入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’24年「冬」(40)

2024年12月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

      これは昨日の雪雲の中の経ヶ岳と里の風景
 
 やはり昨夜、また雪が降った。薄っすらと地表を白くしただけで目下のところ止んでいる。天気予報では午後にまた少し降るようだが大したことはないだろう。問題は上で、あちらはまだ降っていそうだ。逆側の経ヶ岳は完全に雪雲の中。
 
 年の瀬もついにここまで来たかという気がしている。越年のため30日には上に行くから、今年里にいるのはきょうと明日しかない。気持ちだけは急かされるが、もう年内にすることは特にないし、新年が来ると言ってもこの年齢になれば改まってそれを寿ぐ気持ちにもなれずにいる。人並みに新しい年が来ることに胸を膨らませていたのはいつのころまでだったろうか。

 今年も入笠で越年し、新年を迎えるために何人かの人たちが来る。それはそれでもちろんいいが、一人で大晦日からぽつねんと過ごし新年を迎えたことも何度かある。
 老人が、というにはまだ早かったが、あのうら寂しい山の中の、色彩の乏しい林や草原の方に心魅かれて、することもなく一人だけで年を越す。そういう侘しい風景が呼んだのだ。
 一生懸命に年越しの料理を作って、思い通りの情景を描けたこともあれば、何もせずに酒を飲んで、早々に寝てしまったこともあった。今となってみれば味わい深さよりか、どちらも隙間風の吹き込むような寒くて切ない部屋の風景だったような気がする。

 それでも、流行りの夥しい数の電球を使ってこれでもかと人工的な虚構の美しさを見せつける観光地の電飾よりかは、まだマシだと思う。建築物であれ樹木であれ何にでも見栄えさえ良ければと、あんな古い集落までもがXXの厚化粧のような真似を始めた。
 そのうちには電飾のような装飾が施されなければ何も感じないような不感症の人が増えるかも知れない。
 コンビニの向こうに見える富士山の写真を撮って喜び、歩くこともままならない橋の上に立ってわが身をを撮れれば、目の前の山の名も覚えないまま満足して帰るといった不思議な人たちのことだが。
 いや、耳障りな余計なことを言って、老人のひがみだと嗤って下され。

 外は雪が舞っている。気温はこの時間9時半になっても零度を超えない。灰色の雪雲は最低雲高をさらに下げたようだ。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。

 
 

 

 
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      ’24年「冬」(39)

2024年12月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 雪が降っている。夜は別にして昼に降るのは今冬初めてのような気がする。午前11時、外の気温は1度。このくらいだと、恐らく今に雨に代わるか止むと思うが、里はそれでよしとして、果たして上はどうだろうか。
 一昨年は12月に2度ほどそれなりの量の雪が降って、越年のため上に車で行くことを断念したのは既報の通り。とは言え、大晦日には毎年、何とか車で上がった記憶の方が多い。
 
 もう、15年くらい前になるだろうか、残留した2頭のうち、1頭は年内に降ろせたが、もう1頭は足を痛め牧内を彷徨した末に餓死した。死骸を里へ運ぶことができたのは翌年になってからで、確か7日ごろ、いや、それは死を確認した時で搬出はそれよりか後だった。
 この年は越年を上でしたかどうか、今でははっきりしないが、24日のクリスマスイヴには行って、牛を呼んで配合飼料を与えたことはよく覚えている。その後正月3日に行ったときは姿を確認できず、恐らくすでに死んでいたか動けなかったに違いない。
 7日に、徹底的に捜索するため身支度を整えて上がり、小さく、軽くなった死体を発見し、一人で道路近くまで運び降ろした。散々手を焼かされた牛だったが、その分余計に不憫な思いが強く残った。
 トラックの用意ができたのは10日だったか、その時も上がっているが、車は途中で雪にスタックし、応援にも行ったはずだ。

 炬燵の中から曇天の空を眺めていると、上で起こったいろいろな出来事が次々と思い出されて尽きない。どうやら雪は止んだようだ。
 一昨日は「拙を守って田園に帰」った人の詩の一節で終えたが、かの詩人のように「守る」のではなく、望まずも「拙」に生きるしかない18年だった。
 それでも21年前、56歳になるという前日にした決心、そのまま東京に留まらず都落ちを選んだことに関しては、悔いがなかったかと問われたら一事を省いて「ない」と答える。
 
