四月一日になりました。ミヤコワスレの青紫の花がぽつぽつと咲き出しました。一冬を過ごす間に株分かれが進んで10~20の茎が伸びてきています。これが新しい親株になります。そこで、それぞれの新居を作ってやろうと思い立って、庭に出て株分け作業をしました。これを小さなポットに移植します。10鉢ほどになったところお昼になりました。新しく買ってきた培養土をたっぷり使いました。ミヤコワスレは直射日光を嫌いますから、裏手の日陰に置いてやりました。
屋敷内の藪のこんもりした山椿に来て鶯が鳴いています。これがとても上手なのです。短いけれどはっきりした高い声が出ます。男性ですからテノールでしょうか。おもわず「きみは上手だねえ!」の褒め言葉を連発させました。仲良くなろうと思って、わたしはしばらく鳴き比べをしました。縄張り争いをしていることになったかもしれません。しばらくして彼は飛び去っていきました。「恋路を邪魔しているのは人間かあ」 或いは腹を立てたのかもしれません。これでお目当てのメスに逃げられてしまったのなら申し訳のないことでした。でもね、あんなに上手に鳴くのですから、メスだってうっとり聞き惚れていたに違いありません。
4月が来たというのに、さぶろうは何にもしていません。何処にも行きません。朝からずっとヴァイオリンの名曲集を聞いているだけです。思い切って何かをすればいいのにと思います。でもそれが何であるのかが分かっていません。終わりの日が近いというのにこのていたらくです。成長が望める間に成長をしておくべきです。錬磨ができる間に錬磨をしておくべきです。其れが分かっていながらそれでも何にもしていません。何処にも行かずにここででもできることが見付かればいいのですが。しばらく法華経経典の朗読をしていたらどうかと思います。プリテンド(仮装・ふり・そのつもり・代替)ができるかもしれません。仏の国に居る瞑想をするよさそうですが、この頃はそこへ行き着く前にすぐに寝入ってしまいます。
深諦善念 諸仏法海 窮深尽奥 究其涯底 「讃仏偈」より
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じんたいぜんねん しょぶつほうかい ぐうじんじんのう くごがいたい
深く諦(あき)らかく、善(よ)く、諸仏の法の海を念(おも)い、深きを窮め奥を尽くし、その涯(はて)と底とを(師の世自在王仏は)究めたり
仏を讃歎する偈を宣べておられるのは法蔵菩薩です。阿弥陀仏に成られる際のお誓いですから、師の世自在王仏と等しからんと念じておられるはずです。
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諸仏の法の海はそれほどに深いのです。窮め尽くすことができないほど深い法の涯底を仏は明瞭に窮め尽くしていらっしゃいます。その仏の胸の内はどんなものだろうかと思います。わたしがやがて仏に成る日が来たらこれが味わえるかと思うとわくわくします。法(真理・ダンマ・真如界・宇宙成り立ちの原理・仏が悟られた内容・エネルギー体の調和・仏の智慧・正覚者の歓喜の実態)があると思うだけでも勇気を貰います。経典の仏の言葉から凄まじいエネルギーがわたしに流入してきます。明るい熱い活発なエネルギーです。
4月6日に小中9年の一貫校「玄海みらい学園」が開校式を迎えます。開校おめでとうございます。9年をかけて多くの有為の人材が育まれていくことを切望します。
依頼された校歌もここで発表されます。作詞を担当しました。お招きを受けましたが、残念ながら都合がつきません。どんな曲になっているか楽しみです。
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「玄海みらい学園 校歌」
1
玄海の 青の海原
みどりに匂う 峯はるか
よきふるさとに はぐくまる
幸(さち)を桜の ことほぎぬ
ああ 玄海みらい学園
われらが誇り
2
はらからを 愛し愛さる
この大いなる 実践の
ここは道場 朝なさな
われら集いて 稽古する
ああ 玄海みらい学園
われらが誇り
3
何者ぞ 問へるわれとは
微にして大と 彼方より
説いてわれをば かがやかす
宇宙の意思と対話せむ
