<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

珠子に会いたい

2015年04月23日 14時31分01秒 | Weblog

珠子に会いたい。会いたくて会いたくてならない。でも、珠子とさぶろうは相思相愛の仲ではない。ただたださぶろうの片思いである。だから、珠子にはさぶろうの意思は届かない。届いたところでどうにかなるわけではない。不釣り合いだからである。

珠子は木の精、水の精、花の精の精でしかない。清らかな精霊であって、美しい妖精であるが、泡のように儚く、砂のように脆(もろ)く、霧のように透明で、抱こうとしても抱けない。精は、この世の<一切皆空>を自覚しているから、気高い法性身である。生身ではない。

珠子はときには雪女である。人間界に来て暮らしをともにしてしてくれることもある。さぶろうのところへ、でも、現れて来たことはない。<精>は古来、大和の国ではたましいを言った。精霊であった。木にも石にも山にも海にもこの精霊が宿っていた。精霊は不思議な力を持ち、慈悲を顕現した。人の苦難を救った。ものの怪(け)、ものの化(け)、かわいいお化けになって愛嬌を示すこともあった。人なつこいのだ。

珠子に会いたい。さぶろうに会いたいという思いを湧かす才能を秘めているのも珠子だ。この世には美しい精神があるということ、美しい人がいるということ、美しい思想があるということ、これを思い起こさせてくれるのも珠子である。そしてさぶろうをやさしい気持ちにしてくれるのも珠子である。ああ、珠子に会いたい。珠子の美しい化粧(けそう)を見ていたい。

十一面観音菩薩は珠子の役割をなさることがあると聞いた。悪魔すら抱き留めて悪の持つ強い力を善の強い力に交換して、社会救済事業に参加させるのだ。法華経には珠子の役割をする神がかり的魔物(鬼)がさまざまに登場する。人の子を999人喰った女の鬼もお釈迦様の前で懺悔して、我が身が犯した悪を覆すべく渾身の力を奮って、苦界の衆生を救出することを誓う。

親鸞聖人も女を抱かれた。観音さまの化身を抱かれた。珠子を抱かれた。さぶろうは仏と成られた親鸞さまではない。だから珠子を抱くことはない。珠子を抱きたいという欲望を起こさせておいて、そこを発端にして、次へ誘って行かれることがある。これは、仏陀の得意芸の方便である。次とは空(くう)の自覚である。珠子は空だよということを悟らしめられるのだ。

 

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好きだよ 大好きだよ

2015年04月23日 13時54分12秒 | Weblog

僕のことが好き?/ええ、好きよ/あなたの全部が好きよ/とっても好き?/ええ、とってもとっても好きよ/ほんとにとってもとっても好き?/ええ、ほんとうよ/あなたがとってもとっても好きよ/大好きよ/わおわお/こどもが母さんを抱きしめちゃった     詩集「まばゆいばかりの光を浴びて」より 11「会話」

これは幼児と若いお母さんの会話だ。わおわおと言って駆け寄ってきて母さんの両足を小さな腕を伸ばしてぎゅうっと抱きしめちゃった。

少し大きくなったこどもだってやってみたいだろう。分かっていても分かっていても確認をとりたいのだ。反対に母さんがこどもに尋ねている場合もありそうだ。そしてこどもに肯定されて、大の大人の母さんの相好がぐしゃぐしゃに崩れる。

恋人同士でもこんな会話は成り立つかもしれない。「好き」は人をあっという間に元気にすることばだ。貧血になったときのブドウ糖注射のようだ。

「好き」は人を明るくする。健康にする。前向きにする。強い強い肯定語だ。「好き」には凄まじいばかりのパワーが籠もっている。

日本人はあまりこれをやらない。面と向かって"I love you” を言うのを躊躇う。人前では特に恥じる。確認作業を怠る。「好きだよ」「愛しているよ」を乱発するのをよしとしない。目と目でわかり合えるようでなくては駄目だ、などと強がる。なるほどしょっちゅう言っていれば価値が薄れてしまうかもしれない。

神様と人間、仏様と人間の間でもこれは成立するだろう。神様は神様の言葉(神語)、仏様は仏様の言葉(仏語 フランス語ではなく仏陀語)を遣っておられるだろうから、あるいは自然界の翻訳者、通訳が介在していなければならないかもしれない。或いは以心伝心かもしれない。ともかく「好きだよ」「大好きだよ」が発せられてこれを受け取れば安心する、ここはこどもと母さんとの信頼関係に類似してくる。肯定語、信頼語だからである。

