<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

<親の時代+子の時代>の2世を生きる豆

2015年04月17日 13時14分09秒 | Weblog

これは詭弁かもしれない。

ここに隠元豆がある。これで種蒔きをする。蔓なしだから支えの竹を添えてやらずにすむので作りやすい。収獲もいい。おいしい。

種蒔きに使う豆は、さて、死んでいるだろうか、生きているだろうか。

死んでいたら、種蒔きをしても発芽はしないので、生きているとするべきである。袋に入っているが、呼吸もしているはずである。それでも生命活動はまだしていない。だから死んだふりをしているという方が当たっているかもしれない。(稗などは何年間も土の下で死んだふりをしていることができる。条件が整ったら甦生をすることができる)

次の土に宿ってから、豆は根を出し芽を出し成長をすることになる。それまでは待ちの姿勢を取り休眠する。人間で言えば死後と再生の間、つまり中陰の期間とも言えそうである。生きる場所を得たら豆は生命活動を開始する。

わたしは、この隠元豆の待ちの姿勢から、人間の死後と再生のことを連想しようとしています。それでわたしの行く末の姿を見て安心を得ようとしています。

豆が連続したいのちを生きているのは、わたしの眼でも分かります。わたしの死後のあり方は、死後のわたしには見えてこないので、いったいどういう姿をしているのか見当がつきません。でも、ひょっとしたら、この莢にくるまった豆の姿勢をして、<待ち>を実行しているのではないか、そういうふうにも思えます。

親となった豆は死んでいて、子豆のその後の行く末が見えて来ません。だったら不安でならないかも知れません。でも、こうも考えられます。<親の時代+子の時代>をひっくるめた2世を豆は生きているのだ、と。2世でもって1世とすることが許されているのだ、とも。

子豆は親元を離れている。親は子豆を離した後には枯れて死を迎えている。子豆は死んでいない。とすれば、生命の生が持続したということが言えるだろう。

「死んだらどうなりますか?」の問いかけに、わたしはこの隠元豆をついと差し出して、「はい、こんなふうにして生命を持続させていますよ。安心して下さい。わたしたちは永遠の生命を生きることができるようになっています」と答えてあげられるのではと思いました。質問者はわたしの解答を詭弁とするでしょうか。証拠品を見た刑事さんのようにして「死後の一大事」という事件を解決するでしょうか。

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光のあふれる春の野原に出る

2015年04月17日 12時30分21秒 | Weblog

極重の悪人は唯(ただ)仏を称すべし。我も亦(また)彼(か)の摂取の(光明の)中に在れども、煩悩は眼を障(さ)えて見ざると雖(いえど)も、大悲は倦(う)むことなくして常に我を照らすなり。   「正信念仏偈」より

わたしを極重の悪人と思う者は一向に念仏するがよい。この源信も阿弥陀仏の光明のただ中にいるが、見ようとしてもわたしの眼は煩悩の眼で、わたしを摂取する光明すらも見えてこない。そうであるのに、仏は大悲である。倦むことなく拒否することなく、この煩悩の我が身を照らして止むことがない。

ここは源信のご述懐の部分である。源信は「往生要集」を著した恵心僧都(942~1017)、天台宗の学僧である。

大悲(の光明)は倦むことなく常に我を照らすなり。ここで、さぶろうは嬉しがる。ああ、よかったと思う。さぶろうを照らしている光明があった。これは仏の光明であった。光の溢れる春の野原へ出てみる。

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天空の大きな大きなモーター

2015年04月17日 12時09分04秒 | Weblog

わたしの心臓にはモーターが回っています/見たところ/これはわたしの所有するモーターでありますが/ベルトは天空から延びて来ています/はるばる高い天空から/ベルトがわたしへ下りてきて/わたしの心臓を回しています/ベルトを回す力は/自力でなくてすんでいます/モーターは常に出力して/わたしのいのちを活動させます/出力のエネルギーは/入力のエネルギーと同量で/まったく一致しています/ベルトの先を辿って行くと天空に出ます/天空にも大きな大きなモーターが回っています/

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人はその人の思う世界を所有している

2015年04月17日 10時54分11秒 | Weblog

とかなんとか、あることないこと出任せのあれこれを言って聞かせて、詰まるところ、わたしを慰撫しています。それでもなお、この<わたし>というのがなかなか慰撫されないのです。天邪鬼です。駄々を捏ねてばかりなのです。70年を言って聞かせてこうなのです。しょうがないなあと思います。