 田舎に帰ってからは立場も、経済的な面でもやはり大きく変わった。しかし、入笠牧場と牛たち、それと周囲の自然はいつも味方でいてくれたと思う。単に故郷で暮らすというだけでは、こうまでは言えない。「あんな山の中で、それも一人で」と言う人もいたけれど「あんな山の中」の「一人」だったから良かったのだ。
 良い人たちにも出会えた。これも大きい。もちろんあなたもその一人です。
 本日はこの辺で。
 
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      ’24年「冬」(38)

2024年12月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日呟きかけたように、そのことはかなり気にしている。最近は日中でも、この辺りでは昔のように歩いている人を見かけない。用事は電話で済ませ、必要ならば車で行けばいい。ましてこの寒い冬、それも夜、集落の中でさえ外を出歩く人はまず見かけなくなった。
 
 子供のころは夜間に用事を言いつけられれば懐中電灯ではなく提灯を持たされ、街灯のない暗い道で人の気配を感ずると「お使いでございます」とか「こんばんわ」とか、まずこっちから声を発しろと教えられた。そう、「オツカイデゴザンス」と言われても、今なら分かるが、まるで意味も分からず符丁のように聞いていた。
 夜や墓地を怖れたり、幽霊、妖怪の類の怪奇譚は、背景に夜の治安維持を兼ねた先人の知恵も含まれていたような気がする。
 ついでながら、もう、夜の墓参りなどとっくに止めた。もし誰かが石塔の横に人影を目にでもしたら腰を抜かすほど驚くだろうし、そんなことになれば、以後は世間から相手にされなくなる。

 村の中でもそうなのだから、それが人家のない山の道となると時間にもよるが、もし人と出会えば自分のことはさて置いて、まず相手を不審者と思う。だからと言って、こちらから何か問うのも憚られる。
 何分にも、誰にも会わない前提で、と言うかそのために、夜の散歩しているのだ。もし出会えば「こんばんは」ぐらいは言うつもりだが、瀬澤川の谷の中とか、場所によってはそれでも相手は驚き、不気味に思うだろう。
 
 こうなれば、運動とかの目的を持って歩いているのだと分からせる服装を考えなければならないが、この時季は難しい。散歩であって、走ったりするわけではないから、運動着では風邪を引く可能性もある。
 
 止めればいい。それが一番である。望んでまで奇人、変人扱いされるつもりはないし、不慮の事故を避けるためにもそうすべきだ。せめて散歩は日の落ちる前に帰って、後は寝るまで大人しくしていよう。
 
 それにしても、夜の闇や里山の散歩は、捕らえられて狭い檻の中で暮らす野生動物が、いつまでもサバンナを忘れられずにいるように、この身も、そこまで野生化が進行していたという証なのだろうか。
「羈鳥(きちょう)は旧林を恋ひ、池魚は古淵を思ふ」。
 本日はこの辺で。
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      ’24年「冬」(37)

2024年12月24日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 夜の散歩と昼の散歩とではその気分、味わいが違う。何年もかけて地下深くから湧出したあの洞の水は夏でも冷たく、1分とその中に手を浸してはいられない。飲めばその味はまさに甘露かんろ。
 他方、生ぬるくなったペットボトルの水は喉の渇きを癒してはくれても、それだけである。前者が夜、後者が昼の散歩、そのくらいの違いがあると感じている。
 
 開田に出てこの時季、冬枯れの景色を眺めながら東の仙丈岳や、伊那の谷を挟んだ逆側の木曽駒の雪の様子を気にしながら歩くのも悪くはない。特に風のない、暖かな陽射しの中ならなお有難い。
 一面に拡がる田畑は1年の役目を終えて、翌年が来るのををじっと待っている。その景色をペットボトルの生ぬるい水などと言ったのは訂正した方がいいかも知れない。

 それでも、同じ場所からでも、味わう雰囲気はまた別だ。頭上に浮かぶ冬の星々や星座、薄暗い影絵のような仙丈岳を背後にして、うずくまる遠く小さな集落の灯り、その手前の無駄とも思える広大な闇。
 それに、周囲の沈黙に加え、冬の夜気が伝わってきて、とにかくそのすがすがしさが昼とは格段に違う。