神様や仏様は実際のところ、相手を信頼するとき、肯定するときに、どんな種類の台詞を吐いておられるのだろう。ちょっと気になるところだ。神様に信頼されているのが人間だからこの台詞は何度も何度も聞いているはずである。仏様に肯定されているのが人間だから何度も何度も耳にして目にして頷いているはずである。

 

 

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無理に逆らわなくともいいのかもしれない

2015年04月23日 13時44分02秒 | Weblog

病まないと死ねないのである。ということは、丁度いい時を見計らって、無理なく自然に死んで行けるようにという配慮が働いているのではないか。それが働いて病むのではないか。それに抵抗を試みて病気治療をするのだが、自然の配慮に無理に逆らっているtころがあるのかもしれない。ともかく、なにがなんでも回復しなければならないと気張るけれど、(それがまた当然だろうけれど)回復を果たさなくとも、それもまたそれで有り難いことなのかも知れない。もっともいい時を迎えて、つまり時宜を得て、そこで揚揚乎として、死んで行くのではないか、とも思うのである。

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誘いに乗るやさしさも示せなかった

2015年04月23日 11時36分28秒 | Weblog

とうとう、午前中一杯もぐうたらぐうたらして過ごした。さんさんと光が降っているというのに、光の中に座を持つことをしなかった。辺り中の木はやわらかな新緑をつやつやに光らせているというのに、さぶろうの指は光の葉に触れることもなかった。風の少女が昼を招いて外へ誘っているといのに、誘いに乗るやさしさも示さなかった。

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そういうちぐはぐは起こらない

2015年04月23日 11時29分03秒 | Weblog

汽車がフランスの国境をでる。するとその時には、もう汽車はドイツの国に入っていたのである。出ることは即ち入ることである。一つの国を死んで出ることは、新しい国に入って生まれることである。出ることだけで入ることがない、そういうちぐはぐは起こらない。

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それを恥じている

2015年04月23日 11時02分24秒 | Weblog

お仕着せはよくない。よくない。自分流に着た方がいい。着方が悪くとも、ぴったりこなくとも、着方が分からなくとも、それでも、人に着せて貰うよりは何度も練習をして工夫を得て自分流に着た方が、着心地がいい。お仕着せはよくない。

人の話もこれに当たる。着物をそこに列べてもらうくらいはそれでいいが、それを着せられるのはご免だろう。見るまではまあ抵抗がないが、実地に着せられるとどうもちぐはぐしてしまうということがあるのではないか。だから、聞いてくるだけ、見てくるだけにして帰ってくるのがいい。馬耳東風となじられたっていいじゃないか。

仏法の場合、聴聞の場合もこうだろうか。そうだろう。やはりお仕着せられてもどうも我が身の肌に合わないということが起こるだろう。仏法は肌より滲みて入る、とも言う。耳で拒否したことが、しかし、肌からしみこんでくるということも起こる。

お釈迦様がお説きになってもこれでいいだろうか。わたしの前にお釈迦様が現れてこられて法を説かれる場合もこの手合いでいいだろうか。阿弥陀仏が現れて来て救済を申し出られても、それでもお仕着せは御免蒙るで通せるだろうか。お釈迦様や阿弥陀さまとはっきり分かっていたらそうもいかずにひたすら従順になるのかもしれない。

そうでない場合は? 何処の誰だか分からない馬の骨の類いが、仏法を説いたとしたら? それはやはり拒否をした方がいい。欺される恐れがある。乗せられる恐れがある。やはり突き放した方がいいだろう。病むことにどんな意味があるか。死ぬことにどんな幸いがあるか。仏教の経典はここをどう説き起こしているか。これだって千万種ある。

さぶろうは今日もいろいろ考えている。自責の念にかられている。唇寒し秋の風になっている。喋らないでいたらよかったという悔いを残している。話を聞いてくれた人に、お仕着せをして来たのではないか。そのことを恥じている。

 

