<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

平生往生(へいぜいおうじょう)

2015年04月09日 15時17分02秒 | Weblog

阿弥陀如来本願の御約束をたのみ、名号をとなふれば、かならず往生決定(けつじょう)とおもひさだむる一念の、信心獲得(ぎゃくとく)する時節を往生とこころうるでさふらふ。この位を平生往生(へいぜいおうじょう)とも、即得往生(そくとくおうじょう)とも、ときたまひて候。 真宗高田派 真慧(しんね)上人著の「御書」より

阿弥陀如来がわれらにお約束くだされた本願をたよりとして名号を称えれば必ず浄土往生が決定する、と思い定め、阿弥陀如来を信じる心がおこれば、そのときを往生と承知してよいのであります。この位を親鸞聖人は「平生往生(=平生に定まる往生)」とも即得往生(信心を得たときに往生を得る身となる)」とも説いておられます。  早島鏡正・田中教照両氏の訳より

安楽浄土に往ってそこで往生を果たしたと分かるのではなくて、浄土に往生しない前、即ち生きている即今に往生が決定してしまうので、これを親鸞聖人は「平生往生」と説いておられる。これだと死後、浄土への旅をしている間の不安がありませんよね。信心獲得(しんじんぎゃくとく)が安心獲得になります。これを入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ=浄土往生が決定した人の仲間に入ること)とも釈しておられます。

阿弥陀如来はそうお約束はされたもののほんとうかしらん? なかなか浄土に到着しないぞ、ひょっとしたら永遠に着かないのではないか。いよいよ到着しても、「あなたは御約束に含まれていません」とか言われて追い返されてしまうのではないか。などという疑いも払拭してしまっていいのですからね。

後生の一大事がこころにかかっていますから、こうやって毎日のようにブログで浄土往生の本懐を書いています。「諄いぞ」とご批判を受けそうですね。言い聞かせいい聞かせをしていないと不安がおこるようではまだまだかもしれません。

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わが往生は決まった

2015年04月09日 08時31分31秒 | Weblog

「往生一定御たすけ治定」は浄土真宗中興の祖、本願寺8世、蓮如上人(1415~1499)の「領解文(りょうげもん)」に出て来る。

「わたしの浄土往生は決まったし、わたしを助ける仕事は阿弥陀仏がなさるのもはっきり決まった」と、わたしの信が定まったのだ。わたしの信は、「われをたのめ、必ず助ける」という阿弥陀仏の呼びかけにおまかせができた心のことである。

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自力ではフルマラソンはできなかった

2015年04月09日 07時50分52秒 | Weblog

はい、わたしはやがてお釈迦様にお目見えがかないます。阿弥陀経では阿弥陀仏が建設なさったお浄土、極楽浄土にわたしは往生して成仏を果たすことが約束されていますが、阿弥陀経を説いて下さったのはお釈迦様ご本人でした。ですから、ここにはやはり証人のお釈迦様がお出でになっているはずです。もちろん、このブログの読者も同じです。諸の衆生と共に安楽浄土に往生せんことを、われわれは斉しく願っています。

往生するよりほかに道はありませんから、わたしたちは皆この道を進むだけですよね。往生は、文字通り、安楽浄土に往(い)ってそこで新しく生まれることですから、新生とも呼べるでしょう。ここではもはや肉体という道着は来ていません。物質界の肉体は諸行無常に晒されてしまいますが、霊体は非物質です。次元がワンランクアップしていますから、壊滅がありません。物質界特有の老や病や死がありません。それに纏わる不安や恐怖がありません。わが往生を担当してくださる方を仏陀と申し上げています。

わたしを往生させて成仏させてくださるご苦労を思います。悪まみれ垢まみれ煩悩まみれ欲まみれ恐怖まみれのわたしですから、汚穢重罪のわたしをお浄土まで運んで往くだけでも大変なご苦労のはずです。往くだけでは止まらずそこで嫌がるわたしを脱皮させて仏に化してしまわねばなりません。わたしは欲深ですから、穢土では穢土のさまざまな欲を愉しんできました。だから無欲になって仏に成るのをきっと嫌がるだろうと思います。仏陀はこのようにご苦労が嵩むのです。

では、仏陀はどうしてそのようなご苦労を厭わずにいてくださるのでしょうか? ふっと疑問が起こります。答は簡単です。仏陀だからです。それをする役目をご自分に課しているのが仏陀だからです。衆生救済は仏陀の悲願です。わたしを成仏させるのは仏陀の慈悲の実践です。これが果たされなかったら仏陀はたちまち失格をしてしまいますが、心配はいりません。仏陀はアビバッチ、不退転です。仏陀の位置から退くことはありません。

聞けば聞くほど、ああ、よかったなあと思います。悪まみれのわたしの自力ではとてもここまでのフルマラソンはできないところでした。

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春の野を懐かしむ

2015年04月09日 07時13分12秒 | Weblog

おはようございます。庭先に早くもツツジやサツキが咲き出しました。ふっくら蕾を着けそれぞれの個性の色に染めています。ここへ朝の光が届いています。この春も生きて美しい季節の華やぎを眺めることができました。有り難いことでございます。

昨日4月8日はお釈迦様が誕生された日とされております。わたしたち衆生に数々の教えを説いて下さったご恩人です。よくぞよくぞお生まれ下さいました。よくぞよくぞ仏と成ってくださいました。よくぞよくぞその仏の教えをわたしにも説いて下さいました。久遠仏としてこの娑婆世界の現在ただいまをも耀かして下さっている事実に低頭いたします。

春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野を懐かしみ一夜寝にける 山部赤人

春になっている野が懐かしいのでとうとうここで一夜を明かしてしまった、というのですが、赤人さん、摘んだすみれはどうしましたか。此処とは何処なんですか。花冷えがして風邪を引いたんではありませんか。さて、この歌を詠んで誰に届けたのですか。要らぬ詮索をするな、と言われるかもしれませんね。一面に山スミレが咲き出す春の野がただたまらなく懐かしかった、それだけですよね。こうやってとうとう家を空け一夜を愛しいあなたのところへ来て語り明かしてしまった、とする恋の歌、そうそう、実はあっさり系の相聞歌であるかもしれませんが、これは秘めておくんでしたよね。万葉の人々は暴露を嗜んだはずですから。

我が家では、その春の野に出でて、スミレならぬヨモギ摘みが行われました。摘んだ指先を緑に染めて春の香を残しています。摘んで来たヨモギを揃えて茹でて、竹製のショウケに列べて干しました。やがてよもぎ団子が仏壇に供えられることでしょう。

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