<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

皮膚の乾燥性湿疹

2015年02月11日 19時49分27秒 | Weblog

このところ乾燥性湿疹に悩まされています。痒いんです。ごりごりがりがり掻きむしるので、右脚の脹ら脛の外側と左手の臂の周囲一帯が赤くなっています。もちろん、お風呂上がりにたっぷり塗り薬を塗りつけています。いまのところ、さぶろうの孤独を慰めているのはこの乾燥性湿疹です。しょっちゅう、指の爪が相手をしていなければすみません。

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夕食後のこの上機嫌

2015年02月11日 19時35分28秒 | Weblog

夕食が済んで、(熱燗の日本酒を飲んで)、それからYouTubeでいつものようにクラシックを聴いています。上機嫌です。今夜はベートーベンの名曲集です。うっふっふ、いっひっひです。ほかに何もいりません。いっしょに聴いてくれる人もいりません。好きなだけ聴いてあとは寝るだけです。つまりませんか、これじゃ? あ、ヘッドフォンを新しく買い換えたんです。夕方、パナソニックのを買って来ました。えっ、昼間は働いたんですよ、これでも。寒い中で、めげないで。細かい仕事を入念にしました。ホウレン草を引いたんです。これがとっても小さくて、掘り上げて揃えて水洗いをして食べられる段階まで調えるのに骨が折れました。100人中99人が捨ててしまうような小さなものまで捨てないで大事に取り扱いました。人が見たらドケチにしか映らないでしょうが、さぶろうにはいのちの大切さが優先でした。

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なんにでもなれるサマーデイー

2015年02月11日 14時49分58秒 | Weblog

現一切色身三昧(げんいっさいしきしんさんまい)という三昧がある。さぶろうにあるというのではない。さぶろうにはない。菩薩の段階にまで昇って来るとこの三昧の能力が身につく。この現一切色身三昧というのは、まあ言ってみれば、どんな姿にもなれる魔法だ。利他行、つまり他者の救済事業にしか使えないから、われわれがお金持ちになりたいなどといった我欲のためには行使できない。

三昧:「さんまい」「ざんまい」 梵語の<samadhi(サマーデイー)>の訳語。「三摩地」「定」「正定」「等持」「寂静」などという訳語がある。心が安定して統一された状態。一つの目的のために心が乱れずに専念できる境地。揺れないぶれない。念仏三昧などの熟語がある。仏さまの段階にまで駆け上がると、ますますさまざまな三昧が付加されてくる。(そこまで行かなくとも、仏さまの教えを聞いた人たちにもそれ相応の小三昧が与えられることもあるらしい。幾つかの経典の最後にその小三昧を得た仏弟子たちがにこにこ顔をして帰って行く様子が書かれている。嬉しくて有頂天になるというのもこの小三昧の一種か)

でも、さぶろうにもし今この三昧の能力が身についたら、(身につくことはないけどね)一番に悪事をしてしまいそうだ。まず、「おれは偉いぞ~」「こんなこともできるんだぞ~」をしてみせるだろうなあ。人に尊敬心を煽り立てていい気になるだろうなあ。もっとエゲツなことをするかもしれない。美男子を装って現れ出て女の人をたぶらかすかもしれない。だから、さぶろうにはまだまだまだまだ長期間お預けだな。

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仏界からさぶろうへの熱々のラブレターを読む

2015年02月11日 13時40分17秒 | Weblog

妙吉祥菩薩は是れ三世の覚母(かくも)なり。故(かるがゆえ)に文殊師利と名(づ)く。衆生を度せんが為に菩薩の身を現じ、戒、定(じょう)、慧(え)、解脱、解脱知見を成就して、能(よ)く諸々の陀羅尼門に通達せり。其の心禅寂にして常に三昧(さんまい)に住し、衆魔を降伏して正見に入れ、大智慧を得しむるに障礙あることなし。能く衆生に随って大法輪を転じ、解脱の風を吹かせて衆生の熱悩を除く。大法の雨を降らせて衆生の心地に注ぎ、善根の種を殖(う)えしめ、亦た能く秘密の蔵(ぞう)を具足せしむ。其の心自在にして或いは多身を現じ、復(ま)た多身を合して一身と為し、衆生の願いに随って能く悉地(しっち)を与へ、宿願の薬をもって衆生の病を癒やす。    「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」(いわゆる不動尊秘密陀羅尼経)より一部掲載