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ここを地獄にしてきたその重罪人は誰だ

2015年04月23日 10時14分59秒 | Weblog

「懺悔(さんげ)」

くしゃくしゃになった両の頬を/ あついものが流れてくだる/ あついものが流れてくだるために/ 設(しつら)えられた暗い小さな部屋の窓/ そこへ両の臂を乗せて/わずかに洩れてくる白い月光を/仰いでいるのは/ それは誰だ/ それは誰だ/ これまでの長い年月/ここを地獄にしてきた/その重罪人は誰だ/

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空を見たことがあるか

2015年04月23日 10時02分33秒 | Weblog

「空を見たことがあるか」

空を見たことがあるか/空は仏である/見ている空は仏である/ 山を見たことがあるか/山は仏である/見せている山は仏である/ 海を見たことがあるか/海は仏である/見ることができた海は仏である/ 行けども行けど仏が現れ/次から次へと仏を見せている/ 空を見ることがあるか さぶろう/ある/見ることができた空は/さぶろうの仏である/さぶろうを仏にしようとしている仏である     詩集「まばゆいばかりの光を浴びて」より

 

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後ろの山 背戸の小藪 柳の鞭

2015年04月23日 09時44分28秒 | Weblog

唄を忘れた金糸雀(カナリア)は/後ろの山に棄てましょか/いえいえそれはなりませぬ/ 唄を忘れた金糸雀は/背戸の小籔に埋(い)けましょか/いえいえそれはなりませぬ/ 唄を忘れた金糸雀は/柳の鞭でぶちましょか/いえいえそれはかわいそう/唄を忘れた金糸雀は/象牙の船に/銀の櫂(かい)/月夜の海に浮かぶれば/忘れた唄を思い出す   西条八十作詞 成田為三作曲 「カナリア」

ああ、よかった! <月夜の海に浮かべれば、忘れた唄を思い出す>で終わってた。ああ、よかった。棄てられたり埋められたり鞭で打たれたりしないで、すんだ。ああよかった。四番まで歌い継いでよかった。月夜に海が広がった。象牙の船がそこを進む。銀の櫂を漕いで漕いでなめらかな海面を進む。さぶろうという名をしたカナリアが、船のマストのとっぺんで美しい唄を歌い出したぞ。ああよかった! ほんとうによかった。作詞者西条八十に感謝だ。

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どうせ暇でしょうがないんだし

2015年04月23日 09時08分22秒 | Weblog

おはようございます。みなさん。山鳩さん。

山鳩さんは、朝早くからさぶろうのほんの数メートルの近くまで来て、愛嬌を振りまいて淀川ツツジの藪に乗っかかって遊んでいる。淀川がきれいだからね。ごーぐるぐるぐう、ほっほっほと喉笛を吹いている。お天気がいいのでピクニックにでもやって来て、そこでこのきれいな淀川が目にとまって、寄り道をしたのかな。でも、ひとりじゃつまらないよね。いっしょについてきてくれる彼女がいないのかな。こういうところはさぶろうみたいだな。

(ここからは曲がり道、木の下陰の細道になる)でもね、彼女がついてきてくれても、それで楽しいばかりじゃないよね。サービスしなくちゃならないし、美人だって褒めてやらなくちゃならないし、気を遣うからね。

(ますます影が濃くなる小径になる)総じて、気持ちを合わせてぴったり寄り添ってくれる彼女なんて、そうそういないしね。みんなこの頃は女性上位だから、男性に寄り添うなんて沽券に関わるんだろうね。(沽券:売り渡しの証文、売値、転じて値打ち、品位、体面)寄り添うためには自分を小さくして相手を大きくさせてあげなくちゃならないよ。これも気苦労だろうし。あれれ、余計なこと言っちゃった。ほんとに大きさを感じる男性もいるから、これは失言だろう。

さぶろうはこうやって自分に自信がないので(実際のところ、パワーがない)すぐに拗ねてかかる。悪い癖だ。いっしょにいたいのに、一人でいる。みんなと一緒に行動すれば楽しいのに、引いて、引き下がって、しょんぼりしている。一緒に楽しもうとする勇気が起こってこないのだ。

新聞に、珍しいナンジャモンジャの木が一面白い花を着けている写真が載っていた。近く(近くといっても4kmくらいはありそう)のお寺の境内に。これからそこへ行ってみるか。ふらりと。どうせ暇でしようがないんだし。

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