<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏の世界を思う身となる

2015年04月16日 17時38分15秒 | Weblog

蓮華蔵世界に入るを得れば、即ち真如法性身(しんにょほっしょうしん)を証し、煩悩の林に遊んで神通(じんづう)を現じ、生死の園に入って応化(おうげ)を示さん。   「正信念仏偈」より

このチャプターは天親菩薩が諄々とお説きになっておられる部分だ。蓮華蔵世界は蓮華より生じた仏の浄土。ここでは阿弥陀如来の極楽浄土を指している。盧舎那仏(るしゃなぶつ)の浄土の名でもある。

浄土往生をして往生成仏を果たした者は、己のみをよしとすることなく、また元の穢土に戻って来て、仏と成った者の功徳を、苦悩する者に振り向ける任務に就くことになる。

蓮華蔵世界(=極楽浄土)に入ったらどうなるか。ここは真如界だからただちに法性身になる。そうでなければここには存在しえない。法性身とは真如を体現したボデイ、つまり仏身である。

法性身を得たらどうするか。煩悩が生い茂る林=穢土=この世へ戻って来て仏と同じ力、つまり神通力を発揮する。神通力とは衆生済度、衆生利益をすることができるパワーのことだ。

発揮してどうするか。応化する。さまざまな姿を取って苦悩の衆生の前に現れてくる。そしてそこでどうするか。仏法を説いて教化する。教化したらどうなるか。教化に応じて救済が果たされる。果たされたらどうなるか。仏の世界を思って念仏申す身となることができる。

生死の園とは生まれたり死んだりする世界、ここだ。煩悩の林が生死の園である。蓮華蔵世界には肉体を持つ者特有の生死はもはやない。生死につきまとう煩悩がない。この娑婆世界(現世)では生死という煩悩に振り回されていなければならない。

応化(おうげ)は仏や菩薩が衆生を救い出すためにさまざまな姿を取って出現してくることで、応現とも応作とも呼ばれる。天親菩薩は、仏の国で仏と成っていないで、ここへ立ち返ってきて菩薩となっておられる方である。菩薩は<自らは未だ(仏の国に)渡らざるに先ず他を渡す>業務に従事している。仏様の代行業務をなさっておいでだ。

大乗仏教は自己の往生成仏を以て目標達成としていない。我が身の往生成仏の功徳を他者に振り向けて行く(これを廻向という)ことこそが成仏者の証明であるとしている。自利から利他に進んで行く。わたしたちは、だからこの(成仏者の)利他の真っ只中に暮らしていることになる。道理でここが明るいはずだ。

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蓬を摘みに山に入りました

2015年04月16日 17時14分20秒 | Weblog

蓬(よもぎ)を摘みに山に入りました。山の中腹を練って巡っていく林道を通って2時間ほどを過ごしました。雨が降り出してきそうで不安でした。風もあって寒く感じました。山にはところどころまだ山桜が咲き残っていました。でも、もうそろそろお終いのようです。蓬はビニール袋に3袋も摘みました。林道の脇だったから摘み易かったので、時間は取りませんでした。帰宅して2時間ほど、摘んで来た蓬を揃える作業をしました。一人でこつこつこつこつ。さぶろうはこういう単純作業は割と好きなようです。指先に灰汁が滲みだして青黒くなり、蓬臭くなりました。

前回摘んで乾燥させていた蓬を使って、朝方、小豆餡子の入った蓬団子を作ってもらいました。これが美味しかったので、もう少し蓬を摘んでおこうと考えました。乾燥させておくと一年中、食べたくなったときに蓬料理を食べられます。

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オバヤキをご存じですか

2015年04月16日 10時10分28秒 | Weblog

僕の投げたことばのボールはどうしてこうも曲がるのでしょう。A地点からB地点に向けて投げたはずなのに、ボールが落ちた地点はC地点です。BとCには大きな間隔があいています。放つ拳の役目をしている思考を司る脳波が曲がっているからでしょうね。B地点を想起しているその落下地点に待ち構えているキャッチ・ミットを大幅に外れてしまいます。外野手はもうきみのボールは受け取らないよ、と言うでしょう。なにしろ走っても走っても追いつけないのですから。

オバヤキをご存じですか。これは鯨の皮下脂肪のところの脂ぎった肉を指しています。これで筍や蕗を炊くとおいしいのですが、臭みもあります。脂ぎってどてどてもしています。よほど脂抜きをしておかねば現代人の舌には合いません。子供時分には高価な牛肉などは食べられませんでしたから、このオバヤキが代行をしました。(これはその頃は安価で買えたのでしょう。今は高値で売られていますね) 僕の場合は結構好きで、避けることはありませんでした。家内は小学校時代に給食にこれが出されて食傷をしたと言います。後に残る臭いが駄目だと言います。我が家では、だから、食材になりません。筍も蕗も出汁は炒り子が使われます。ときどき、友人が蕗のオバヤキ料理を作って届けてくれます。電話がありました。これからそれを届けに来るということです。お昼、家内の鼻から遠いところへ座席移動して、懐かしんで食べようと思います。

ふふ、ボールはB地点に落下したでしょうか。

 

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肌と肌をぴったりくっつけて

2015年04月16日 09時28分51秒 | Weblog

わが庭に牡丹が次々と咲き出してきました。でもこのところの雨に濡れて、大輪の八重咲きが重くなっています。首が折れてしまう前に切ってあげねばなりません。そこへいってしげしげと眺めて「きみはきれいだ」の感歎を吐露します。そして「ありがとう」が出ます。

