四月が中半(なかば)に近くなった。ハナミズキの並木が美しい花の衣を新調して着飾っているので、町がピンクに染まっている。俄然、晴れやかだ。僕は、夢に登場した美しいあの人のことを思って歩く。あの人は、夢の後で、わたしのこころから遠いところへ去って行く一方なので、足下を通り雨が濡らして行くように僕の全体は湿っぽい。これは仕方のないことなんだと僕は僕を諦めさせる。一場の夢の舞台なのだ。抵抗はできない。僕は失意に従順に従う。でも、人を思うことは決してつまらないことではない。人を美しく思うこともそうだ。つまらないことではない。ああもう行ってしまう。行ってしまう。あの人が完全に消えてしまう前に、僕は僕と彼女を小説に仕立て上げる。しかし、どうしても絵にはならない。僕は老いていて、彼女は萌えだした山の若葉のように若いのだ。調和がまるでとれないのだ。どうして僕の夢の中へなんぞ現れて来たのだろう。僕は少し憮然とする。僕をたった一夜だけはなやかなこころにするためだったのか。たしかに僕はそうなったのだ。会話が少し成立した。目と目が合って僕はたじろいだ。彼女には不似合いな自分という老人を恥じたのだった。そうであるのにそれでも朝が来るまでうきうきした。映画のワンシーンのように僕は二人でいられる愉快を覚えていたのだ。それだけでもう十分だったはずである。彼女の役目はそれですんだのだ。ハナミズキの並木道はここで終わりになった。ここから先は海になっている。カモメが鳴いて騒がしく飛び交った。僕はしばらく沖を眺めてから引き返して来た。ハナミズキの咲く表通りではなくわざと裏通りを通って。
針小棒大は針のように小さいものを棒のように大きくして見せる騙し技です。でも棒のように大きいものを見るための縁(よすが)にはなります。そういう利点があります。入り口が小さくて奥が大きく広いという場合もあります。こういう場合は小さい入り口から入るしかありません。中へ入ってみてだんだんその巨大さに慣れていけばいいわけです。春の田圃には小さな小さな草の花が咲いています。この小さな草の花にも神の国を見ることはできます。
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神の国は駱駝が針の穴を通るようなものだ、というキリスト教社会の諺もあります。それほどに難しいということでしょうが、駱駝はこのままでは神の国には入れません。では、駱駝はどうしたら神の国へ進んでいけるのでしょう。答はこうです。駱駝を見捨てずに、駱駝の大きさに見合う穴を造ってもらうことです。神は愛ですから、これくらいのことはすぐに解決してくださるでしょう。神の国に入ることが難しい駱駝をこそ正客とする、という理論は成り立たないでしょうか。(一つの譬えから推論をすることこそ針小棒大かなあ)
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小さいと大きいを列べてみました。首をかしげておられるかもしれません。ですが、この世には大小の違いは現実としてあります。大は大なりに、小は小なりに適合をしていかねばなりません。賢愚もあります。正邪もあります。富と貧もあります。美と醜もあります。どこからでも(どんな形をしていても)神の国に入っていけるようにしてもらっていれば助かります。駱駝が適応するか、神が適応の手段に出て下さるか、そのどちらかです。針の穴を抜ける大きさの、小さな虫であれば神の国の入国審査は簡単でしょうか。
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救われる見込みがない者こそが仏の正客だとするのが大乗仏教、特に浄土系の考え方のようです。罪業深重の者がまず一番先に救済されて行きます。ここでは義がありません。無義です。正義の人になってからの救済ではないからです。道徳や倫理ではこうはなりません。仏陀は条件をつけません。浄土往生を拒みません。浄土往生は無条件です。「おいでなさい、みんなおいでなさい」です。みんなするすると入国を果たしていきます。よかったなあと思います。(話がどんどん逸れてしまいました。それぞれのチャプターの関連性もありません。お粗末)
「猫に小判、豚に真珠」と言いますが、さぶろうも小判や真珠の価値が分かっていません。小判以上、真珠以上ならなおさらです。見ても見ても見えないでいます。聞いても聞いても聞こえていません。レセプター(受信装置)が機能していません。次々に繰り広げられる春の祭典にもほとんど無頓着です。