さぶろうはこの経典をときどき読経している。あまり理解をしてはいない。理解は浅いのに感動を頂戴して摘(つ)まみ食いをしている。声に出して読んでいると元気がもらえる。経典に込められている仏智の知見を覗き見して嬉しがる。すべて偽装だ。ちょっとずるい。

ともかく始めから終わりまで、「わたしはさぶろの味方だよ」「どんなことがあろうとさぶろうを助けるよ」「さぶろうにも仏智見を体得させてあげるよ」というようなことがあれこれあれこれ書いてある。まあ、言ってみれば仏界からのラブレターだ。それも熱々の。さぶろうがこんな熱々のラブレターもらっていいのだろうかと戸惑うくらいだ。厚顔無恥なさぶろうは例の調子でにたりにたり、にやりにやりしているけど。

悉地:しっち。梵語では<siddhi>。「成就」を意味する。密教の修行によって成就した妙果を指す。それを<ただでくれる>と書いてある。

ここでは、続けて「自由自在に多身を現じたり、多身を合して一身となって見せたりして、われわれの願いが成就するように仕向けてくれる」とある。<多身を現じる>とは、その人に合わせていろいろな存在、神の姿になったり、仏の姿になったり、人間になったり、美女美男になったり、虫鳥魚獣になったり、山になったり川になったりして、現れてくれるというのだ。一身とは妙吉祥菩薩の本体か。もっと遡って大日如来の本体か。(菩薩や大日如来が見えない人もいるからね、そういう人には見えるもので代用をするんだろうか)

陀羅尼:梵語の<dharani> 「総持」「能持」「真言」「呪」「密呪」「明呪」とも訳される。仏さまが仏さまの世界で通用している言語だから、人間にとっては秘密語ともなる。人間語に訳しようがないから通常はその音をそのままにして音訳されている。<陀羅尼門に通達している>というのだから、この菩薩は仏界と人間界の間の通訳ができるということだろう。それで盛んに彼はこの経典を編んで仏の智慧、仏の大悲を語って聞かせているのである。さぶろうはそれでも合点がいかないからふむふむふむふむくらいで終わっているけれど。

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目白にとって彼は守護神

2015年02月11日 13時22分40秒 | Weblog

「さぶろうんちの庭に行くとたっぷり蜜柑にありつけるぞ」「しかも新鮮なのが毎日な」 この頃、山の目白たちの間でこんな評判が立っている。評判を聞きつけて次々にうつりかわりにやって来る。日のいちんちやって来る。さぶろうの庭のあちこちに梅の木がある。そこの小枝に半分に割った蜜柑を挿してある。山から下りて来るのは、しかし、目白だけではない。ヒヨドリも負けてはいない。次々に是も押し寄せてくる。この冬、百舌鳥はどうしたことか姿を見せない。さぶろうは近くで椅子に座って草取りをしている。こうするとヒヨドリは近くに寄ってこない。だから目白銀座になる。目白はさぶろうをちっとも恐がらない。むしろ守護神だと思っているふしがある。2m以内にもやって来る。「さぶろうがいるから大丈夫だ。ヒヨドリに追いかけられることはないぞ」と言い合って、ちょくちょくこちらへ熱い視線を送る。ヒヨドリはさぶろうが邪魔だ。目白を優先させてかかる。さぶろうも、目白たちと目を合わせても、恐い表情をしないように努めている。蜜柑見張り番は、人間社会に入っていけないさぶろうにもできる仕事である。

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ヨーグルト漬けの干し柿

2015年02月11日 13時14分44秒 | Weblog

ベランダに吊している干し柿が水分が干し上がってすっかり堅くなってしまった。かちかちで、うっかりすると口の中が怪我をしそうである。この堅くなった干し柿をおいしく食べる方法が見付かった。飲むヨーグルトにたっぷりたっぷり浸して食べるのである。それも事前に包丁で薄切りにしておくと簡単に溶けてやわらかくなる。切れ切れで元の形はない。まるごと一個もわけはない。食後のデザートの贅沢な食べ方である。

 