「僕のためにこんなにきれいに咲いてくれて、ありがとう」の感謝が起きてきますが、牡丹は「あなたのためにじゃありませんよ」とも返しません。なんのためにこんなにきれいに咲いているか、その正解は「子孫を造る仲介をしてくれる虫(あるいは蜂)のために」なはずですから、僕は誘惑の電気信号を傍受して、美の快楽の横取りをしていることになります。

僕に見せたって表だった利益はないのです。でもでも、虫よりもずっとずっと僕の方が喜んでいるのはたしかです。虫は芳香の甘酸っぱい匂いに誘われて来て慌てたように蜜を吸うばかりで、美の観賞をしている風には見えません。

歎異抄にはこうあります。「弥陀の五劫思惟の願はひとえに親鸞いちにんがためなりき」 阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて起こした衆生救済の本願が、彼の受け取りでは、<親鸞一人のため>となっています。生きとし生ける者の総数を救済するであって、親鸞一人が相手ではないのは言うまでもありません。傲慢にもほどがある、と言いたいところですが、彼はそういう直接的な受け取り、中間に何も挟まない受け取りをしているのです。阿弥陀仏の肌と親鸞の肌がぴったりくっついています。そこで直流電流が流れています。

どうでしょう? 対する阿弥陀仏はどうでしょう。1対1で、いわばドアップで、自分の願いを受け止めて感涙している親鸞を迷惑がっているでしょうか。うるさがっているでしょうか。間違った受け止めだと非難しているでしょうか。阿弥陀という仏が五劫の間練りに練って得た衆生救済の完全版を、親鸞は一瞬にしてキャッチして阿弥陀仏のその目的である救済に与っているのです。

ごめんなさいね。男性の肌と女性の肌をぴったりとくっつける話じゃなくて、がっかりなさったでしょ。でも似たところがあるのです。これで安心(安らぎ)が得られます。

 

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われは酒池肉林をしている玄宗皇帝

2015年04月16日 08時22分21秒 | Weblog

どんどこどんどこイメージが湧いてきてこれを書き留めるのペンが遅れてしまいます。で、どうしても説明不足になりがちです。このイメージは誰が湧かせているのでしょうかね。海の波のように寄せては返していますから、自然な働きなのかもしれません。波じゃなくて泡かな?

<欲望だけでいる、ということもなさそうだな>とふっとそう思いました。欲望だけでいたらわたしはそれを追いかけることに集中する鬼になってしまいますが、追いかけることを諦めたようにして休憩もしています。草っ原に寝てもいます。こうしていると青空が見えます。白い雲が流れているのも眺められます。ただいま現在はこの休憩タイムです。

お金儲けも欲望ですし、ご馳走にありつこうというのも欲望ですし、自分だけはいい目にあっていたいという我が儘欲望、幸福幸運追走の欲望、美しくて優しくて、支えてくれて助けてくれる異性の隣にいたい欲望というのもあります。いずれ贅沢欲望です。こうして欲望を追求して走り回っているとなんだか活動をしているという実感がありますよね。不思議です。追走を止めてほっと一息していると途端に追走暴走がばかばかしくも思われてきます。

イメージの今日の泡のつぶやきでした。「お前そんなこと言ってたって、なんだ、すぐに引き返して来て悪心の繭に籠もっている蚕じゃないか」という自己反省が今日のイメージ運動のスタートでした。「いいじゃないか、それで」という開き直りがこれに続きました。仏陀のことを聞いて安心をしているかと思うと急に舞台が変わります。次の舞台ではわたしは酒池肉林をしている玄宗皇帝になっています。これじゃいかにもお粗末なんですが。

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片方が片方の不完全を補う

2015年04月16日 07時46分34秒 | Weblog

おはようございます。寒いのでおこたの中に入って暖を取っています。

わたしが愛しいと思っている人、わたしを愛しいと思ってくれる人は一対をなして収まっています。これは球形をなしています。愛しいと愛しいだから二人は抱き合っています。69の形をとります。二人は原初の形をしていてオタマジャクシのようです。頭がでっかくて腹があって尻尾がありますが、足も手も生えてはいません。眼も耳もついていません。思い合っている分には頭だけでもいいのですから。二人で、実はわたしです。片方が陰で片方が陽の性格を帯びています。片方がmale、片方がfemaleかもしれません。いのちをこうやってあたため合います。お宮さんの勾玉にそっくりです。

今朝の瞑想でこんなことを考えていました。さぶろうは瞑想遊びが好きです。わたしが愛しいと思っている人も、それから、わたしを愛しいと思ってくれる人も、わたしの瞑想の住み処の住人です。

さっきは片方がmale、もう片方が femaleの69としてイメージしてみたのですが、片方がhumanで、もう片方が divineとしても面白そうです。人間に近いものと神に近いものの抱擁です。聖なるものと俗なるものとしてもいいかなあ。もう一つの組み合わせはこうです。6はphysical、9はspiritual、つまり身と心です。片方が片方の不完全を補う。相互補完をして安定を保っていると考えても面白そう。

人間には右手と左手、右脚と左脚とがついてバランスを取っています。片方だけではバランスが取れなくて歩きにくいのでしょうね。となると、だ、僕の悪心は僕の善心のバランス調整役の役目をしていることになります。除外対象ではなくなります。こう規定してあげたら、僕の中に居続けている悪心も少しは居心地がよくなるでしょうね。

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