<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

安定の中に調和が見いだせ、調和の中に安定が見いだせる

2015年04月07日 15時02分09秒 | Weblog

畑の一角に蕗がぞろりと伸びてきたのでもうすぐ初物が摘めそうです。炒り子出汁で炊くと美味しいです。風味があります。冬の間に牛糞を施肥しておいたので成長が著しいです。

お金が儲ける話は書けません。役に立つ情報も出せません。棒にも箸にもかからない類いのブログしか発信していません。読んでくださる方にはちっともプラスになれなくて、なんだか気の毒です。

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静は三宝印と呼ばれています。お釈迦様のお悟りの内容です。諸行無常はこの世にあるすべては変化をしながら(究極的にはよい方向に)進んでいるということです。諸法無我はわたしとすべきものはないということです。関係性の中にわたしが見いだせるということです。涅槃寂静は調和した状態の時、そこには安定が得られるということです。活動中止を理想としているのではありません。

健康体は、ですから涅槃寂静体と言えます。不健康だったらそうではないということではありません。そこに調和と安定を見いだせばその位置が涅槃寂静体になります。諸行は無常です。形に現れる現象はいつも変化をしています。でも、よい方へよい方へ、次なる新しいよい方向へ変化をしています。老いも病も死も諸法無我、すなわち関係性の中で涅槃寂静を見つければいいのです。これで調和している、安定していると受け止め得たらいい、わたしはそういうふうに理解しています。ですからこれはある意味、心の調和であり、心の安定であろうと思います。(でも形の変化に逆らって調和と平安を勝ち取ることは至難の業ですよね)

涅槃寂静は死後の世界を指しているように受け止められがちですが、この世にいる段階にもそれは当て嵌められるように思います。<わたしの現在はもっともよい状態として自ずからにしてそうなさしめられている>と理解すれば<自然法爾>が生きてくるように思います。涅槃は燃え盛る火が消えた状態を指しています。この火はわたしの煩悩の火です。荒れ狂うわたしの欲望の火です。心の安定を壊してしまう火です。

さぶろうの解釈はわがまま流の素人解釈です。本流からずいぶんと逸れている恐れがあります。ご注意ください。

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息を吸えば元気でいられる不思議

2015年04月07日 13時38分19秒 | Weblog

ああ、不思議だなあ、と思います。鼻が息を吸います。これを肺に送り込みます。すると肺のエンジンが働きに出ます。肺に流れて来た血液が必要なだけ酸素を取り込みます。するとそれを心臓がポンプの作用で四方八方へこれを全身に配ります。酸素が燃やされます。栄養も行き渡ります。60兆個の細胞がこれで活性化します。そして帰り道では不要物の二酸化炭素を引き受けて肺まで運び、呼気として外界に吐き出します。この循環が実にスムーズに行われています。滞ることがありません。すべてがうまく機能しています。これでさぶろうの瞳孔は開き、体温は36度5分に保たれ、脳は生命活動の指令を正しく下します。どの部位も遮断が起きていません。拒否をしている部位はありません。体内宇宙のすべての秩序と調和が完全であるからさぶろうは健康にしていられます。ああ、不思議だなあと思います。さぶろうは一々の動作に命令を下してはいないのです。下さないでもみなが自立して勤務に就いています。勤務には休日がありません。休息もさせてはいません。報酬も払っていません。ただ働きをさせておきながらお礼の言葉すらかけてはいないのです。

さぶろうは単純に息を吸い吐いているだけで元気にしていられます。さぶろうを無条件で元気にさせている力、体内の諸器官を活動させている大元の力があるはずです。これはダンマ(仏法・いのちの法則性)と呼ばれています。阿弥陀(無量寿)とも呼ばれています。すべてのエネルギー供給の供給源です。これがさぶろうを貫いています。これは目には見えていません。自己の力量を主張してもいません。さぶろうに正義を押しつけたりもしていません。従属も束縛もさせてもいません。嗚呼、不思議だなあと思います。息を吸っていたら生きていける、そこだけでも不思議でなりません。

やがてさぶろうは死にます。これは肉体の死です。肉体の死はダンマの死ではありません。ダンマは無量寿です。永遠の命です。中断することはありません。大いなる力の運用は次の霊体へと引き継がれていきます。さぶろうはそう理解しています。肉体のいのちの運用に不思議を覚えている者は、次の霊体(非物質界のボデイ)ではもっともっと不思議を覚えるはずです。

