これは詭弁かもしれない。
ここに隠元豆がある。これで種蒔きをする。蔓なしだから支えの竹を添えてやらずにすむので作りやすい。収獲もいい。おいしい。
種蒔きに使う豆は、さて、死んでいるだろうか、生きているだろうか。
死んでいたら、種蒔きをしても発芽はしないので、生きているとするべきである。袋に入っているが、呼吸もしているはずである。それでも生命活動はまだしていない。だから死んだふりをしているという方が当たっているかもしれない。(稗などは何年間も土の下で死んだふりをしていることができる。条件が整ったら甦生をすることができる)
次の土に宿ってから、豆は根を出し芽を出し成長をすることになる。それまでは待ちの姿勢を取り休眠する。人間で言えば死後と再生の間、つまり中陰の期間とも言えそうである。生きる場所を得たら豆は生命活動を開始する。
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わたしは、この隠元豆の待ちの姿勢から、人間の死後と再生のことを連想しようとしています。それでわたしの行く末の姿を見て安心を得ようとしています。
豆が連続したいのちを生きているのは、わたしの眼でも分かります。わたしの死後のあり方は、死後のわたしには見えてこないので、いったいどういう姿をしているのか見当がつきません。でも、ひょっとしたら、この莢にくるまった豆の姿勢をして、<待ち>を実行しているのではないか、そういうふうにも思えます。
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親となった豆は死んでいて、子豆のその後の行く末が見えて来ません。だったら不安でならないかも知れません。でも、こうも考えられます。<親の時代+子の時代>をひっくるめた2世を豆は生きているのだ、と。2世でもって1世とすることが許されているのだ、とも。
子豆は親元を離れている。親は子豆を離した後には枯れて死を迎えている。子豆は死んでいない。とすれば、生命の生が持続したということが言えるだろう。
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「死んだらどうなりますか?」の問いかけに、わたしはこの隠元豆をついと差し出して、「はい、こんなふうにして生命を持続させていますよ。安心して下さい。わたしたちは永遠の生命を生きることができるようになっています」と答えてあげられるのではと思いました。質問者はわたしの解答を詭弁とするでしょうか。証拠品を見た刑事さんのようにして「死後の一大事」という事件を解決するでしょうか。