先日のこと。昼間、近くに住んでおられるNさんが我が家の庭先にお顔を見せられた。ご自宅の庭で摘んだばかりの八朔蜜柑(?)をビニール袋いっぱいに携えて。2mの仁王様に久しぶりでお会いした。体格のいいこの仁王様の表情はいつ見ても柔和だ。おやさしい。今日はことさら顔艶もいい。「梅が開きました。花見ていっぱいをしませんか」とお誘いをしたくなった。この仁王様とは気兼ねなく(相手が気兼ねなさるなら別だが)杯を交わせそうに思うのだが。
いやあ、平和だなあ。さぶろうは、モーツアルトのピアノソナタをかれこれ数時間ヘッドフォーンで聞きながら、3時のおやつだ。紅茶をいれてもらって、長崎カステーラを一切れぱくりと頬張った。さ、これから出掛けよう。気分転換をするには靴を履いて外に出るのがいい。小雨も降っていない。
「宝塔偈」もしくは「難持偈」 法華経「見宝塔品第十一」偈より
此経難持 (しきょうなんじ 此の経は持(たも)ち難し)
若暫持者 (にゃくざんじしゃ 若(も)し暫くも持(たも)つ者あらば)
我即歓喜 (がそくかんぎ 我は即ち歓喜せん)
諸仏亦然 (しょぶつやくぜん 諸仏も亦然(しか)ならん)
*
法華経は(究極の真理、進むべき正しい道を宣べた教えであるから)此を聞いて信じ実践することは難しいのであるが、この苦界にあって生死する暫くの間でもそうする者が出現してこの道を進んでいるので、此の経を説いたわたし釈迦牟尼仏はもう嬉しくて感動に打ち震えるばかりである。いやいやわたしだけではない。ご覧なさい。ありとあらゆる仏たちがこの人たちを見てあのように喜び合っているではないか。
*
またしても仏陀世尊が歓喜をされている場面である。説法をされたお釈迦様ばかりではなく大宇宙に犇めいておられる諸仏たちまでもがこれに加わっておられるのである。この場面をさぶろうは想起するのだ。これでにやにやができるのだ。
仏陀が歓喜する様(ほっぺたには靨なんかがあるのかしらん?)や諸仏の歓喜の輪(わいわいがやがやして拍手喝采されるのだろうか?)をイメージするのだ。これで笑いがこみ上げてにやにやするのだ。ただし、さぶろうは枠外だ、埒外だ。いいだろうな、それだできたらいいだろうなといった感情的な皮相の受け取りだけで、いっこうに実践をしていないからだ。
その場からちょっと離れたところにいて仏界のスペクタクルなシーンを恐る恐る見守っていると、声がかかる。「さぶろう、あなたもこっちへいらっしゃいよ」と手招いている数十人数百人の満面笑みをした仏さま方。これを目にし耳にしたさぶろうはそこでばったり失神してしまう。
*
これは事実? フィクション? 作り話? あり得ないこと? 絵空事? 子供だまし? ほんとうにあり得ていること? この目で見えること? 実態があって形に触れられる? 実際に声が聞こえる? 仏陀の歓喜の笑みが感じられるもの? イエス? ノー? どっち? 銅像木像の仏陀ではなくて生きて活動をされている仏陀に会えるの? 仏陀って仏教独特? ほかには名前はないの? そこにはキリスト、マホメットはいないの? 守護天使、光と愛の天使、エンジェルはいないの? 日本の神々、守護神はいないの? ・・・などなどいろんなことをさぶろうは考えて遊んでいる。
結論を急ぐと、さぶろうはこれをフィクションだとは思っていないようなのである。ほんとうだと思っているようなのである。ほんとうにほんとうの仏陀やキリストや守護天使、愛と光の天使などといった次元の数等高い存在たちに会えることを楽しみにしているふうなのである。「ほんとうでしたねえ」「そうだったですね」「まちがっていなかったですねえ」などと言って目(こころの目?)を丸くしているさぶろうをもイメージできるのである。
スーパーに行って買い求めると81円なのに、どうしてなのかなあ、コンビニでは跳ね上がって125円~150円くらいする。おんなじペットボトルのお茶なのになあ。そりゃ、儲けなきゃならんからだろうなあ。というわけでさぶろうは我が家の井戸水をこれに詰めて飲んでいる。けちだ。市の水道水はカルキ臭いけど、湧き水の井戸水はおいしいんだ。
山から小鳥たちがさぶろうの庭にやって来る。お目当ては梅の枝に刺した小蜜柑である。一日に10個くらいを包丁で割る。小鳥たちが喧嘩をしないように、庭の数カ所にこれを刺す。もうお昼だ。すっかり食べられてしまって小蜜柑は皮だけになった。紅梅が日増しに紅を増して行くのが分かる。
