不思議なことがあるものだ。テイ沢は、詳しいことは分からないがいつのころからか、信仰の対象にされていたと言っても間違いないと思う。そうでなければ、20体以上もの石仏、石柱があの渓に残っているわけがない。しかも、それらは夫婦岩と呼ばれている、流れを挟んだ左右の巨岩の周辺に集中している。
下から4番目の丸太橋を架けた時に、巨大な男岩(下流から見て左)を削って直角に流れる淵を夫婦岩にちなんで「夫婦が淵」と呼ぶことにした。沢の中でも、人気の高い場所である。この橋を渡り少し上流に向かうと、左手に大きな岩があって、この岩の上に以前は1体の石仏が据えられいて、賽銭なども置かれてたという。そのことを教えてくれたのは北原のお師匠だったが、いつの間にかその石仏は姿を消してしまったらしく、確かに今はない。
きょうもテイ沢に行った折、夫婦が淵の流れの中にモミの枝が流れを邪魔し、少々景観を損ねているのが気に障った。放っておいても良かったが、妙に気になり取り除きに行こうとした時、流れに向かって下り出して変な形状の岩に気が付いた。下に回って見てイヤー驚いた、変な岩は石仏だった。あそこへは何度となく行っている。またきょうのように、流れに引っ掛かった流木を引き上げたりすることはこれまでもさんざんやってきた。にもかかわらず、この石仏の存在には今まで全く気が付かなかった。
もちろん、早速北原のお師匠にも電話で報告した。すると師は大変に驚き、喜んだ。そして、お師匠もずっと探していたのだろう、見付けた場所を詳しく知りたがり、さらに「地蔵様は頭にジャを巻いていないか」と聞いてきた。どうもそんなふうには見えないが、実物をよく見なければ分からないと答えておいた。師もこの独り言は聞いてくれているから、この石仏が師の記憶の石仏であるかどうかはきょうにも分かるだろう。
ともかく、いずれ師の指示に従いしかるべき場所に安置するつもりだ。「お師匠、いしぼとけ様はわたくし奴に探して欲しかったんじゃないのですかね、お師匠ではなく」と無礼なことを冗談半分で言ったら、「そうだ、そうだ」と笑って受け止めてくれた。賽銭を供えた人たちが分かれば、沢、特に夫婦岩がどのような信仰の対象であったのか分かるだろうが、もう、難しいかもしれない。
神も仏も信じないままきょうまで来た。しかし、きょうの発見にはまんざらでもない気がしている。このごろ、郷土の神社仏閣などに興味を持ち始め、さらにきょうのこと、そろそろ来いと呼ばれているのだろうか。海老名出丸さん、いい話でせう。
本日はこの辺で。