<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

よろこびの国にいながら

2015年02月08日 10時48分26秒 | Weblog

この国の朝はよろこびから始まります。ここがここにいる者の歩みの第一歩です。さぶろうは、しかし、よろこんでいません。何をよろこんでいいのかさえも分からないでいます。この国にいることは確かなのです。向上のすべてがよろこびから始まるというのに、彼はそこにも到達していないのです。彼は向上からも成長からも置き去りにされているようで、むしろ悲しく淋しいのです。足下には、地面すれすれの5cmほどの高さでタンポポが咲いています。風に吹かれながら黄金を咲かせています。

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第一段階にも達していない

2015年02月08日 10時19分49秒 | Weblog

華厳経の経典によれば、金剛蔵菩薩は菩薩の智慧の境地(智地)が十種類十段階があると説きます。

第一段階:歓喜地。歓喜するという境地にいる智慧の位。

第二段階:離垢地(りくじ)。離垢するという境地にいる智慧の位。

第三段階:明地(みょうじ)。明るくものを見て明るくなる境地にいる智慧の位。

・・・・

第八段階:不動地。不動になって揺るがなくなる境地にいる智慧の位。

第九段階:善慧地(ぜんねじ)。善慧に住している境地にいる智慧の位。

第十段階:法雲地(ほううんじ)。仏法の真理の雲になっている境地の智慧の位。

さぶろうは歓喜が菩薩の修行段階の第一段階であることに驚きを隠せません。なぜなら彼はまだここにも達していないからです。彼は茫然となりました。

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裁きを耽溺している者の顔

2015年02月08日 10時08分52秒 | Weblog

「顔」

一つ、好んで暗い顔をするべからず。顔を暗くして己を卑しむべからず。よいか、さぶろう。

はい。暗い顔を好まぬようにいたします。

一つ、好んで不安の顔をするべからず。顔に不安を宿させて一日を終わるべからず。よいか、さぶろう。

はい。不安の顔を好まぬようにいたします。


一つ、好んで恐い顔をするべからず。恐い顔を装って人に会うべからず。よいかさぶろう。

はい。恐い顔を好まぬように致します。

一つ、好んで重々しい顔を先に立てて行動実践を危ぶむべからず。よいか、さぶろう。

はい。重々しい顔を好まぬようにいたします。

一つ、好んで裁く者、知恵者、道を修めた者、上善人と見ゆる顔を作るべからず。よいか、さぶろう。

傲岸なさぶろうは、はいを言わなかった。代わりに彼は暗い、不安な、恐い淋しい顔になった。彼は裁きを耽溺していたからである。これですべての約束がフイになった。

朝の光を受けた雲の、明るい顔は、静かに山上を離れて去って行った。

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葉書の木 タラヨウ

2015年02月08日 10時03分43秒 | Weblog

「タラヨウ 葉書の木」

東京中央郵便局の前に
「郵便局の木」が立っています
タラヨウという木です
多羅葉と書きます
日本では字書き柴とも呼ばれます
これはニシキギ目モチノキ科
モチノキ属です  葉は細長です
裏葉に傷を入れて文字が書けます
これは実際に葉書として使えます
戦国時代に武士たちは
これで情報の遣り取りをしました
経文や占い八卦も書けるので
神社仏閣にも植樹されています
これをわたしは
元旦のお詣りに来て拾いました
大事に持ち帰り恋文を刻みました
ユリコサン
ワタシハアナタヲアイシテイマス
この葉書を所持しているだけで
以来わたしはわくわくしています
架空の人ですがかまいません
誰かを愛していること是は人類が
生きている証なのかもしれません
案外彼女は何処かに実在していて
恋文を待っていそうにも思えます
タラヨウは人類愛の証の木です

 

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天満宮の梅園を歩く

2015年02月08日 09時54分13秒 | Weblog

寒風吹き渡る中、太宰府天満宮の梅園を歩きました。障害者用の黒い杖をつきつつ、ゆっくりゆっくり。開花している紅梅がありました。宮殿前の白梅ももう見頃を迎えていました。ふくらんだ蕾が宇宙の蕾のように見えました。境内の中にある茶店に入って池が見渡せる席に陣取って梅ヶ枝餅を頬張りました。餡子が丁度いい甘さでした。

 

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最高のわたし

2015年02月08日 09時27分27秒 | Weblog

YouTubeでアントン・ドヴォージャークのチェロ・コンサートを聴いています。うっとりしています。昨夜、寝るまで聴いていましたが、もう一度また聴いています。演奏者は外国の男性です。音楽の基礎知識もないさぶろうですが、なにはともあれこれで気持ちがよくなります。ほかにも価値あることなんてたくさんあるでしょうが、そんなことには目もくれずにいられます。ふんわりふんわりさぶろうは蝶々になって飛び回ります。

これも同じくYouTubeなのですが、アファーメイションで「わたしは最高のわたしになれます」というのがありました。なれるのなら、なってみたいです、いますぐにこの場で。後延ばしをせずに。いまここで<最高のわたし>になっているっていいですよね。何をしているからこうなるというのではなくて、今ここにいるわたしがまさしく「最高のわたし」だっていう具合に。直感を鵜呑みにして。最高のわたしをわが内に意識してそこにひたっている。何が最高なのか、そんな詮索は放擲しておいて。

濡れ縁の白のアネモネもこうしているようです。今が最高のわたしを生きているようです。花弁の先端はすでに黄ばみが浸透しているけれども、まったくお構いなしという顔をしています。理屈抜き変身。無条件変装。それになりきる。最高のわたしにさっと変化(へんげ)してしまう。さぶろうもドヴォルザークを聴きながらこれに同調同化します。イミテーション・ゴールドだっていいんじゃない。

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