前回の「さぶろう、嬉しいか」は妙法蓮華経の「如来神力品」の一部抜粋を、臍曲がりのさぶろうが自分流に解釈をしたものであるから、撓んだりねじれたりしているに違いない。第一、この経典は地より湧き出てきた菩薩たちに語りかけられて説法であるのに、彼は自分一人あてに説かれたものだと決め込んですまし顔で居る。ここは異論があろう。
*
さぶろうはこの妙法蓮華経は長いこと食わず嫌いで通して来た。それが40才を過ぎた頃にひょいとこの経典に出くわした。ぐいぐい牽かれた。訓読を朗読してテープに録音し、仕事の行き帰り毎日これを車の中で聞いた。それでもついに歯が立たなかった。50才でこの妙法蓮華経が説かれたとされるインドの霊鷲山(リョウジュセン)の山頂に立った。いまし夜明けだった。感慨無量だった。日本に戻ってきてそれから彼は下半身麻痺の重い病に罹りしばらく寝たきりになった。リハビリをして悪戦苦闘した。だが、暗く落ち込むこともなく此処を乗り切った。退職を余儀なくされた。周りに迷惑をかけた。家族に苦労をかけた。
さぶろうは、中途半端である。徹底がない。いい加減な性格である。乗り切った後は、ずるずるずるしているばかりだ。法華経へときどき立ち返ってくるのだが、お題目を唱えることもしない。お寺に行って説法を聞くこともない。修行を志すこともない。暇に任せていろいろな仏典を散策しては仏陀を瞑想し、ただにやにやにやしているばかりだ。これじゃあなあ。
当に知るべし 是の処は即ち是れ道場なり 諸仏は此処に於いて アノクタラサンミャクサンボダイを得たり 諸仏は此処に於いて 法輪を転じたり 諸仏は此処に於いて 般涅槃したまへり 妙法蓮華経「以要言之」最終段より
*
さぶろうよ、お前の今立っているところこそがお前のために設えられた道場である。此処を出ることはない。此処は仏陀世尊が悟りを開かれたその同じ場所である。たくさんの仏たちもまた此処に於いてこの上なき正しい悟り(=アノクタラサンミャクサンボダイ)を得られたのだ。此処に於いて説法をされたのだ。此処に於いて、肉体の身を滅して、完全な涅槃にお入りになられたのだ。さぶろうよ、お前の立っている此処はそんな場所なのだ。此処でお前が仏と成っていくための道場なのだ。申し分はなかろう。さぶろうは諸仏と同じ道場に立っているのだ。
さぶろうは、「へへへえ」と言って低頭し、絶句した。
*
語り手は仏陀世尊(お釈迦様)である。聞き手は地より涌き出て来た菩薩たちである。場所は霊鷲山の山頂であるが、此処というのはこの苦界、娑婆世界のことのようだ。この中にたしかにさぶろうも居たのだが、彼は上の空で聞いていたので、もう一度此の妙法蓮華経の説法を聞いているのだ。
何度も繰り返し述べられている「此処」とは?
1,苦界である。(さぶろう、苦しいか)
2,苦界は即ち心身鍛練の道場である。(さぶろう、お前は絶妙のいいところにいるのだぞ)
3,この上なき悟りを開くべき場所である。(さぶろう、間違ってはならないぞ。ずしんと来るさぶろう)
4,仏陀の説法を聞いて聞いて聞き通す場所である。(さぶろう、聞いているか)
5,明るく肉体を死んで行く場所である。(さぶろう、暗がるなよ)
6,ただ一つの目的、すなわち涅槃寂静(仏陀レベルの大安心)に入るために、かりそめの肉体を脱ぐ場所である。(さぶろうよ、死は遮断断絶ではないぞ)
7,活動活躍の次なる宇宙へ踊躍歓喜して新しく生まれて行く出発地点である。(さぶろう、嬉しいか)
「ありがとうありがとう」をぼそぼそぼおそぼそ唱えているさぶろう。ありがとうを唱えている間は不満や不足はそこには顔を見せない。さぶろうという意識体の宇宙がありがとうの空気で満たされる。それでことあるごとに、皺の寄った唇をすぼめすぼめ「ありがとうありがとう」を唱えている。いったいぜんたい何が有り難いのか。分かりもしないくせに唱えている。ご飯のときに、大小便の用を足しているときに、風呂で湯を浴びているときに、草取りをしているときに、寝ようとしているときに、深呼吸をするときに、山を見ているときに、空を仰いでいるときに、ぼそぼそぼそぼそぼそ。ありがとうありがとうの青苔でいのちの地表全部を覆い尽くしてしまおうという魂胆らしい。
手指が冷たい。鉛色の冬の空。雨が降ったり止んだりしている。白アネモネさんがとうとう最後の花弁を落とした。長い長い間咲き続けていた。咲き続けてさぶろうを慰撫し続けた。さぶろうはお礼を言う。もう次の弟分が茎を高く伸ばして蕾を着けている。もうすぐ開花するだろう。兄貴分が弟分に「あれで案外、淋しがり屋さんなんだから、さぶろうさんの傍についててくれよ。頼むぞ」と言い渡して、去ったのではないか。やさしい意識体のやさしい気遣いが匂う。落木の梢では冬鳥がヒーヨヒーヨと甲高く鳴いている。