この世は美しいところでなければならない。何が何でもそういう設定をしておけなばならない。そのために美しい珠子をここへ登場させる。こことはキャンバスのことだ。僕には強引さがあるので、モデルの珠子は迷惑そうにしている。迷惑そうにしているのはことばの端々で読み取れる。それでも美しい。何度も何度もはっとするほどに。僕は珠子の目を見る。見てはいけない目を見る。珠子は<わたしはモデルなんだからあなたの眼を受け止める立場にはいない>と言ってきかない。それでも僕は珠子の目を見ている。美しいからだ。妖しいからだ。そんなふうな珠子を寄こして下さいと天上界のブラフマンに頼んだからだ。それで女神の一人のチュルダーが地上界に下りてきたのだ。女神だなんていうのは僕には面白くない。僕は人間の珠子でいい。テーブルの下に珠子のほっそりした足先が延びてきて危うく僕のそれと交錯しそうになる。火花が散って熱を発して足はともども融け出してしまうだろう。そういう心配が過ぎる。そうなったらなにもかもおじゃんになってしまう。これを一度きりにはしたくない。もう一度珠子と会いたい。このキャンバスの中のバス停で会いたい。
さぶろうは言葉の水彩画を描いている。絵の具はクレヨンだ。これは水に溶けるので淡くて美しい。ここへ珠子を登場させる。珠子は美しくなければならない。どうしたってそうでなければならない。僕は珠子を直視できないで珠子の膝から下だけを見ている。足には白い運動靴が履かれている。スカートが白い。縫い目が後ろにとってあって、わざと目立つようにしてある。僕は珠子の上半身を見てないくせに、水彩画では見ているように描かねばならない。珠子の胸の膨らみをつける。腕はノースリーブではなく手首まで延びていて、その眩しく白い健康体を隠してある。シャガの花が咲いているところへやって来た。滝の音がしている。僕は滝の響きとシャガの花の青紫の斑点を描きとめて一息をついた。見上げると空は薄青くしてまるで無表情の珠子のこころを代弁するかのように広がっていた。
「ねえ、僕といっしょにいるのはつまらなかった?」僕は珠子に問いかける。ぶしつけな問いだ。珠子の歯並びの美しさが完璧だという単純な事実を僕は見て取る。珠子は口をしっかり締めているのではなく、少し笑っている。当惑しているのだ。そりゃあそうだろう。珠子はデートをしただなんて思ってもいない。「わたし、あなととデートをしたつもりはないんだけど」珠子はやっと思いを声にする。モミジの若葉が光に撥ねて遊んでいる。そこからは眼下に沼地が見えた。沼地の周辺にモミジがそれぞれしなやかな肢体を見せて伸びていた。それぞれが影をなして全体が深く厳かになっているのだ。
Aが安定をしていればBとCは安定をする。なぜなら、Aがピラミッドの下層部にあって全体の10分の7を占めており、残りの10分の2の表層をBが占め、表層の最上部の10分の1をCが占めているからである。形を持って見えているのは、そのうちのCだけである。表層界が現象界である。ここでこの世のさまざまなドラマが起きている。
Cは、分かり易く説明をするとなれば、身体的な健康を指している。Bはこころの健康を謂う。Aは、霊的な健康である。ピラミッドは海に浮かんでいるので氷山になっている。BとCは水面上に現れている現象界の動きである。それに引き替え、Aは海面に沈んでいてまったく見えてこないので、その存在すら危ぶまれているが、これが地球を例に取れば中心核のマントルである。
BとCはこの世限りであるが、Aは世を貫いているので不変である。BとCが諸行無常に晒されるのに対して、Aは晒されることなく永遠不変で、向上する生命体の過去と現在と未来の三世を支えていて揺るぐことがない。でもわれわれ無明のともがらは現れている現象のBとCにのみ眼を取られていて、Aを尊重する気風がない。尊重されなくともAは貢献を続けて憚らないのである。
表面上に現れない木の根が地上の幹や枝や葉や花や実を支えているが、支えていることを自己主張する者は根にはなれないのである。
昼間の雹は凄かったんだア。晴れ間が出てから畑に出てみたら、蕗の葉っぱを雹が貫通した跡(無数の穴)がついていた。蕗の葉っぱが柔らかかったこともあるだろうが、風に揺れる葉っぱを瞬時に直通していったのだ。夕暮れ時になった。またしても大粒の雨だ。雷鳴が重々しく轟いている。
性は粘りつく/粘りつく粘着性を/表出させているので/淡泊ではいられない/単独ではいられない/性は粘り合っている/異なる性に/食らい付いて/そこで充足を見る/哀しきものにして/愛(かな)しいもの/重層構造をしてしか/深まらないもの/獣の性(さが)の春の春愁/這い出た昆虫どもが折り重なる/真っ赤な獰猛/おお、ぬるぬるの蛙どもを包んでいる/ねばねばの液体と臭気
3時半頃にバタンバタンバタン、バチンバチンバチンと撥音を立てて突如、雹が降りました。大粒でした。小半時の間の出来事でした。屋根を真っ白にして積もりました。地表に進み出てきた植物の芽がすくんだだろうと思います。凍傷にかかっていなければいいがと心配です。その後はまた青空が出ています。
「健康は完全な肉体的、精神的及び社会的、福祉(=安定充足)の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」 WHO世界保健機構の憲章では健康の定義はこうなっていました。ここに改正案が持ち出されています。健康は<肉体的な健康と精神的な健康と社会的な健康>の4部門の状態を兼ね揃えたものである、としていた定義に<霊的健康状態>が追加され、さらに<dynamic(動的・活動的)>が健康状態の前に修飾されました。
つまり、人は身体的不健康、精神的不健康、霊的不健康、その他多くの社会的不健康によって病んでいるということを定義づけています。
