
これは昨日の雪雲の中の経ヶ岳と里の風景
やはり昨夜、また雪が降った。薄っすらと地表を白くしただけで目下のところ止んでいる。天気予報では午後にまた少し降るようだが大したことはないだろう。問題は上で、あちらはまだ降っていそうだ。逆側の経ヶ岳は完全に雪雲の中。
年の瀬もついにここまで来たかという気がしている。越年のため30日には上に行くから、今年里にいるのはきょうと明日しかない。気持ちだけは急かされるが、もう年内にすることは特にないし、新年が来ると言ってもこの年齢になれば改まってそれを寿ぐ気持ちにもなれずにいる。人並みに新しい年が来ることに胸を膨らませていたのはいつのころまでだったろうか。
今年も入笠で越年し、新年を迎えるために何人かの人たちが来る。それはそれでもちろんいいが、一人で大晦日からぽつねんと過ごし新年を迎えたことも何度かある。
老人が、というにはまだ早かったが、あのうら寂しい山の中の、色彩の乏しい林や草原の方に心魅かれて、することもなく一人だけで年を越す。そういう侘しい風景が呼んだのだ。
一生懸命に年越しの料理を作って、思い通りの情景を描けたこともあれば、何もせずに酒を飲んで、早々に寝てしまったこともあった。今となってみれば味わい深さよりか、どちらも隙間風の吹き込むような寒くて切ない部屋の風景だったような気がする。
それでも、流行りの夥しい数の電球を使ってこれでもかと人工的な虚構の美しさを見せつける観光地の電飾よりかは、まだマシだと思う。建築物であれ樹木であれ何にでも見栄えさえ良ければと、あんな古い集落までもがXXの厚化粧のような真似を始めた。
そのうちには電飾のような装飾が施されなければ何も感じないような不感症の人が増えるかも知れない。
コンビニの向こうに見える富士山の写真を撮って喜び、歩くこともままならない橋の上に立ってわが身をを撮れれば、目の前の山の名も覚えないまま満足して帰るといった不思議な人たちのことだが。
いや、耳障りな余計なことを言って、老人のひがみだと嗤って下され。
外は雪が舞っている。気温はこの時間9時半になっても零度を超えない。灰色の雪雲は最低雲高をさらに下げたようだ。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。