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遊戯(ゆげ)三昧の竟(くに)

2015年04月07日 12時31分38秒 | Weblog

老いて老いて老いたので、遊戯(ゆげ)三昧をしていられる段階に達しているのだが、この遊び戯れるだけでいいという三昧業という職業従事がなかなかに難しい。そこに何らかの意味だの目的だの評価だのを見つけないと安定が来ない。これじゃ三昧にはならない。その桶の箍(たが)がすっぽりと抜け落ちていなければ三昧にはならないのだ。呆(ほう)けて呆(ぼ)けると箍の抜け落ちになるが、さてと、これだと三昧境を楽しむというご褒美も抜け落ちる。菩薩は衆生救済も遊戯であった。これは菩薩にしてはじめて適うことだろう。さぶろうはさぶろうでいい。この世のことはあくまでもこの世のことである。富貴も窮乏も、出世も不出世も、あの世までは持ち越さないでいいのだ。成り行きに任せておけばいずれこの世の蓋は自然に閉じられる。おおおお、風も雲も、この世に居ながら、一切合切の価値づけを脱落させて遊戯に興じているではないか。木も山も、水も谷も、無念の念を念として、遊戯に興じているではないか。

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わたしを戒める

2015年04月07日 09時43分56秒 | Weblog

わたしは仏さまの教えを聞いてわたしを戒めています。増上するわたし、傲慢になるわたしを戒めています。この上なくわがままになろうとするわたしに箍を嵌めています。悪の一番乗り、騙しの一番乗りをしようとするわたしがいるからです。聞いても聞いてもなお悪の欲望が抜け駆けをします。

庭先のライラックが蕾んできました。ほんのり赤く染まっています。蕾は梢のてっぺんてっぺんにあります。春のそよ風にかすかに靡いています。今週末には清く美しく開花するでしょう。これは地上の福音(ゴスペル)です。よろこびのオトヅレ(音連れ)<訪れ>を知らせて来ます。植物界はこうやって常に善の欲望に溢れています。これでわたしの悪の欲望を減量させようとしています。

「諸の衆生と共に安楽国に往生せんことを願うなり」これは唐の善導大師のご述懐です。浄土宗の椎尾辨匡(べんきょう)師はこの言葉から「共生」を編んで来て共生(きょうせい)運動を提唱されました。衆生とは仏性を持つ諸の生き物すべてを指しています。人間、修羅、餓鬼、畜生、動物、植物、虫や鳥、さては細菌類も含まれます。みんな一緒にもっと安楽な安らぎの世界=浄土に往ってそこで仲良く協調しながら暮らそうじゃないかという運動です。この人間界で協調性を養うのが予備学習になります。殺し合いをせず、騙し合いをせず、助け合って行く。その練習をします。

三輪清浄(さんりんしょうじょう)という教えがあります。<わたしが><だれだれに><よいことをした>という三輪を清浄にする、消してしまうということです。これを<無縁の慈悲>と呼ぶそうです。三輪と縁切りをした慈悲です。慈悲とは利他のの実践行です。他者を利するのは菩薩の努力事項です。ここに悪、悪の思い、自慢と傲慢が忍び込みます。<おれはよいことをしている>という悪心です。これを戒めなければ行にはなりません。これだと必ず相手に要求をしてしまいます。相手とも縁切りをしておかねばなりません。

わたしにできることではありません。一輪すら清浄にはできません。

わたしは、わが傲慢にそそのかされて表面慈悲をした結果、「おれがおまえに善を施したからなんだぞ」などと声高に叫ぶ鬼、慈悲貸し鬼になってしまいかねません。元も元の元まで戒めてかからねばとても仏道は歩けません。

 

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自己を守る者は他の自己をも守る

2015年04月07日 09時26分54秒 | Weblog

自己を守る者はほかの自己を守る。それゆえ自己を守るべきである。「増支部経典」より

争うような自己と自己ではなく、互いに守り育てていく自己と自己との関係性でありたい。他の自己は自己を育ててくれる自己である。この故に他の自己は他己(たこ)とも言われる。これで狭い自己が大きく膨らむことができる。広がりができる。広がりができるとそれだけ豊かにもなる。そういう視点で見るとたしかにわたしという自己を多くの他己が移り変わりして育ててきてくれたという事実にぶち当たる。他者を破滅させていく関係性は自己をも破滅させる関係性である。わたしが育てられてきたという事実は、したがって相互に守り育て合うという関係性を結んでいたと言う証明でもあるはずだ。自己を守る者は相互に育て合うという関係性を守る者なのである。