ああ 玄海みらい学園
われらが誇り
4
究むれば 深き智のあり
高揚の意気 熱ければ
おのれ律して 調(ととの)えて
新大陸を 目指し行く
ああ 玄海みらい学園
われらが誇り
5
一道を 貫き九年
大いなる道 はろばろと
続く未来を 語り合い
われらたがいの 音を知る
ああ 玄海みらい学園
われらが誇り
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2番では、学校とは<愛の実践を毎日稽古する道場>だと規定してみました。
3番では、<問いを発するわたしとは何者であろうか>という問いを投げかけました。ここは<わたしを耀かしてくる宇宙の意思と対話をする場>であるとも考えました。
5番では、<われらたがいの音を知る>と謳いました。音を知る<知音>は友情で結ばれた親友のことです。わたちたちは胸の内でいつも琴を鳴らしています。それが聞き取れる間柄、思いが伝わってくる間柄が親友という間柄です。
我が家の庭に咲いている桜が「こんなに美しく咲いたわたしをどうして一日ずっと見ててくれないの?」と言います。悲しそうに言います。「雨だからね」とわたしは答えます。雨に煙っているからはっきりと見えないのです。彼女はつまらなさそうな顔をします。「わたしの美しい時は短いから美しい間をずっと見ていてほしい」と彼女は訴えるけれど、わたしが見ていたら、それで、彼女の美しさが長く続いていくという保証もありません。花が散った後には葉をつけます。全身を新緑にした葉桜もそれはそれで美しいのです。真夏の青空に映える凜々しい姿もそれはそれで美しいのです。わたしはまるで神様にでもなったような気持ちになって、さまざまに慰めの言葉をかけてやりました。
おはようございます。雨音がしています。ザアザア降りではないようですから、これで満開の桜の花弁が落下してしまうことはないでしょう。障子戸を開けて外を見ましたが、小糠雨ほどのようです。でも、これで大地は潤いました。地下茎にも水分が届いて来て発芽が促されてきます。
元気振りまき業の孫たちが帰っていったのでいきなり静かになりました。ドタンバタンもありません。キイキイキャーキャーもありません。スレートに落ちて跳ねる雨音を聞いてゆっくりゆったりしています。わたしの禿げ頭を珍しがってぺたぺた触って遊ぶ遊びもなされません。
今日から四月です。一年の4分の1が過ぎたことになります。あっという間でした。3日には高校時代の友人たちが集まって来ます。花見の宴に誘われています。雨の予報なので花の下にむしろを敷いて肩付き合わすことはないでしょう。6日には自動車免許証更新のために自動車学校へ講習を受けに行かねばならなくなりました。老人の交通事故が頻発しているからでしょう。老人の申し込みが殺到しているらしく、予約から2ヶ月待ちです。
15日、22日は県立衛生専門学校へ行って、看護士を目指す入学生を相手になにやら話をすることになっています。若い人たちがこんな老人の話す面白くもない話などに耳を貸すわけがないのですから、こころの負担になります。「病む人死ぬ人の心のケアをどうするか」といった内容が与えられた主なテーマです。
良禅師の「災難に遭う時は災難に遭うが宜しく候。病む時は病むが宜しく候。死ぬ時は死ぬが宜しく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」という句があります。災難や老病死などが襲いかかってきた場合に、直前回避こそが妙法のように思われるのですが、ここを受けて先に進んでこれを超越して行くという別の回避法もありそうです。「人はほんとうに死ぬのか」の命題から始めて行こうと思います。
それがすんだら四国88カ所のお遍路道を辿って行こうと思っています。お詣りをし残しているお寺を回る予定です。それを敢行するだけの健康が維持されていればの話ですけど。装束(手甲脚絆・草鞋はつけない)を整えて一人で回ります。これまでわたしの成長を願ってさまざまに力を尽くしてくれた肉体という同伴者、慰めや励ましを忝くしたこころ、精神、意識、霊魂といった同伴者たちと語り合う機会を設けます。ねぎらいをしてお礼も言いたいのです。雨期の前には遍路旅を切り上げようと思います。