若い頃に室生犀星の詩を読んだことがあった。そこに蛙の恩返しを題材にした詩があったように記憶しているが、例によってうろ覚えの類いかも知れない。鶴の恩返しは演劇で見たことがあるが、蛙が恩返しをしに来るというのは斬新だった。芥川龍之介の蜘蛛の糸は、蜘蛛を助けてあげた男の物語であった。人は悪いことを数限りなくするものだが、中には善いこともすることがある。であれば、これはよい結果になって返ってくるはずである。
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田舎では周囲を田圃に囲まれている家が多い。発情期の蛙は相手を求めてよっぴいて鳴く。やかましくて寝られないと嘆く人もおろうが、ロマンス音楽隊合唱をしてくれるのでなぐさめられると褒める人もいる。「げろげおろ、がろげろ」が「(お前の家に)がね(お金)あげに来る」と聞く人もいる。聞き方は自由だ。
自分は若い頃に蛙を助けてやったことがあったので、蛙はそれを忘れず、あんなに一晩鳴いて鳴いて、「あの時は有り難かった。命を助けて貰って有り難かった」とお礼を言い続けているという設定。そんなのを詩にしてあったと思う。
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<よいことが重なって重なってわたしが今をよく生きている>という受け取り方がある。もちろんその逆もあろう。<悪いことが重なって重なってわたしが今を悪く生きている> 不本意だがそういう受け取りをする日もあろう。蛙の鳴き声をわたしが今聞いているというのはそのどっちなのだろう。悪の循環なのか、善の循環なのか。そのどっちでもなく乾いているか。
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わたしによいことが起こるためのファクター(因子)が縦横斜め上下にずらりと列んで繋がったので、その中心核にいるわたしの今日の幸福や幸運が成り立った。とすれば? あくまでこれは仮定なのだが、もしそれが真実で、それをわたしがその真実を客観的に認め得たとすれば、どうなのだろう。わたしは眼前に広がる春の空をもっと美しく見ることができるに違いない。もっと嬉しく見ることができるに違いない。
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春の空をわたしに見せる条件が/すべて整ったのだ/条件は100の100乗個も必要だった/これが一つも欠けないでぴったり揃っていた/わたしはこうやって春の空を見た/すべてのよい条件が/わたしの今日をゴールに据えて/すべてよく働いた/そしてその結果を/わたしは静かに受容した/雲がふんわりふんわり浮いて遊んだ/