<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

よそごとではない

2015年04月21日 20時26分47秒 | Weblog

こんばんは。夕食が終わりました。今夜の菜は蕗で、あっさりと煮付けてありました。わたしは芋焼酎を飲んでいい気持ちになっています。

彼の仏を何の故に阿弥陀と号するや。彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに、障礙するところなし。この故に号して阿弥陀と為す。又、彼の仏の寿命と其の人民(の寿命)も無量無辺にして、阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と号す。   「仏説阿弥陀経」より

今夜は此処を取り上げて考えてみます。

何故、阿弥陀仏と言われるのかを説いてあります。それは何故か。1,放たれている光が無量だからである。2,放たれている光が十方の国々を照らしているからである。3,仏の光が何ものにも妨げられないからである。4,仏の寿命が無量寿だからである。5,極楽浄土に往生した人の寿命が無量寿だからである。

阿弥陀仏は、サンスクリット語ではアミターバ(無量寿)とアミターユス(無量光)から成っている。だから無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれている。共通しているのは無量、つまり量りしれないということである。切断がないということである。(われわれの)思議を超えているということである。

切断がないということはどういうことであるか。永遠と言うことである。永遠に向上をしていくと言うことである。向上を目指して、止まっていないということである。時間的にも空間的にも広がりがあるということである。仏陀の本質は慈悲と智慧であるから、慈悲も智慧も無限で無制限で、しかもその上に無条件であるということである。

阿弥陀仏は観念ではない。顕現である。示現である。わたしに顕現されているのである。わたしに示現されているのである。よそごとではない。わたしが阿弥陀仏を生きているということである。光明が十方を照らしているのだ。しかも障礙なく、このわたしにも届いているのだ。光明も寿命も、わたしに届いてわたしをを無量にしているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そりゃそれでいい

2015年04月21日 13時49分34秒 | Weblog

草取りをしました。日中は暑くなりました。右手で小さな農器具を握っての作業ですので、右手がやたらと酷使されます。しばらく休憩を入れました。

庭の金木犀の成長が著しいです。新しい幹がどんどん空を目指して高くなっています。やわらかい葉が縦横に伸びて横幅もふっくらして来ました。我が世の春を謳歌するという感じです。茂みを切らないと、影が大きくなって周辺の草花が日光不足になってしまいます。切るとなると、しかし、これは大仕事、重労働です。老人の手には負えません。溜息をつきます。

老人になると、「そりゃそれでいい」という解決法を多用するようになった。つまり放置しておこうというのである。手が着かなかったら、荒れる。でも、荒れるに任せるしかないのである。よしんばその時に解決したとしても、また元に戻ることもあるからである。世の中の変化に一つ一つ付き合ってはいられなくなったのだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様とお話がしたいなあ

2015年04月21日 11時21分01秒 | Weblog

わたしは神様とお話がしたいのです。人間と話をするのが嫌いだというのではありません。ここは人間界です。神様の国に行ってからそこでお話をしても遅くはないのでしょうが、ここでいまお話がしたいのです。

秘密事項を聞きだしたいわけではありません。むしろその反対です。公になっていることでいいのです。この現実世界でのありきたりでけっこうです。その方がいいのです。神様と共通の話題であることがわたしを勇気づけます。なるほどなるほどとわたしは確信を広げていけます。

わたしは神様とお話がしたいのです。神様の情報を人より先にキャッチしたいわけではありません。日常会話の「お天気がいいですね」「お変わりありませんか」でいいのです。直接に神様とは会話ができないのであれば、エンジェルと話をするという方法もあります。エンジェルは神様の使いです。代行業務をなさいます。

で、それが実現したら? それを考えてわたしはわくわくしているようです。神様もエンジェルも光ですから、眩しくて眩しくてわたしには見えないかもしれません。その輝きそのまばゆさを向こうにしてわたしは椅子に座ります。向かい合います。わたしは光にすっぽりと包み込まれてしまいます。「おはようございます」「やあ、おはよう」話が始まります。わたしのこころの温度が徐々に徐々に上がっていきわたしの全体はぽかぽかに温まっていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしの主張が無用になる

