とろりとろり眠たい。至福の時だ。ざっくりくつろいで身心が安らぐ。お昼はモヤシたっぷりのチャンポンを食べた。お腹がふくらんだ。読書を楽しもうとするのだが、もう目が文字を追えなくなった。
日が翳るといきなり寒くなった。太陽神の功徳たるや、なるほど甚大である。これから炬燵の中であたたまって座ったままの姿勢で昼寝をしよう。
午前中はぽかぽかの陽気に誘われて外へ出て、草取りをして過ぎた。庭も畑も花壇もプランターも、これもまた陽気につられてみるみるうちに草に覆われて行く。数週間数ヶ月かけて草取りをしながら家の周りを一周するとまた始まりの地点が草に覆われてしまう。これじゃ、ぐるぐる回りだ。
抜いた草を木の根株のところに運んで行って積み上げる。これが数ヶ月後に腐って有機培養土に戻る。これを堆肥にしてまた畑に戻す。農作業をして遊んでいるのか遊ばれているのか分からなくなる。収入を得ようとするのではない。あくまで退屈凌ぎのキルタイムである。
テイッシュでチーンチーンと鼻水を絞り出すので、さぶろの鼻と唇の間の皮膚がひりひりひりひりし始めました。それでもなお鼻水は垂れてきます。クシュンクシュン、ブズカズカ、チーンチンの繰り返しです。お日様の光はベランダの濡れ縁に列んでいる春の草花たちに降り注いでいます。彼ら、彼女らは鼻水なんか垂れませんので、ただただあたたまって愉快にしているきりでした。春一番だか二番だかがときおりヒューヒューと吹いては笹藪を過ぎて行きました。
「おや、たったのそれだけかい?」とラクシュミーがにこにこして言いました。「所有するというのは自己制限をするってことだよ」彼はこう付け加えました。「無制限にあるもの、それを制限してしまうということなんだよ。制限の中ではいびつになってしまうんだ」これはその説明でした。無制限にあるということを理解していない者が所有を主張することになるけれど、彼は所有すると言うことでそのほんの一部で満足をしてしまうことになるから、結果的には貧しくなるというのでした。「たったのそれだけかい」とラシュミーが言ったのは所有を主張する者の貧しさを戒めた発言でした。宇宙全体はもっともっともっと裕福だ、ゆたかだ。この野原もやっぱり宇宙なんだから、線引きをして制限なんかするところではないというのでした。山鳥のカッチョは、それでも縄張り内に入ってきた小鳥たちを威嚇しました。「ここは俺様のものだぞ」「おまえたちはこの縄張りの中の蜜柑を吸ってはならない」こう言って羽根をわずかに広げてそれを奇妙にぶるぶる振るわせました。所有の欲を起こすとどうしても小さくぎこちなく歪んでしまい、それを振り払おうとして威たけだけになってしまう、カッチョの事例はその具体的事例になりました。自己所有の貧しい状況ははこんなふうに野原までまかり通っています。これはさぶろうをはじめとする人間の社会だけのことではないようでした。
夢を夢の中でコントロールできるようになっている。そんな気がしている。この頃の変化だ。その場面はどうも気に入らないなというところへ来るとそれをひょいと一跨ぎ跨いでしまう。夢はすると次のページに捲られていて、ストーリーが新しくなるようなのだ。さぶろうは自分でもおやっと思う。さぶろうに新種の能力が加わったのだ。夢の中で夢の操作ができるようになっている自分を眺めている自分がいるのだ。