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履き物をそろえると心もそろう

2015年04月07日 08時40分02秒 | Weblog

はきものをそろえると心もそろう/心がそろうとはきものもそろう/ぬぐときにそろえておくと/はくときに心がみだれない/だれかがみだしておいたら/だまってそろえておいてあげよう/そうすればきっと/世界中の人の心もそろうでしょう   

この詩は曹洞宗僧侶 故藤本幸邦さんの詩です。戦地から戻ってきた後、長野県篠の井市にある小さな自坊で代わる代わるたくさんの戦災孤児を引き取って育てられた方です。世の中には偉い人がおられます。住む場所すらない孤児の世話に一生を捧げられたようです。愛(仏教では慈悲にあたる)の実践、菩薩行をわが任務とした人がおられました。わたしにはできません。

わたしは若い頃にこの詩を読みました。共感しましたので、我が家の玄関では履き物を揃えることにしています。靴を履くとき脱ぐときに揃えています。他所さまの家に招かれたときにもそうします。それから温泉の風呂場へ行ったとき、スリッパが乱れていたら行き帰りにそっと揃えることにしています。(わたしは麻痺の脚なのでスリッパが履けません)これは藤本さんに間接的に教わったことです。

 

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カタルシスが起きた

2015年04月07日 07時26分27秒 | Weblog

夢が、それを見た後にも引き継がれて、わたしはるんるんしています。

夢を見ていた間ずっとわたしは涙腺が緩みっぱなしになっていました。こんなに泣いていいだろうかという位に嬉し泣きが続きました。カタルシスが起きたのです。見ている夢が何でも嬉しく受容できるのです。それが感激や感動を呼び込みます。それが高温になって沸騰します。

カタルシスは精神分析の用語。抑圧されて無意識の中に留まっていた痼り、堅い感情があたためられ、液体になり気体になり、溶けだして来るとそこに浄化が始まり癒やしが当来します。

わたしは体外幽体離脱をしていたのかも知れません。そこは手術室でした。女医さんが3人、男性のベテラン医師が2人、手術着を纏っていました。そこへ緊急外来患者が運ばれてきました。室内に緊張が走ります。どうしてだか、これを見守っている守備隊が手術台(夢の中では一段そこだけが高くなっています)を取り囲んでいます。守備隊はみんな幽体です。横並びに専門医が列んでいて担当部位を担当しています。手術はついに成功しました。患者の意識が戻り、口元がわずかに動きました。みんな喜んでいます。それを見ているわたしが嬉し泣きをして大声で泣いています。幽体の声は医者や患者には届いていないから大丈夫です。5人の専門医がそれぞれ如来、仏陀になって燦然と光り輝いています。

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美しい季節に居る

2015年04月07日 06時52分05秒 | Weblog

おはようございます。山鳩が鳴いています。夜中に降っていた雨は上がっています。風が新緑をつけた木々の梢を揺すっていて幾分寒そうです。天気予報によると今日明日は寒の戻りもあるらしい。

昨日のことですが、県免許更新センターの入り口にさしかかると甘い匂いが流れて来ました。見上げるとそこに山藤が咲いて房を垂らしていました。季節がどんどん進んでいます。甘い匂いは人の感情をも甘く切なくさせます。こうして美しい季節にいることがたまらなく嬉しくなります。

我が家の庭先には林檎の花が咲き出しています。やがてここに姫林檎が実ります。大きな木ではありません。林檎で有名な長野県あたりまで出掛けて行って満開の林檎畑を歩いたらよかろうと願って来ましたが、実現を見ていません。

アネモネはそろそろ終熄します。次々に咲いて、見ている者のこころを癒やしてくれましたが、いまや茎も倒れ葉も枯れています。役目を終えました。ねぎらいの言葉をかけて草を抜き、来春のために種を保存しておきます。チューリップも同じです。花弁の色が色褪せてきました。

今日は何をして過ごせばいいのでしょう。ズッキーニや南瓜の芽が双葉になりましたから、植え付けの畑を準備しておかねばなりませんね。それから看護学校の講座担当の日取りが近くなっています。そろそろ気になってきました。準備に入らなくてはなりません。

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