彼(か)の仏の光明は無量にして十方の国々を照らすに障礙あることなし。是の故に号して阿弥陀と為す。 「仏説阿弥陀経」より
*
「どういうわけで彼の仏を阿弥陀と名づけるのであろうか」とお釈迦様が弟子のサーリプッタ尊者にお尋ねになり、尊者が答える以前に自分からこうお説きに成られた。仏の放たれている耀きが計り知られないほど耀き続けて止まることがなく、東西南北、その中間の4方向、更に上下の国々を照らしてもなお耀き続けて遮るものもない。この無量という仏徳があるゆえに彼の仏を無量光仏・無量寿仏と申し上げるのである、と。
阿弥陀仏になられたのでもはや光明そのものになられたのである。光明が耀いているのでその耀きの力でもって、ガンジス川の砂の数ほどもある仏の国々ですら耀き出されてくるのである。
*
さぶろうはこうやって仏さまのことを知らされる。仏さまを知らされるほどのさぶろうになっているのである。彼はこの事実をありがたがって拝領する。拝領できるものは希有であるとしてまた有り難がるのである。とまれ、この地点まで彼は歩みを進めてきたのだ。仏さまのことは経典にも書いてあるので決して秘密ではない。覆い隠されているのではない。隠してあるのではないけれども、これまでは見えてこなかったのである。聞いても受け止められなかったのである。
阿弥陀仏の光明はさぶろうのいるところをも照らしてきて、無明の人さぶろうの、無明をも障碍としていないのである。煩悩の人さぶろうの、煩悩をすら障碍とはならなかったのである。この光明の中にいるさぶろうもまた、この阿弥陀を知って耀いているのである。