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大宇宙の愛情がわたしに満ちた

2015年02月11日 11時59分35秒 | Weblog

わたしをこうしたのはわたしの力だけに負っているのではない。わたしをこうしたのは大宇宙の愛情である。金柑の丸い黄金はそれを知っているのだ。それで、山鳥が来て啄んでいっても争ったりはしないのだ。拒否のノーではなく承諾のイエスに順応していられる、これには秘密がありそうだ。大宇宙の愛情がわたしに満ちたということ、これをむしろよろこんでいられるのだ。ふしぎだ。これで居ながらにして宇宙全体の調和が体得できる仕組みなのだ。金柑の木が大きくふくらんで日の光を浴びながらきらりきらりしている。

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双方が嬉しそうだ

2015年02月11日 11時48分56秒 | Weblog

庭の金柑が黄金色を赫かせてきた。そろそろ収獲のときを迎えている。まん丸い実がたわわに実っている。山の小鳥たちが次々に山を下りてきてこれを啄んでいる。金柑も山の小鳥たちも双方が嬉しそうだ。提供する側もされる側も、その利益の分配率を巡って敵味方に分かれたりはしない。彼らは知恵者である。ことあらためて知恵者を装うこともしない。そこもまたいい。さぶろうは今日はうっとりして庭を眺めている。でも寒い。金柑の木の下へ行って脚立を立てて、はち切れた黄金生命をもぐには、やや寒すぎている。

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他者を従えることをしない

2015年02月11日 11時28分53秒 | Weblog

誰もが争わないでも空気を吸っていける。空気を独り占めにしたいと思う者はいないだろう。「おれは力があるから1000人分の空気を吸うことにした。よって力のない残りの1000人はそれぞれいままでの1000分の1の空気を吸え」というふうに威張った者は過去にも現在にもいない。十分な量の空気があるからである。

誰もが争わないで光を浴びていられる。光を独り占めにしたいと思う者はいないだろう。十分な光はあるのである。誰もが争わないで青い空を眺めていられる。青い空はどこにでも広がっているからである。

ところが富はそうではない。世界人口の1%の有力者が「おれは力があるから地球人の99%の富を独り占めにする」と言い張って後へ引かない。権威、権力、権勢、名誉、国家支配もこれをする。多ければ多いほど欲望が満足させられると言い張って後へ引かない。

だが、春の野原のタンポポはこうではない。富も権威も持たない。それでも美しくしている。名誉も支配もたずさえない。それでも春風にそよそよ吹かれながら自己と宇宙を楽しんでいられる。野原に置かれたものたちは自在の価値を熟知しているので、他者を従えることをしない。

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人類全体の課題として

2015年02月11日 10時57分42秒 | Weblog

欲望は欲望を肥大化させる。富者は富むことでますます富の欲望に蹂躙される。支配はさらに強い支配欲を促す。

「吾は唯 足ることを知る」者である。与えられている範囲で楽しみを見いだして行く者である。仏教の考え方は平和主義である。他の物をわたしの物としないで生きる主義である。

この故に滅びたのだという説もある。強い国が弱い国を奪う戦争主義が横行する時代にあって、この仏教的平和主義では国を守れなかったという説である。過去の歴史ではその通りかも知れない。

しかし、それでも、戦争主義が正しいということではない。平和主義が間違っていたということではない。「国家の繁栄は戦争が勝ち得た代価だ」と勝ち誇る者がいるが、手前勝手な勝者の理論である。

「家族と家族の財産を守る」「国民と国民の財産を守る」「国家と国家の平和を守る」ことを錦の御旗に掲げて行進すれば、異議を唱えることはできない。これに逆らう者は反逆罪に問われることになる。逆らっては、地域社会にも暮らしてはいけないように仕組まれて、シーソーは一気に傾いていく。

これまでずっとこの正義標榜偽装者たちが世界の各地で戦争を起こしてきたし、いまもこの正義標榜偽装の戦争は続いている。

人間の意識がもっと向上をしていかねばならないはずである。この戦争賛美の意識から次の意識へ、争わないで生きていける高度な意識の段階へスライドしていくべきである。地球上を戦争の禍根で破壊し尽くしていく前に、人類全体の課題として共存共栄の平和を希求していくべきではないか。さぶろうは、そんなことを考えた。

 

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