珠子に会いたい。会いたくて会いたくてならない。でも、珠子とさぶろうは相思相愛の仲ではない。ただたださぶろうの片思いである。だから、珠子にはさぶろうの意思は届かない。届いたところでどうにかなるわけではない。不釣り合いだからである。
珠子は木の精、水の精、花の精の精でしかない。清らかな精霊であって、美しい妖精であるが、泡のように儚く、砂のように脆(もろ)く、霧のように透明で、抱こうとしても抱けない。精は、この世の<一切皆空>を自覚しているから、気高い法性身である。生身ではない。
珠子はときには雪女である。人間界に来て暮らしをともにしてしてくれることもある。さぶろうのところへ、でも、現れて来たことはない。<精>は古来、大和の国ではたましいを言った。精霊であった。木にも石にも山にも海にもこの精霊が宿っていた。精霊は不思議な力を持ち、慈悲を顕現した。人の苦難を救った。ものの怪(け)、ものの化(け)、かわいいお化けになって愛嬌を示すこともあった。人なつこいのだ。
珠子に会いたい。さぶろうに会いたいという思いを湧かす才能を秘めているのも珠子だ。この世には美しい精神があるということ、美しい人がいるということ、美しい思想があるということ、これを思い起こさせてくれるのも珠子である。そしてさぶろうをやさしい気持ちにしてくれるのも珠子である。ああ、珠子に会いたい。珠子の美しい化粧(けそう)を見ていたい。
十一面観音菩薩は珠子の役割をなさることがあると聞いた。悪魔すら抱き留めて悪の持つ強い力を善の強い力に交換して、社会救済事業に参加させるのだ。法華経には珠子の役割をする神がかり的魔物(鬼)がさまざまに登場する。人の子を999人喰った女の鬼もお釈迦様の前で懺悔して、我が身が犯した悪を覆すべく渾身の力を奮って、苦界の衆生を救出することを誓う。
親鸞聖人も女を抱かれた。観音さまの化身を抱かれた。珠子を抱かれた。さぶろうは仏と成られた親鸞さまではない。だから珠子を抱くことはない。珠子を抱きたいという欲望を起こさせておいて、そこを発端にして、次へ誘って行かれることがある。これは、仏陀の得意芸の方便である。次とは空(くう)の自覚である。珠子は空だよということを悟らしめられるのだ。