルコールから得ていた糖分を急に遮断してしまったため、チョコレートを手放せなくなってしまったのだ。と言って、こんな砂糖の塊りをのべつ幕無し喰らっているくらいなら、むしろ酒でも飲んだ方が余程健康にもよかろうとの重い判断で、自らを被験者にして、軽く実験をしてみたのだ。もちろん、前回の統御不能の”勢い”は、昨夜のうちにサイドブレーキをしっかりと効かせておいたので、今はもう鋼鉄の意思の支配下にある。たとえチョコレートの虜になっても、断固断酒は続行する。
 ともかくも残り十日。そしてさらに十日もすれば、仕事が始まる。そうなればまた、一日を閉じる祭りが必要になるだろう。


 昨日、樋口次郎兼光の墓所で見付けた

 今日で3月も終わる。東京は桜が満開らしい。沈丁花の香で始まる東京の春もいつにか遠くなって、今では入笠牧場の山桜でする花見が楽しみだが、それよりも春はゆっくりと過ぎていってほしい。
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         里の春 (3)

2015年03月30日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


天気がよかったのでHALを連れて久しぶりに、樋口次郎兼光の墓へ行ってきた。いきなりこんな人の名を出しても、ほとんど誰も知らないと思う。では、巴御前の兄だと言えば、どうだろうか。木曽義仲の愛妾とか召使と言われた妹だが、兄の兼光よりも余程その名は知られている。
 最新の週刊新潮「戦国武将のROE]という人気の連載コラムに、この樋口次郎兼光のことが書いてあった。副題は「『木曽義仲』は大河ドラマにうってつけ」とあるが、義仲よりも兼光にかなりのスペースをさいていた。同コラムの著者である東京大学の本郷和人教授の推薦で、大河ドラマ実現の運びとなるかはさておき、それでまた行ってみる気になったのだ。
 伯父である源義朝に父である義賢(よしかた)が討たれた後、義仲は信濃権守・中原兼遠を頼り、その庇護のもと木曽の地で兼光、兼平、そして巴などとともに成長した。巴が水浴を楽しんだと言われる「巴が淵」が、今も木曽川に残る。
 偶々通りがかりに知ったのだが、兼光の墓はここから20キロとない辰野町の、そう「樋口」という集落にある。兼光はこの地を拠点にしていたというが、木曽からはかなりの距離がある。これまで、山また山の木曽の谷から京に攻め入るだけの軍勢を、義仲はどうやって確保できたのか不思議でならなかったが、どうやらその勢力範囲は、辺境の地木曽だけに留まっていたわけではなかったようだ。
 義仲は従兄弟の義経に討たれるが、その義経は兄の頼朝に討たれる。彼らの親である義朝が弟の義賢を討ったと同じことを、その子らも繰り返したのだ。
また、この兼光の子孫こそが、出羽米沢藩30万石の直江兼続だということをこのコラムで教えられた。




 
 死後に兼光の遺髪が持ち帰られ埋葬されたという。逆光のためによく分からないが、写真の墓石は昭和58年に新しく建てられた。

 この樋口という集落からはもう一人、大変な人物が出ている。時代はずっと下り先の太平洋戦争末期、日本軍は最後の反撃を試みるため「天号作戦」の名のもと、昭和20年4月6日戦艦大和を沖縄に向けて特攻出撃させた。その大和の艦長こそ、この樋口出身の有賀幸作大佐である。


 
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        里の春 (2)

2015年03月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 朝のうち家の中ではストーブを焚いていたというのに、外へ出てみたら意外に暖かくて驚いた。てっきり冬のような曇り空だと思っていたら薄い雲で、その雲を透かして柔らかな日の光が、天竜川の流れや土手を春めいた眺めに見せていた。
 ほったらかしの庭にもイカリソウや、ハッカクレンの芽が出始めたようだ。これらの山野草は、信州で暮らすようになってから植えたものだから、十年以上になる。協力してくれる人がいたり、そこらへ買いに出掛けたりしてひと頃は四十種以上もあったが、いまではどれほど残っていることか。そんな草花のことも、春のほんの一時思い出してみるだけで、山に落葉松の芽が吹き、山桜が満開になるころには、里のことなどにはとても気が回らなくなってしまう。
 結局は何もしないで終わるのだが山野草と同じく、一年の中でいまだけだろう、家や周囲を荒れ放題にしておいて何の手も打てない不出来な余裔として、ご先祖さまに対して申し訳なく思ったりするのも。
 


