<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

大きな顔をしている

2015年04月04日 11時22分23秒 | Weblog

テッセン。別名クレマチスはキンポウゲ科の落葉蔓草である。中国が原産地。茎は針金のようにしていて他の植物に巻き付いて上る。根は生薬の「威霊仙」となるらしい。通風に効く。季語は夏。初夏に六弁の花を着ける。どっさり着けるので園芸品種として親しまれているようだ。これが庭の4カ所に一塊で発芽して来た。この陽気で一気に蔓を伸ばして来たので、先日その支えを作ってやった。女竹を3カ所に立て、これにテープを回して蔓が絡まりやすいようにした。どれも植えてから5~6年は経っているし、肥料もたっぷりしておいたから、茎数も多く威勢がいいようだ。愚かなさぶろうは、テッセンの傍に立つと、だから庇護者の顔をして大きな顔をしている。

 

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ぶらり

2015年04月04日 11時10分58秒 | Weblog

さあて、と。ぶらりしてこよう。下はブルージーズ。上は深いグリーンの長袖シャツ。靴はいつもの運動シューズ。禿げ頭には帽子をのっける。ジーンズの後ろの右ポケットにはタオル、左には財布。シャツの胸ポケットには眼鏡とテイッシュ一袋。何処へ? 宛先は未定。何をしに? 

このところこの地方では絶滅危惧種の鵲(カササギ)を観察に、としておこう。先日久しぶりで二羽の番いを見つけて喜んだ。繁殖力の強いハシブトガラス、ハシボソガラスに追い立てられて住む場所を失っているようだ。カササギは別名カチガラス。戦争中は<勝ち>が尊重されて縁起のよい鳥とされたようだ。

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植物はこれをしない しないでいられる

2015年04月04日 10時51分39秒 | Weblog

エビネ蘭が発芽してきたかと思うともう花芽を着けている。金高のものは持っていない。藪の日陰にひっそり立っている。「わたしを見て」のアピールはしないようだ。だから、それほどに華々しくはない。それでも近づいてよく見ると鮮やかな淡い黄色だ。すかさず「ああ、きれいだなあ」「きみはきれいだ」の賛美を浴びせる。

新聞やテレビのニュースは毎日これでもかこれでもかという具合に、あくどい事件を報じている。繁栄を謳歌しながら、その反面、繁栄の森の沼地では、騙し事件、脅し事件、殺傷事件、襲撃事件などなど暗いニュースもあとを絶たない。人間社会は、ある一面では我先に悪智慧の競争をしてところが垣間見られるが、植物はこれをしない。

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憎めないお道化者

2015年04月04日 10時28分42秒 | Weblog

八重葎(やえむぐら)が垣根の木に蔓で捕まって高く高く這い上って来て、そこがこんもりの草藪をなしている。朝、庭を歩いていて気がついた。全体、あざやかな黄緑色をしている。人がそこで歩くと、衣服にぺたりと貼り付き、絡まって付いてくる。茎や葉はほっそりして軽くて、ややねばねばしている。逆向きの棘を付けている。万葉集にもこれが歌われているから古代にも繁茂していたとみえる。アカネ科。夏には小さな花も着ける。越年する。

おとついは、石竜子(とかげ)を見つけた。石垣から出て来てちょろちょろ動き回った。逃げる風もない。「やあ、こんにちは」「ちは」「いい季節になったね」「だね」「きみは元気だね」「きみも元気だね」「さあ、お日様の光を楽しもう」「うん、楽しもう」などとお喋りを交わした。こちらを振り返り振り返り、彼は一人散歩に出掛けて行ってしまった、意気揚々と。憎めないおどけ者である。

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アビバッチの位置にいる者 

2015年04月04日 07時13分26秒 | Weblog

サーリプッタよ、極楽国土には、衆生にして生まれん者は皆、是、アビバッチにして、その中に多く、一生補処(いっしょうふしょー)(の菩薩)有り。その数、甚だ多くして、是、算数(さんじゅー)の能く之を知る所に非ず。但だ無量無辺、阿僧祇(あそうぎ)劫を以て説くべしや。  「仏説阿弥陀経」より抜粋

