役小角さま登場!ここでは先日「世界の終わり」の撮影もあった
秋日和の午後、光のコントラストが強い。久しぶりの青空だが、夏はもうどこにもない。
信州そばの発祥の地は伊那とされてる。それに一役買ったのが、ナント山岳修験者の祖である、あの役小角(えんのおずね)とくると、話は奈良時代という遙か遠い昔まで遡る。この驚嘆すべき口碑については、それとなく聞いて知っていた。
確か、中ア「西駒ガ岳(伊那では『木曽駒ヶ岳』とはあまり言わない)」登山の際に、登山口となる「内の萱(うちのかや)」の集落で、そんなことを伝える案内板を目にした記憶がある。内の萱は、西山(中央アルプスのこと)の山付きにある小さな集落で、奈良時代などに本当に人が住んでいたのかどうかは定かでない。しかし愛すべき故郷の伝承に文句を言うつもりなど、もちろん誰にもない。
で、行者蕎麦の話になるが、醤油は大変貴重であったから、まずは味噌、そしてそれが焼き味噌になり、それに辛み大根が加わるのかそれとも醤油が先か、ともかく今の食べ方が完成するまでには相当の年月を要したと思う。それに二代将軍秀忠と側室の間に生まれた保科正行公もレジェンド・言い伝えに加わたから、公が最上藩、会津藩へと転封を重ねたゆえに、話はドドーと拡大していっただろう。
入笠山は今や富士見町が、西駒とソースカツ丼は駒ヶ根市にと、本家の威勢を分家に取られてしまったような淋しさも、ここで役小角さまに繋がる「行者蕎麦」が多くの蕎麦通に称賛され、またしても一大脚光を浴びにあびて、伊那の地はいつしか「行者蕎麦」に湧き、沸騰し、煮えたぎりつつあるとか。
今日はそのあたりのことをもっと正しく、より広く外部世界に知らしめんと、市の広報関係者や撮影スタッフが早朝からお出でになった。案内をした貴婦人の丘や、北原新道を急登した高座岩では納得のいくシーンやカットが撮れたと聞いた。同新道を作った北原のお師匠にその話をすれば、きっと喜ぶだろう。
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