人は、結局のところ、その人が思う世界を所有しています。こうだ、これしかないと思い詰めて思い詰めて、俯瞰すればそれでも自己の領海内を抜け出すことがかなわない海亀のごとくにして、ぶらんぶらん、不安定のままそこを終の棲家としています。棲家としている領内は狭いので宇宙中の思想をそこに立ち上げているわけにはいかないのです。お金だと思っている人はお金をそこに列べてそこを自己所有して世界にしています。色恋だと思っている人、名誉だ出世だと思っている人、芸術活動だと思っている人、宗教だと思っている人、みな一訛言を持ってそこに落ち着き場所を求めています。

莫妄想(まくもぞう)! さぶろうよ、汝、妄想をすること莫(なか)れ! さぶろうの海に起こってくるのはみな妄想という荒波ばかりです。妄想には根拠がありません。主観的に過ぎています。仏智見の対岸にあります。

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無制限の豊かさ

2015年04月17日 10時24分28秒 | Weblog

どらだけでもたくさん有るものを自己所有したいとは思いませんよね。少ししかなくてそれが貴重であるから、価値が生まれて来るわけです。すると欲しくなる。価値あるものを人に渡したくなくなって、自分の懐に抱え込もうとする。これが所有の欲望ですよね。自分だけが持っているっていってひそかに自慢にします。でもそれがどれだけでもたくさんあって、いつでも誰でも所有できるものであれば、どんなに価値があるものであっても放置しておくでしょう。逆に人に所有欲、購買欲を起こさせるには、数を減らせばいいわけです。豊かさを極度に制限すればいいのです。世界中に一個しかない、これを謳い文句にすれば、鼻効きが聞きつけて来て是非自分に売ってくれとせがみます。<制限つき>これが決め手になります。われわれもこれにうかうかと乗ってしまいます。

でも無制限の豊かさもあるのです。これは無制限である故に価値を主張していませんから、見る目を持つ者だけにしか魅力を放ちません。でも、そういう無制限財宝というのもあるのです。それがあらゆる人にこの財宝を供給しているために財宝性を発揮しないのです。たとえて言えば、空気です、水です、光です。これは間違いなく豊かさです。個人所有の財布の中には収まりませんが、それでも札束や硬貨よりもうんと値打ちがあるものです。わたしたちはこれら無制限の豊かさに包まれて暮らしているという現実を見失いがちです。

大いなるものに抱かれ在ることを今朝吹く風の涼しさに知る

これは妙心寺の管長をした山田無文老師の述懐です。若い頃老師は、当時死の病とされた結核に罹患し隔離されました。結核は伝染病ですから、家族の者も知人も容易に近づいて来られません。それで老師は全ての人から見放されたような不安感に苛まれました。病状は日ごとに悪化します。ある朝、縁側に出て憔悴の体を横たえているときに一陣、春の風が老師の足下を吹いて過ぎました。その時の歌です、これは。ああ、捨てられてはいなかったんだ、と考えを改められたのでした。自分は春風という大いなるものにいつも抱かれていたのだ、生きよ生きよと力づけをしていてもらったんだ、と。わたしを生かそうとしているものは春風だけに限りません。無制限です。制限のついたものだけに心を牽かれていることが多いのですが、豊かさが無制限であることを知ればそこに勇気や安心や喜悦が付与されて来ます。

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空は豊かだ

2015年04月17日 09時39分56秒 | Weblog

おはようございます。久しぶりの快晴です。空の色が澄んで、いい色をしています。たちまち癒やされてしまいます。風もありません。

庭の垣根にクレマチス(テッセン)が這い上がってきて咲き出しました。ポピーもアイリスも咲き出しました。最も華やかなのはなんと言っても牡丹花です。濃い紫、薄い赤、深い朱、ピンク、純白と色とりどりです。見てあげねば彼女たちは大粒の涙をこぼしてしまいそうなので、そこに椅子を持ち出して来てじっくり見て観賞をしています。

僕の今日の計画は畑へ出て土作りを続けることです。畑が(麻痺の僕にとっては)広いので、重労働です。ぽかぽか陽気なので、でも、愉快を覚えそうです。

空は豊かだな、と思います。財布のお金の豊かさは制限がついていますが、空の豊かさには制限がついていません。欲しければどれだけでもどうぞ、という感じです。空の豊かさを、しかし、僕が所有できるかどうかです。もちろん僕の個人所有にすることはないのですが、人間の場合には所有してはじめて豊かさを実感するといった特長があります。でも、無所有にしていてそれでも豊かさを実感できればそれが気楽で便利です。豊かさを実感できるこころが、こころの豊かさなのかもしれません。

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