こんばんは。夕食が終わりました。今夜の菜は蕗で、あっさりと煮付けてありました。わたしは芋焼酎を飲んでいい気持ちになっています。
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彼の仏を何の故に阿弥陀と号するや。彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに、障礙するところなし。この故に号して阿弥陀と為す。又、彼の仏の寿命と其の人民(の寿命)も無量無辺にして、阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と号す。 「仏説阿弥陀経」より
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今夜は此処を取り上げて考えてみます。
何故、阿弥陀仏と言われるのかを説いてあります。それは何故か。1,放たれている光が無量だからである。2,放たれている光が十方の国々を照らしているからである。3,仏の光が何ものにも妨げられないからである。4,仏の寿命が無量寿だからである。5,極楽浄土に往生した人の寿命が無量寿だからである。
阿弥陀仏は、サンスクリット語ではアミターバ(無量寿)とアミターユス(無量光)から成っている。だから無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれている。共通しているのは無量、つまり量りしれないということである。切断がないということである。(われわれの)思議を超えているということである。
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切断がないということはどういうことであるか。永遠と言うことである。永遠に向上をしていくと言うことである。向上を目指して、止まっていないということである。時間的にも空間的にも広がりがあるということである。仏陀の本質は慈悲と智慧であるから、慈悲も智慧も無限で無制限で、しかもその上に無条件であるということである。
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阿弥陀仏は観念ではない。顕現である。示現である。わたしに顕現されているのである。わたしに示現されているのである。よそごとではない。わたしが阿弥陀仏を生きているということである。光明が十方を照らしているのだ。しかも障礙なく、このわたしにも届いているのだ。光明も寿命も、わたしに届いてわたしをを無量にしているのだ。