「三宝礼」 日蓮宗経典より
一心敬礼十方一切常住仏 (いっしんきょうらいじっぽういっさいじょうじゅう ふ)
一心敬礼十方一切常住法 (いっしんきょうらいじっぽういっさいじょうじゅうほう)
一心敬礼十方一切常住僧 (いっしんきょうらいじっぽういっさいじょうじゅうそう)
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わたしたちは(わたしたちを導くために)十方にまします永遠常住のすべての仏を一心に敬い礼拝いたします。
わたしたちは(わたしたちを導くために)十方に広がる永遠常住のすべての仏の教えと教えが働いている仏界・宇宙全体を一心に敬い礼拝いたします。
わたしたちは(わたしたちを導くために)十方に働く永遠常住のすべての仏とその教えを信じて行動する人たちを一心に敬い礼拝いたします。
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仏を信じる者は仏の教えを信じる者でなければならない。仏を信じ仏の教えを信じる者は、それらに基づいて行動をしている仏法の集団(サンガ)を信じる者でなければならない。三位は一体である。
仏はわたしたち衆生あっての仏である。仏の教えはわたしたち衆生があってこその仏の教えである。わたしたち衆生が仏と仏の教えの中心である。ゆえに、仏を信じる者は仏を信じるわれわれ衆生を信じる者でなければならない。われわれ衆生は仏の教えを受けながらやがてわれわれ自身もまた仏と成っていくからである。
仏は十方にましまして永遠常住である。ならば、仏の教えもまた十方に広がって永遠常住である。そしてこれを信じるわれわれ衆生もまた十方にあって行動を起こし永遠常住である。われわれが存在しなければ、仏も、仏の教えも存在しないからである。
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さぶろうは永遠常住である。さぶろうは十方に広がって行動を起こし永遠常住している。さぶろうが永遠常住でないならば、仏も、仏の教えも永遠常住ではありえなくなってしまうのだ。さぶろうと仏と仏の教えは一心であって同体である。・・・さぶろうは今日昼つかたにこんな結論に辿り着いた。ここで大きな安心を得た。仏と切り離せない存在のさぶろうは、その本体は、仏と同程度の存在価値を有していて、限りなく尊く神聖な、完全なる存在である。
無論、これはさぶろう一人のことではない。生きとし生ける者のすべてに当て嵌まることである。故に互は蔑むようであってはならない。互は争うようであってはならない。互は憎しみ合うようであってはならない。互は一心に敬い礼拝してよく、されてよいはずである。三宝はともに宝物である。