牡丹、林檎、梨、ライラック、ツツジ、皐月が咲き出しました。きれいです。でもそこまでです。語りかけている真理が読み取れません。みんなそれぞれに発信をしています。よろこびの訪れを告げる福音を伝えているはずですが、一向に理解をしていません。この世にいることのできるハッピネスは無限数です。それが無限大に広がっています。
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一方では宇宙野球のピッチャーが白球をどんどんピッチしてきますが、さぶろうの方ではキャッチができないでいます。打者席に立ってもノッキングもできません。白球はあまりにも輝きすぎていて透明だからです。この白球は受け止めれば<楽しくなれる白球><嬉しくなれる白球>です。<光り輝ける白球>です。そういうピッチャーのことをしばらくの間イメージしてみました。彼を徒労に終わらせていることを済まなく思います。
暗くのみ見て明るさを知らざれば光合成をこの木は為さず 李野うと
霊界はワンダフル・ワールドです。そう思えたらそこが霊(素晴らしい)世界です。そこをそう見て霊界にすることもできます。<生きて暮らしているところ、わたしの場所は実にいい場所だ>と思わせてくれます。<霊>は<霊妙な><神霊な><不可思議な>という意味を持つ修飾語です。別名<安楽国><安心していられる世界>とも言います。<理想世界>とも言います。ここへ来ると明るい表情になります。明るくなった瞳が輝き出します。死ぬのを待って行くところではありません。ここで、生きたままここを楽しんでいることができます。霊界にいるのは霊人です。ここを喜んでいる人、瞳を明るくして輝いている人です。霊界の霊人であること、これを長い間待ち望んでいてくれた人たちがいました。ガンジス川の砂の数ほどの霊界霊人の先駆者たちです。彼らの祝福が宇宙中に響き渡っています。後発の霊人たちのよろこびはたとえようもありません。
さぶろうは今朝はこの様子をイメージしてみました。イメージしていたら楽しくなりました。
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付け足しで悪いのですが、この霊界は単独ではありません。連綿として続いています。一つ一つ輝きが違います。ここを進んで行けば輝き度はどんどん増して行きます。次へ移住するたびに新しい感動が待っています。だから、元いた世界に固執をしないでいられます。もう固定の六道輪廻(りくどうりんね)なんかしないで、このサイクルを離脱して行きます。パワーをどんどんつけて行くので、太陽系周辺周回からの解脱が起こります。別の銀河に渡航します。死を恐がっていたころからすると雲泥の差です。
相も変わらずいい加減なことばかり書いていますね、さぶろうは。あの手この手で、さぶろうはさぶろうを元気づけよう勇気づけようとしているが、その手段たるやお粗末。もちったあ、理性的、客観的、理論的であったらいいのになあ。そのどれもが情動的だ。直感的思いつきの部類だ。お付き合いをして下さる読者さまには、毎回ご不便ご迷惑をおかけしております。反省はしているんですよ。
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夜中の瞑想はもちろんお布団の中で行われています。リラックスがポイントです。寝た姿勢だからこれは簡単に実現します。
パワーの源に繋がるといい気持ちです。これは快感です。<宇宙中が元気パワーの源>だという認識そのものがすでに快感です。<さぶろうはこのフル・パワーの国の住人である>という初期設定に戻れます。瞑想は充電です。コンセントをプットインしていればパワーが流入してきます。是に任せていればいいので実にシンプルです。充電終了の合図がありますから、ここで打ち止めです。児戯といえばこれほどの児戯はありません。児戯はイノセンスの状態でのみ履行されます。つまり、無思考状態です。砂場のひとり遊びに似ています。
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ここを大きくも小さくもできる。ここを美しくも清くもできる。ここをつまらなくも楽しくもできる。見ている視界を暗くも明るくもできる。各人の設定次第だというところ、これがまたワンダフルですね。
さぶろうがこのブログで書いていることはどうも独り合点が過ぎています。つまり客観性に乏しいようです。だれもが普通に理解できる種類の共通体験から離脱しています。だから、雲を掴むようなことが多く、読む人はきっと訳が分からないかもしれません。危ういかもしれません。怪しいかもしれません。
