よく働いた。寒さに負けずに働いた。薄暗くなるまでことこつこつこつ働いた。といってもお金になる仕事などではない。畑に蔓延っていた冬の雑草の草取りをしたのである。お陰でかなりきれいになった。冬の草は根が深い。これを掘り出す。根が噛んでいた土を払い落とすが、根の握力が旺盛でなかなか払い落とせない。これで時間がかかる。土を耕して空気を含ませて柔らかくする。そして春植えの野菜のために土作りをする。牛糞をどっさり施肥してやる。なにしろ椅子に座ったままでの仕事だから、ゆっくりゆっくりで、はかどらない。それでも、兎に角働いた。そういう充実感がしている。この年齢に成ってこういう充実感は久しぶりである。これで上気してしまって、夕食時に小さい方の缶ビールを2缶も空けてしまった。
どう考えたらいいのだろう。
九州国立博物館に大涅槃図展を見に行った。20点ほどの掛け軸が懸けてあった。これを丁寧に見て回った。二番目の軸のところまで動いてきてそこで熱いものがこみ上げてきた。涙を覚えた。お釈迦様が入滅をされようとしている。そこへお弟子たちが次々と集まって来ている。鳥も獣も集まって来ている。神々も犇めいておられる。アナン尊者は悲しみの余り卒倒して気を失ってしまわれた。長老の一人が水をかけて尊者を抱き起こそうとされてもいる。お釈迦様は右の手を手枕にして見回しておられる図もあるし、手を胴体に添わせて穏やかなお顔で涅槃に入ってしまわれた図もある。さぶろうもこの場に居合わせていた、そういう感触が蘇ってくるのだ。これをどう考えたらいいのだろう。若い頃に、佐賀の市民会館に「さとうのぶひろ」という人が講演に来られたことがあった。彼は講演をしている壇上から聴衆を見回して、そのうちの何人かを壇上に上げられて、「あなたはお釈迦様のサンガの比丘であったことがある」と言ってその頃のインドの言語、パーリ語で語りかけられた。壇上に上がった人もパーリ語で応じた。そして感極まって泣き出した。さぶろうはその時その会場の後部座席に座っていたが、さぶろうが名指しになるのではないかとビクビクしたことがあった。それを思い出した。さぶろうは50歳の時にお釈迦様の説法の地、インドの鷲霊山(りょうじゅせん)に登った。夜明け方だった。山頂に壇が設けられていた。灯火が揺れていた。
さぶろうはもしかして数千年前にインドに生まれてお釈迦様の説法を聞き導師尊師と仰ぎ従ったことがあったかもしれない。それを現在に引き戻して来てその時の感慨に耽っているのかもしれない。そんなふうにも考えてきた。そうではないかもしれないが、そうであればよかろうと希望したのかもしれない。あいまいであるが、涙を胸のところで感じながら、さぶろうはお釈迦様への思慕がいよいよに募った。
さうろうはドケチである。捨てられない。プランターに成育しているさまざまな野菜類を抜いて収穫しているのだが、わずか10cmにも満たない小さな葉ものまで丁寧に取り上げて籠に満たしていく。これが籠に何杯にもなる。我が家でだけではとうてい食べきれない。余所へ持っていってお分けする。食べてもらうことで安堵する。命を粗末にしなかったことへの安堵が生まれる。こちらはそうなのだが、持参した先では、「こんな小さなものなんか食べられるか」と腹を立てておられるかもしれない。できるだけ、大きなもの、完成品を余所様にお分けして小さいものは我が家で食べることにしているのだが、それでも処理できないのである。そう、さぶろうはドケチである。自分が愛情をかけて育てた野菜の、一片すらも捨てられない。
この世の中にあの世があるのなら、ことあらためて、あの世を期待することはないではないか。先の世も前の世もこの現在軸に凝縮されて共存しているのなら、外の何処かに場所を移しての生の連続をほしがらずにすむことになる。「ここ・いま」の現在を精一杯生きていればいいことになる。地獄だ、極楽だというのを延長線上に置かなくともいいことになる。前の世も先の世もゴムのように引き延ばされて、遠い海外にでも移住している向きが見えるけれども、引き戻せばこの一点に収縮・収束することが可能である。大観すれば、どの世も現世なのではないか、さぶろうは今日はこんなことを考えている。先に行ってから幸福になろう安らごうではなくて、行った先々で狼狽えないで、いま・ここを幸福になって安らいでいる方が手っ取り早く且つ賢明である。
肉体は物質世界で存在している。ということは物質世界でのあり方が肉体の暮らしぶりということである。非物質世界に軸足を置くとそこでは非物質体・スピリチュアル・ボデイが暮らしを立てていく。われわれはそれをともすれば二面体で捉えることがあるが、しかし、その実は一面体の出来事なのではないか。そう思ったのである。物質界も非物質界も「ここ・今」を離れることなしに同時転回をしている。そういう図を描いてみたのである。それが寂滅為楽の涅槃図のように思えてきたのである。
おはようございます。今朝も霜が降りています。寒いです。巷間では風邪が流行しているようです。お気を付けください。
読むということ、聞くということは外に現れ出ているものを自分の内側に取り込むこと。書くということ、発言するということは、その逆方向で、自分の内側にあるものを外に出して見せるということ、らしい。読んでいた雑誌にそんな記事があった。
つまりエネルギーの入力作用と出力作用だ。入ったり出たりしている。呼吸にも似ている。吸って吐く。吐いて吸う。口で食べて肛門、尿門で排出する。排出して自然界に返却し、自然界のいのちをまた食べる。目で食べ、口で食べ、耳で食べ、皮膚でも食べ、頭脳で情報や智慧を食べる。くつろいだハートでよろこびや安らぎを食べる。
出入りするところに口や門がついている。ここが境界、バウンダリーになっている。内と外を分けている。宇宙界のエネルギーであるプラーナは、目には見えていないが、人間のチャクラという7つの門から出入りする。これは地球という体にもついている。活力を内側に取り込んだり、取り込んだ物を材料にしてこれを加工して外側に放出もしている。互の共同フィールドという市場のようなところがあって、放出された活力は、互の必要に応じて、ここで取引されることになる。もちろん無料だ。
国には国境線が引いてある。でもこれは取り決めているだけで実際に境目があるわけではない。わたしとあなたとの境目もある。互いに境目としての肉体を保持しているが、さまざまな方法で互を取り入れたり取り込んだりしている。肉体は物質だからこのように相違を強調しているが、次なる幽体(アストラル体)が主役を務めるようになると、この強調が崩れてくる。境目が希薄になる。愛情の流入がかなり自由になる。わたしを主張しなくてするからだ。幽体のさらに発達したシステム体では、わたしという国境がどこにも見当たらなくなっている。つまり、取り込んだり取り出しタリの面倒がなくなっている。
・・・ふふ、ふふふ、ふ。こんなところへ来ちゃった。頭の回路が支流をこしらえてここへ迷い込んでしまったらしい。