2015年04月21日 10時35分05秒 | Weblog

成功者は口を開くと「おれはこうした、おれがそうした」と自慢話をします。したくてしようがないようです。自分の力でそうしたと強く信じているようです。聞いてみるとたしかにその人の力に由るところが大きいようです。偉いなあ、強いなあと感心します。自他共に認めていて自信に溢れています。輝いています。彼は成功者です。

わたしにはそれがないので自慢ができません。いいなあ、成功者はいいなあ、と羨みます。いじけます。いじけている自分を慰めたり励ましたりして忙しくなります。「おれがこうした、それでこうなった。おれは、おれはおれは・・・」と矢継ぎ早に「おれ」が出て来る人に出会います。迫力に押されます。わたしにはその迫力がありません。どうしてなんだろうなあ、と悲しくなります。

でもそれ以上もあります。それ以上というのは、わたしの小ささを超えているもの、わたしの無力さを補ってあまりあるもの、わたしの弱さ悲しさを払拭してくれているもの、という意味です。そういうふうにまわりを見回してみると「それ以上」がたくさん見つかります。しかもその「それ以上」は無制限で無限大に広がっています。

たとえば山があります。若葉の山があります。光を浴びて輝いています。それをわたしが見ています。元気をもらって、わたしはにこにこしています。すると山がわたしの「それ以上」に早変わりします。すると、わたしがわたしの主張をして「おれがおれが・・・」を言い出す理由がなくなってしまいます。

ときどきこうやってわたしは「それ以上」の存在に癒やされていますが、その種の天地交流事業などはあまりにも弱腰外交に過ぎるかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無行動者の開き直り

2015年04月21日 10時18分24秒 | Weblog

いいんだよ。いいんだよ。気色張らないでいていいんだよ。

わたしはわたしに声をかけます。

何かしなくちゃならないなあ、怠けているばかりじゃすまないなあ。わたしは少し焦ります。

わたしは光を注いでもらっています。明るい光です。まばゆいです。其の中にわたしがいますが、わたしはなんにもしていません。行動を起こしていません。わたしに風が吹いて来ます。心地よい春の風です。風はわたしを爽やかにしてくれます。爽やかにさせて貰っているのにわたしはなんにもしていません。役立っていません。

天地の豊かさをもらってばかりでご恩返しをしていません。行動を起こしていい条件が揃っているのですから行動を起こすべきです。役に立つべきです。でもそれをしていません。

そこで、冒頭の「いいんだよ、いいんだよ、そんなに気色張らなくていいんだよ」の声かけになります。自分で自分に声をかけています。説得力はありません。どうして行動を起こさなくていいのか、質問されたら答えに窮してしまいます。

うっとりしているときには行動を起こせません。これは屁理屈です。天地の豊かさにうっとりなって、そこで万事休すになっています。わたしの行動は万事休すですが、天地の豊かさは万事生き生きとしてフル活動をしています。是を眺めて称讃を浴びせている、これも一種の行動だ、なんて開き直りをしています。おかしいですよね、そんなって。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと晴れ間

2015年04月21日 09時59分24秒 | Weblog

おはようさん。やっと晴れ間を見ました。ああ、いい気持ち。このところ土が湿ってばかりだった。植物は根腐れを起こしそう。菜種梅雨らしい。日照不足の蕗がほっそりしています。でも撫子は元気いっぱいです。天候不順にも逆らわずに健気に咲いています。逆境にも強いんですね。

シャクヤクの蕾が大きく膨らんできました。鮮やかな赤が見えています。たくさんの蕾を着けています。白い蝶々がこの上を飛び交います。朝食が済んだ後で、庭をひとしきり見て回りました。

僕は今朝から数回、鼻血を見ています。気持ちが悪いです。何処かが鬱血でもしているのかな? で、ちょっと安静にしています。夜中何度も起きてそのたびにだらだら読書をしていたので寝不足をしているのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする