阿弥陀如来本願の御約束をたのみ、名号をとなふれば、かならず往生決定(けつじょう)とおもひさだむる一念の、信心獲得(ぎゃくとく)する時節を往生とこころうるでさふらふ。この位を平生往生(へいぜいおうじょう)とも、即得往生(そくとくおうじょう)とも、ときたまひて候。 真宗高田派 真慧(しんね)上人著の「御書」より
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阿弥陀如来がわれらにお約束くだされた本願をたよりとして名号を称えれば必ず浄土往生が決定する、と思い定め、阿弥陀如来を信じる心がおこれば、そのときを往生と承知してよいのであります。この位を親鸞聖人は「平生往生(=平生に定まる往生)」とも即得往生(信心を得たときに往生を得る身となる)」とも説いておられます。 早島鏡正・田中教照両氏の訳より
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安楽浄土に往ってそこで往生を果たしたと分かるのではなくて、浄土に往生しない前、即ち生きている即今に往生が決定してしまうので、これを親鸞聖人は「平生往生」と説いておられる。これだと死後、浄土への旅をしている間の不安がありませんよね。信心獲得(しんじんぎゃくとく)が安心獲得になります。これを入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ=浄土往生が決定した人の仲間に入ること)とも釈しておられます。
阿弥陀如来はそうお約束はされたもののほんとうかしらん? なかなか浄土に到着しないぞ、ひょっとしたら永遠に着かないのではないか。いよいよ到着しても、「あなたは御約束に含まれていません」とか言われて追い返されてしまうのではないか。などという疑いも払拭してしまっていいのですからね。
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後生の一大事がこころにかかっていますから、こうやって毎日のようにブログで浄土往生の本懐を書いています。「諄いぞ」とご批判を受けそうですね。言い聞かせいい聞かせをしていないと不安がおこるようではまだまだかもしれません。