 ここまでくれば、もう歩き出す前の迷いは消える。雑念だろうが妄念だろうがそれらを拒まず、いつもの決めた順路を歩くだけだ。
 開田を抜けると、狭い畑中を走る車道を300メートル位歩かなければならないが、幸い滅多にしか車は通らず、夜間の交通量は少ない。車の灯りが近付けば、歩行者がいることをヘッドランプを点けて教える。
 一昨夜は、牛飼い座の主星に引きずられた北斗七星の柄の部分が、東の空、雑木林の上に見え始めていた。

 車道と別れて、暗い谷へ下りていく。闇の中から聞こえてくる沢の水音については、いくら強調してもし過ぎるとは思わない。暗闇に磨かれた流れの音は、なんともすがすがしく、気が引き締まる。
 それから集落の端を遠慮しがちに通り抜け、人家の絶えた山裾を急ぎ足で登って峠に出でる。ようやくそこで、待っていてくれた夜景と出会う。
 天竜川を中心にして経ヶ岳の山裾にまでも続く光、影のような山並み、前にも呟いたがこの眺めには過去が見え、現在が見え、未来も見えているような気がしてくる。

 眠りに入りつつある集落ばかりか、山の中でも、人眼に付かないことだけを願って歩く。夜の散歩の最も気になるのはクマやキツネ、タヌキなどではなく人である。そのことを言いそびれたので、また明日にでも。
 本日はこの辺で。
 
 

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      ’24年「冬」(36)

2024年12月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 いつもの散歩では、開田に出る前に地元の人が「ホラ口(洞口)の坂」と呼ぶ坂道を登らなければならない。前にも呟いたが、この「ホラ(洞)」という意味は穴のことではなくて、小さな沢の流れる谷のことである。だから「口」が付いて、谷の入り口を指すのだとその時も言ったと思う。名前こそ付かないが、入笠にもそういう谷は幾つかある。
 
 このこともその時呟いたと思うが、われわれの集落「福島村」は、いつのころからかは調べてないが、比較的早くから水道が施設されていたそうで、水源はこのホラ口の中段辺りから湧く地下水を利用していた。今も、その水源の入り口2カ所には名残の古い扉と、大型トラックの荷台ほどの金属製の貯水タンクが残っている。
 (また消えた)
 近くには碑が建てられていて、そこには「罔象女命」と言う文字が彫られてる。この碑が水の神様で、「ミズハノメノミコト」と読めるようになったのは、都会から田舎に帰ってきて、それも大分経ってからのことだった。
 記紀によれば、イザナミが火の神、カグツチを産んだ際に女陰を火傷して、その痛みから漏らした糞尿のうち、尿から生まれたのがこの神ということらしい。「母なる大地」という言葉もあるが、イザナミは夫であるイザナギとともに国を産み、さらに次々と山川草木の神々を産んだのだとか。

 脱線した。きょうはこんな一度呟いたことを、知ったかぶって繰り返すべきではなかった。
 それにしてもしかし、こうした神話が書かれている古事記や日本書記は、8世紀の初めに作られたものだ。このような物語がそんな時代に存在していたことにただただ驚き、畏れ入る。

 洞口の坂に戻るが、小さいころは父親の引く荷車の後ろを押しながらこの坂を登ったものだ。当時でもすでに「リヤカー」などと呼ぶ金属製フレームにゴムタイヤの付いた荷車もあったが、わが家のは時代劇に出てくるような木製で、輪には鉄板が巻かれていた。
 当然未舗装だったから、荷車の輪が石ころの混ざった山道を登る際にはゴトゴトと音までして、その振動が手に伝わってくる不快な感触は今でも忘れない。
 ぼつぼつエンジンの付いた耕運機が登場し始めたころで、まだそんな旧式な物に頼っている姿を人に見られるのは子供心にも恥ずかしかった。
 
 それから荷車の類は姿を消した。牛馬も同じ運命をたどり、耕運機がそれらにとって代わり、今では大型のトラクターが幅を利かすようになった。
 1枚の田の大きさは耕地整理で2倍、3倍と広がり、機械でなければとても手に負えず、泥田に這いつくばるような田植えばかりか、家族総出でやった稲作の古い風景はすっかり消えた。

 昨夜もそうだったが、夜の散歩で洞口坂を歩いていると、そんな遠い日のあんな貧相な記憶・風景に、ささやかな団居(まどい)にも似た思いが被ってくる。
 本日はこの辺で。
 
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