1の身体的不健康と2の精神的不健康(の一部)を治療する役目を負っているのは医療従事スペシャリストです。3の霊的不健康や4の社会的不健康は病院に居る医療従事者の守備範囲にはありません。しかし病人はたしかにこれによっても病んでいます。同時併発している場合もあるでしょう。3の霊的不健康の健康回復は多く宗教界の活動が担っていますし、4のその他の多くの社会的不健康の健康回復業務は社会全般、とりわけ政治家の任務でしょう。2の回復は一部、教育家や文学者、音楽家、芸術家、エンターテインメント業者の任務でもあります。
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霊的不健康とはどんなことなのでしょう。死後の一大事が解決されていない状態、つまり安らかに死ねるこころが(生きているうちに)育ってきていない状態だと想像します。身体が健康でもこころが健康でもそのずっと深いところをしめる霊的存在が不安定で調和を欠いている場合があります。海に浮かぶ氷山をイメージすると分かり易いと思います。海面より上に出て活動している部分が身心です。海面よりしたの多くの部分が身心の活動を支えている霊的生命体(スピリッチュアル・ボデイ)です。身心は現世の一代限りの消耗品なのですが、霊的生命体は永遠不滅の生命維持コア(中核)本体です。ここが不安定になると身心までが揺らぐのです。
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仏陀は涅槃寂静こそがこの霊的不安を解消するものだとしました。涅槃寂静はニルバーナです。悟りです。仏智見です。信仰心です。宇宙との大調和、大いなる信頼と安定です。
以上はさぶろうの独断偏見です。ご自分の解釈にはご自分の所見を加えて下さいね。
人は病みます。健康体がバランスを崩します。天候とよく似たところがあります。晴れたり曇ったり雨になったり嵐になったりします。大気の天候不順だったら、そのうちにまた回復が期待できますが、人間の健康不順は回復を強く意図しなければなりません。
人は病みます。不本意ですが病みます。病みたくはないのですがそうなることもあります。病むと当然、専門医療スタッフに治療や介護を施してもらうことになります。自治能力に依存しているだけですまない場合も起こります。何処が病んでいるかによって治療の内容も変わってきます。複数の部位が同時に不順になっていることもあるかもしれません。病巣が形に見えているとは限りません。病名がつかない病、もしくは病気とは言えない病もあるでしょう。
四月はどうも天候が不順である。からりとした晴れが長続きしない。いつの間にか曇って来て雨が降り出す。ひょいひょい寒い。
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文章がおいしいご馳走に化けるならいいなあ。読んだら腹が満腹になる。こうだったらいいな。すると、このブログはレストランに早変わりする。
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こころにも腹があるのかもしれない。するとこころの腹をみたさなければならない。そういうことになる。
何を食べたらいいか。いろいろあっていいが、そのうちの一つは安心だろう。こころを安らかにするものだろう。文字通り病気治療をする癒やしになるミールもあっていいだろう。摂取したらどんどん若返るという成分を含むものも喝采を勝ち取るだろう。気宇広大になってくよくよがなくなる、そういう効果のあるのも悪くない。こころの沼が澄んでくるという効き目があるのも魅力的だ。何よりかにより、しかし、食べたら楽しくてならなくなる、嬉しくてならなくなるメンタルフードが一番人気になるだろう。
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腹を満たす食糧は口から摂取するが、こころを満たす食糧は口からではなくて耳からだったり眼からだったり、鼻からだったり皮膚からだったりするかもしれない。だとすると、口からだけだったときの数倍は余計に「おいしい」がつぶやけることになる。
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ん、まあ、しかし、みんなもう既にこの種の食べ物はたくさん食べているよね。でも、神様や仏さまが食べている食べ物となるとどうだろう。あんまり食べてはいないかもしれない。神様や仏さまでも食べるのかあ、という疑問がろう。ごもっともだ。ところがこれがあるのである。人間(正確にはこの世の生命体のすべて)のよろこぶ声である。だから、さぶろうがよろこんでいると、それは神様仏様に食事を差し上げていることになるのだ。これが供養ということだ。
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例によって話が八艘飛びになってしまったようだ。申し訳ない。スタートに戻ろう。スタートは、さぶろうの書いているブログが少しでも読者の腹の足しになってくれればいいが、ということだった。願望からの出発だった。そうだった。しかし、その前にやるべきことがあるんじゃないか。料理人のさぶろうがコックさんの腕を磨いておくということ、これが不可欠だろう。安心を与えたいのならまずコックさんが安心をしているということが大切なような気がする。
彼にはそれができるか。できるのである。方法は? さぶろうがみなさんのレストランを回って食べ歩きをして行くことである。相互にこれをしていればいいはずだ。ときには神様や仏様のレストランへも出掛けて行って味見をしてくるとよさそうに思える。