280円の牛糞肥料を8袋買ってきてこれを畑にばらまいた。といっても牛糞の形はまったくない。有機肥料培養土になって、ふかふかしている。乾燥をしているというものの、しかし、やはり臭い臭い臭い。こうして土を肥やしておくと夏野菜の茄子、トマト、胡瓜、オクラの出来がすこぶるよくなる。農作業は三歳児さぶろうの遊戯である。これに相手をしてもらうとさぶろうの孤独の寂寥が慰撫される。作業の間中はなんにも考えないでよくなる。この功徳は計り知れない。
働いた働いた。てったって、これは年寄りのさぶろうがそんなふうに裁量をしただけ。なんのことはない。ただ草取りを辛抱してした、それだけのことだ。今日は南側の庭の草取り。ふっふっふ。さぶろうがたまたま繰り広げる座禅よりはよほど深い集中ができた。日が落ちて暗くなるまで我を忘れてこれに従事した。黙々黙々。好きだねえさぶろうは、としか言いようがない。最後に松葉箒で掃き清めて終了した。
お天気になってきましたのでお昼時まで玉葱畑の草取りをしました。玉葱にどっさり肥料をしておきましたので、周辺の草までがまるまる太っています。冬の草は根が張っています。抜き取るのに一苦労しました。指先が疲れます。まだするべき仕事の20分の1くらいしかやっていません。野良仕事は遅遅として進みません。見た目以上にたいへんです。これで収入があるわけではありません。でも、年寄りの健康維持には役立っているようです。
金柑の実をちぎりました。脚立に上って太い枝ごとごーりんごーりんとノコギリで切って、落とした地上で実を摘みました。籠に三杯半もありました。どしりとした重さです。枝さんは重かっただろうなあと感心しました。実をつけてから実を太らせるまでの長期間をよくぞまあ持ちこたえたと思いました。台風で薙ぎ倒されてしまって、大きな根っこが地上に浮き上がってしまいました。それでも持ちこたえて黄金の実をたわわにつけました。今年の実はそれに大きいんですよ。植物は、じっと怺えてものをも言いませんが、それにしても忍耐力があるんだなあ。もう大丈夫です。軽くなりました。あんまりざっくり切りすぎたかもしれません。ここ数年もう実らないかもしれません。
空はどんよりとしている。冴え冴えしていない。雨が降り出してくるのかもしれない。さぶろうは炬燵から出られないでいる。外に出しているのは指だけだが、長くはそうしていられない。長くなると冷たい氷の温度になっている。
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「令諸衆生功徳成就(りょうしゅじょうくどくじょうじゅ)」 これはどういうことだろうか。さぶろうは今日はここを考えている。
<諸々の衆生をして(阿弥陀仏の)功徳成就をせしむ>と読める。功徳を成就するのは衆生ではない。自己救済を完成させるのはさぶろうの自力のはからいによるものではない。阿弥陀仏がさぶろうに成り代わってこれをなさるのである。これが阿弥陀仏の功徳のなさしめる働きである。
するとどうなるか。<煩悩を断ぜずして涅槃を得る>ことになり、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位に住するのだ。さぶろうはこれでは濡れ手に粟というところで、ちょっと虫がよすぎる話だ。
さぶろうは百欲千欲する煩悩の火の燃え盛る身である。どんなに地団駄を踏んでもとても寂静涅槃(安定した正しい智慧=仏智の悟り)を得るところに達し得ようがない。そこを疾うに見据えておられているのが阿弥陀如来だ。「これぞ仏陀。さすが仏陀、よくぞ仏陀」と嘆息する。
しかし、さて、この功徳成就はいつの話だろうか。今現在は、煩悩まみれ垢まみれであるから、とてもこの清らかで安らかな段階にはいない。ずううっと先の話のようである。まあ、だから、予約をしたようなものだ。しかし、先の話だが、ここで決定しておくと正定聚不退の位は揺るがない。だから、安心をしていられるという利点がある。だからこれはいいこと尽くめである。
真宗門徒は阿弥陀如来の誓われた本願を目当てにしている。だから本願他力の門徒である。念仏は仏を念じて仏の本願に頼り切っているという自己表明である。これがないと退いてばかりということになる。念仏を称えてこの退きを防いでいるのだ。
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と、ここまで考えた。十分ではない。結論が出ない。「令」は「せしめてくださる」という使役語である。<せしめてくださる>のは仏陀であり宇宙の愛と光のエネルギーである。その目当ての対象者はさぶろうである。この両者の相関関係はしかしすべてに亘っているのである。生死する間のすべての営みがこの両者に関わっているのである。死んだ先の話だけではなかったのである。
おはようさん。声を聞くのは耳だよね。耳は声の入り口。聞いているのはもっと体の奥深いところかもしれない。耳は興奮して赤くなるなんてことはない。(あるのかなあ? あるのかもしれない)それよりも頬が声に反応して桜の花の色に染めてくる。足が浮いてきてあなたのところへ歩き出してしまう。ブレーキが破損したみたいにずるずるずる。
音はどうだろう。音を聞くのもやっぱり耳なんだろうか。耳以外の皮膚でも聞けるような気がする。声も音も波長振動である。人が耳で聞き取れない声や音というのもありそうに思える。余りにも高周波だったり低周波だったりして。声は喉が出している。喉に指令を出すのは脳だろうか、スピリットだろうか。
陽気な春が近づいて来た。人間のこころはなにがしかの発信装置をつけているから、当然受信装置も兼ね備えているはずだ。これは弱電気だろう。白梅紅梅の前に立つとそわそわしてくる。桃の花の下に来ると浮き足立ってくる。桜の花に迎えられると上気してくる。好きな人の前に立つとこの弱電気がすぐさま立ち上がる。春は忙しい忙しい。発信したり受信したりの頻度が数段も高くなる。
白梅のようなる声を出したがる二月のわたしはやさしいわたし
これはさぶろうの歌ではない。投稿欄でこんな名歌を聞いた。白梅も声を立てる。これを人間が聞く。聞ける人って少ないよね、でも。それにしても、白梅の声ってどんな声音なんだろう? 兎も角聞く人をいい気持ちにさせるのだろう。同じようなこころよい波長の音声を今度は第五のチャクラがある喉(のみど)が出してくる。あっはっはとか、おっほっほとか、うっふんうっふんとかなんとか。二月は誰もがみなやさしいわたしになりたがるようだ。