*  

アビバッチ:サンスクリット語アヴィニヴァルタニーヤの音写語。不退転と漢訳される。仏に成ることが決定したこの位置に辿り着けば、迷いの世界に二度と後退しない。

阿僧祇(あそうぎ)劫:どんなに長い時間をかけても数量では計算できないほどの、時間の単位。

一生補処(いっしょうふーしょー):仏に成る修行が進んで来て、補う処が今回のこの生の一生だけでよくなっていること、またはその段階にまで到達した人(つまり菩薩)。

菩薩:仏の智慧に到達した段階の修行者。利他の実践者。彼らはいつでも仏になれるが、衆生救済の利他行に留まって、代受苦(苦しんでいる人に代わって苦しみを受ける修行実践)をしていることができる。観音菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩などの有名人だけではない。その数が数えることが不可能なほどに、桁外れに多いと記述されている。

極楽国土に生まれている者は、先の一生涯が最後の流転の生涯で、もう二度と迷いの世界(六道)には戻らないのである。彼らは修行を積み重ねてきたので、菩薩と呼ばれている。仏の智慧を具えるまでになっているのだから、いつ仏の位に昇進してもいいのだが、なおも衆生済度を己の任務としている。そういう人ばかりである。

菩薩は利他行をしている修行者である。衆生という患者から苦の棘を抜いている、いわばお医者さん、内科医外科医である。あんまり痛い痛いと泣き叫ぶ人がいたら、そこですかさずその人に代わって苦を受けることもできる能力・神通力があるから、マジシャン、或いはスーパーマンでもある。

苦の衆生は苦界に居るわたしたちである。苦界は、菩薩たちにとっては異界である。そこを難なく飛び越えて来て、人間の姿を取って救済業務・済度に明け暮れる。この集団は地上かではサンガと呼ばれている。僧の集まりである。仏・法・僧の、僧である。仏法の実践者である。彼らが存在しなければ、仏も仏法も活動できないので、その任務はまことに重大である。

仏陀(お釈迦様)は法を説くこの僧を菩薩中の菩薩、アビバッチとして讃えられたのである。この故に彼らは退転(利己の欲求を満たさんとして迷い込む迷界への退転)などしてはいられなかったのである。

阿弥陀経を、今朝のさぶろうは、このように読んでみた。阿弥陀経は阿弥陀仏の教えである。これを解き明かしているのは仏陀、お釈迦様である。「苦しんでいる者・さぶろうを救うぞ救うぞ」と書いてある。

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いたわり合って慰め合って

2015年04月04日 06時46分41秒 | Weblog

庭の姫林檎(高さ2m弱)の蕾が膨らんでわずかにピンクになって来ました。数はでもまだほんの少しです。今朝は雨が止んでいます。大地も草木もしっとり濡れて潤いを見せています。無風です。長方形のプランターに蒔いていた南瓜の種が数個だけ発芽しています。長い冬の間、室内に寝かせて新聞紙で防寒していた隼人瓜からも、新聞紙の包みを解いてやるとすでに芽立ちが起こっていました。大地に埋めてあげようと思います。

昨日は市営「老人憩いの家」の一室を借りて高校時代の友人たちと花見の宴を開きました。外はどしゃぶりです。部屋の窓から散る桜を眺めました。貸し室料金は2時間250円でした。延長をしました。12時ちょっと前に皆が揃いました。お弁当は福岡にいるY君が、高速バスを乗り継いで持参して来ました。さぞかし重たかったことでしょう。女性も2人都合をつけて駆けつけました。ビール、日本酒、焼酎も持ち込みでした。他にも客がいるので大声は出せません。若い頃にタイムスリップしてなごやかに談笑しました。それぞれ一病二病あるけれどまあまあ息災というところのようです。そこそこ元気にしているとこうやって友人らと会うことができます。いたわり合って慰め励まし合って、お喋りを楽しみました。4時には帰宅しました。

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