インスピレイションが降りてくるとその是非善悪の判断よりさきに「ふううん」と思ってしまいます。「そうか、それは知らなかったな。教えてくれて有り難う」とすぐに受容してしまう癖があります。教えてくれているのは親様筋に当たるアートマンですが、これは小さくは守護霊とも、精霊とも神霊とも聖霊とも呼ばれたりしています。「精」も「神」も「聖」も優れて素晴らしいという意味が込められています。「霊」そのものもそうです。
日本の神道では古来、荒御霊(あらみたま)と和御霊(なぎみたま)とも呼び名されています。陰陽があります。陽になれば和ぎます。陰に来れば荒れます。霊は宇宙根本の力という性質を持っています。雨が万物を育てるところから雨冠になっていますが、霊は「チ」とも呼ばれています。これは神様の血、神様の乳(=太陽の光)のニュアンスが含まれています。
霊は霊魂としていっしょにされることもあります。魂魄といっしょに扱われることもあります。魂(こん)はこころを支える守護応援隊、魄(ぱく)はからだを支える守護応援隊です。両方でわたしを支えていてくれているんですね。守っていてくれるんですね。
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昨夜のインスピレイションのことをお話しします。さぶろうに語りかけてくれたことの内容です。
「さぶろうのからだは神宮の宮です。だから神様が此処へ降りて来られます。さぶろうの霊(=精神という如意宝珠)もここで毎朝毎晩、自浄の仕事(=こころのお掃除)をしています。それがすむと元気パワーがどさどさどっさり注入されます。分かりますか、それが」「この元気パワーはどれだけでも受け取っていいのですが、これはさぶろうのキャパシテイの大きさに左右されます。さぶろうの胸の容れ物(こころという容器)が大きいとそれだけたくさん注ぎ込まれます」「宇宙空間は実はこの元気パワーの宝庫なんですよ。誰でも好きなだけ自由に使っていいのですよ。とっても豊かなんです。さぶろうが豊かになりたいと思うとすぐに宇宙空間と同じだけ豊かになれるのです」「でもね、残念ながら、普通この豊かな国の扉は閉じられたままです。各人が勝手に拒否しているからです」
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わたしの体が神宮、お宮さんだったなんていうのは新しいビッグな情報でした。ええ、そうだったんだ。情報提供者に感謝しました。わたしのからだはそんなに神聖なところだったんだ。清らかなお宮さんの神主さんがさぶろうだったんだ。
「でも、たくさんの元気パワーをもらえる人はこれを全部自分の利益に使ってしまうにはあまりにも多量すぎますから、他者が利益を蒙るように分けてさしあげねばならないよ」との囁きも加えてありました。利他の行ができる、これが富める者の条件だったのですね。
おはようございます。春の空は3日の晴れを許しません。夕方に曇って夜中に殴り雨して降って朝方には霧。新芽を出したモミジが寒がって震えています。
さぶろうは夜中によく瞑想をしています。瞑想は霊界交流タイムです。not-me(わたしを超えわたしを支えているパワー)、アートマン(大元の総体の意思)との会話が成り立ちます。ときには2時間を超えることもあります。ここではわたしは無条件に愛されていて、次から次へ忙しくインスピレイションが降りてきてわたしを新しくして元気にします。愛されて愛されてそれからまた眠ります。
瞑想をしているときは目を閉じてわたしの内なる宇宙を見ています。外なる物質宇宙は見ているだけですが、ここでなら縦横無尽の活躍が期待できます。この宇宙空間は霊界だからです。普通は霊界は死後の世界のことを指しますが、死なない世界も霊界です。そういうことが実感されます。霊は非物質です。宇宙の大きな意思のようなものです。これは融合したり分離したりして遊んでいます。
わたしの手にある霊は如意宝珠です。プラーナです。如意は意のままにできるということであり、宝珠は宝玉、円空の気球体です。これを拡大して膨張させると星々の星になります。わたしのプラーナはわたしの肉体の大きさに合わしてあります。これがインとアウトを重ねます。インはわたしのプラーナへアートマンが入り込んでくることで、アウトはその反対作用です。アートマンが親、プラーナは子の関係にあります。
こういうことができるのが霊界です。霊は窮屈な狭い空間(=肉体)に閉じ込められるのを嫌がって幽体(霊体)離脱します。広々とした自由空間を楽しく嬉しく遊び戯れます。「さぶろう、もっと楽しくしていていいよ」「もっと嬉しくしていていいよ」「もっともっと喜んでいていいよ」と囁きかけます。(囁くのが好きなようです) わたしたちは生きている間も歴(れっき)とした霊界の住人であることを忘れないでいいのかもしれません。