 現在も北の方にそういう人がいるが、禁固刑以上の受刑者は一定の期間、選挙に出馬することができない。ところが、当然と考える人もいるが、いわゆる戦犯とされた人々は国内法では犯罪者として扱われなかった。ために、まだBC級はもちろん、最後のA級戦犯が受刑・拘禁中であるにもかかわらず、一足先に出た人の中には、すでに政治活動を始めることもできた。BC級に科せられた人々を含めて、刑死した人たちとの計り知れない落差は、何と言ったらよいのか思い付く言葉もない。
 
 ひるがえって、艶(なま)めかしい春の夕暮れ、このところやたらきな臭いニュースが飛び交うが、この国の今の平和をしみじみと実感する、清貧。
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        里の春 (1)

2015年03月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    遠く仙丈を背景に、梅の花が咲き始めた

 昨日、「早春の入笠牧場」を書き終えたばかりだというのに、牧場へ登ったあの日からもう、一週間が過ぎてしまった。
 日の経つのがことのほか早く感じられる。しかし、いい一日いちにちが過ぎていく。何か特別なことがあるわけではないし、期待もしないが、明るい春の光の中をぼつぼつと過ごし、暮らして一日を終える。何の制約もない。あるとしたら時間だけだ。
 いや、もう一つあった、断酒という。一日を閉じる儀式のない生活が、今年の春をより短くさせはしないかと心配している。


    山室川の砂防ダム
 
 一昨日に続き、今日も芝平へ行った。今日は山奥にも会えた。彼の隠れ家の前で日向ぼこをしながら、とりとめのない会話をして帰ってきた。先週末、神奈川の海で釣り上げた魚を馳走してくれるというありがたい申し出を、丁重に断るのに苦労した。そんな美味そうな魚を、酒も飲まずに頂戴したら罰が当たる。
 断酒してから、食べることへのこだわりが大分なくなった。高価な食材や料理を食べたいという気なぞは、前からない。ただ自分なりきの好みや、その日食べたいというものには抗い難かった。それが幾分変化してきた。そしてそう、もしかすれば牛のように、毎日まいにち同じものを薄味で食べる日が、いつかやってくるのかも分からない。
 
 誤解されるむきがあってはいけないので一言書き添えるが、断酒を始めたり、牛のような単調な食事を思うのは健康とはまったく関係はない。単にこれも行事のようなもので、暖かくなると変なことを考えたり、実行してみたくなるだけの話に過ぎない。で、まあ変人と言ってくれる人もいる。

 気持ちのよい日が去っていく、有難い日が去っていく。感謝。
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        続々々早春の入笠牧場(3月20日‐22日)

2015年03月26日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 山を降りる日がきた。厳冬期には聞くことのなかった鳥の声がする。鳥も春が来たことが分かるのだろう。
 快晴。窓を開けているが寒くはない(5度C/8時45分)。冬の間締め切っていた部屋に春の風が入ってくる。明度の高い早春の光を浴びながら、一昨日牧場に着いた日の夕暮れと並ぶ、ここでのもっとも気持ちのよいひと時を味わう。
 雪が締まっていて、太陽の光が明るい午前中に、山を下ることにした。


  管理棟の裏手にある第2牧区を急登する


    御所平


    脛巾当て(はばきあて)
 
 脛巾(はばき)とは、「外出・遠出などの折、脛に巻きつけるもの。布や藁(わら)で作り、上下に紐を付けてしばる。後世の脚絆(きゃはん)に当たる」(広辞苑より)。足回りをよくするための脛(すね)当てのこと。
 
 以前にも紹介したが、法華道には登り出しから本家・御所平峠まで9か所ほどに、御所平や脛巾当てにあるような道標が、北原のお師匠の手によって設置されている。それらを目印に登って来ればまず道に迷うことはない。尾根の消える山椒小屋跡あたりからは傾斜の残る落葉松の樹林帯となり、そこをを登っていけば、木材搬出に使われた古い林道に出る。ここから峠までは1時間ほどの単調な道が続くだけ。この少し手前に一か所、そしてこの道を進むともう一か所右手に大岩が見えるから、雪道で登路が判然としないときの目印にするとよい。普通に歩けば下からおよそ3時間くらいと見て、そこに各自の体力に応じた休憩時間を加えれば、ほぼ目途が立つ。本家・御所平峠から牧場の管理棟までは20分もかからないだろう。
 この林道までは冬の間に誰か上から下ってきたようだが、どうやらそこから引き返したらしい。
 
 下りは脛巾当てまでは1時間もかけずに来たが、そこまでくると、心地よさげな日だまりが「少し休んでいったらどうだ」と誘ってくれた。誰も訪れない古道で、旅人にでもなった気持になって日当たりのよい枯草の上に腰を下ろした。クヌギの疎林の中は明るく、風もなく静かだ。そうやっていると、冬の間じっとしていた草木がそこらここらで目を覚まし、活動を始めようとしているのが伝わってくる。ここもまた、一人でなければならない時間の流れている場所だった。
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